第33回 資本論の学習 第1篇 商品と貨幣 第1章 第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値(価値の実体 価値の大きさ)p621行目~63末まで
それは、時と所とともに絶えず変動する関係である。それゆえ、交換価値(51)
は、なにか偶然的なもの、純粋に相対的なもののように見え、したがって、商品に内的な、内在的な、交換価値(固有価値)というものは、一つの形容矛盾"に見える。事態を、もっと詳しく考察してみよう。
(六)「価値とは、ある物と他の物とのあいだに、ある生産物の一定量と他の生産物の一定量とのあいだに、成立する交換関係である」(ル・トローヌ『社会的利益について』、[所収】デール編『重農主義学派』、パリ、一八四六年、八八九ページ)。
(七)「どんな物も内的な交換価値というものをもつことはできない」(N・バーボン、前出、六ページ)。あるいは、バトラーが言っているように、
「ある物の価値は、ちょうどそれがもたらすであろうだけのものである」。
*1 [「丸い三角形」のように、そのものの概念に矛盾する形容詞がつくこと]
*2 [一七世紀イギリスの諷刺詩人サミュエル・バトラーの詩『ヒューディブラス』、第二部、第一歌、四六五ー四六六行の言い換え]
ある特定の商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などと、要するにきわめてさまざまな比率で他の諸商品と交換される。
だから、小麦は、ただ一つの交換価値をもっているのではなく、いろいろな交換価値をもっている。
しかし、x量の靴墨もy量の絹もz量の金なども、どれも一クォーターの小麦の交換価値であるから、x量の靴、y量の絹、z量の金などは、互いに置き換えうる、または互いに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。
それゆえ、こういうことになる。第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。
しかし、第二に、交換価値は、一般にただ、それとは 区別されうる ある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。
* 〔イギリスの体積単位。一クォーターは八英ブッシェル。約二九二リットルにあたる]
さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。それらのものの交換比率がどうであろうとも、この比率は、つねに、ある与えられた分量の小麦がどれだけかの分量の鉄に等置される一つの等式、たとえば、1クオータの小麦=aツエントナーの鉄によつて表される。Iこの等式はなにを意味するか? 同じ大きさの一つの共通物が、二つの異なった物のなかに、すなわち一クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、実存するということである。
したがって、両者は、それ自体としては一方でもなければ他方でもないある第三のものに等しい。したがって、両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第三のものに還元されうるものでなければならない。
* [ドイツの質量単位。一ツェントナーは五Oキログラム]
簡単な幾何学上の一例がこのことを明らかにするであろう。およそ直線形の面積をはかり、比較するためには、それをいくつかの三角形に分解する。
三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現―底辺×高さ÷2 ーに還元される。これと同じように、諸商品の諸交換価値もある共通物に還元されて、諸交換価値は、この共通物の多量または少量を表わすことになる。
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