『資本論』の学習を再開するにあたって、前回資本論の学習は第一巻の550ページまで進みました。ブログの閉鎖がからみ、継続する意欲もらくなり消滅してしまいました。今回新たに再開するのですが、また第一巻の出だしから行いたいと思います。
岩波書店版の「資本論第一巻」は約1000ページあります。1日に2ページとして500日かかります 前回は内容にいきなり入りましたが、今回は訳者まえがきから目次、序文と細かく学んでいきたいと思います。
内容を細かく学んでいくと、引用が多くなります。 資本論は出版社が多くありますので、訳者によってに、内容が異なることもあるので、その辺のところは重視して、できるだけ正しい解釈ができるようにしていきたいと思います。
この間、約2年間放置したままでしたので、思い出すのもこんなんですが、最初は「高校生からわかる資本論」を学び、「経済学のすすめ」、「変革の時代と資本論 」、「新日本出版資本論1・2 」その他一般で販売している資本論関係の著書を参考にしてきました。
今回も『資本論』だけでは理解できないので、他の著書を参考にすることになると思います。
この学習の目標は、できるだけ学習組織を作り継続することを目標としています。 目に留まった方は、ゆっくり、のんびりと進んでいきますので共に学び会うことを願います。できれば、コメントやメールをいただければ、大変ありがたいです。
内容がどう見ても堅苦しいので、参加する人は前回も数人でした。今回もそれほど多数の方が、訪れてくれるとは思っていません。終わらせるより続けることを目指します。
できれば社会を変える力の源泉となれば幸いです。
それでは「カール・マルクス 資本論 第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店」訳者まえがき」から始めたいと思います。
【訳者まえがき Ⅲ
—『本論』100年を迎えるにあたって—
『資本論』は 100年を生き続けた。そして人類の歴史の存する限り生き続けるであろう。それは、資本主義社会における矛盾の冷徹が余すところなく分析によって、人類の新しい歴史の開始を告知したからである。社会主義を科学にしたからである。さらに、このことによって、歴史の進展と現実にする人間の糧となったからである。つまり、『資本論』は、マルクスという天才の手になった労働者階級の歴史的近くであったからである。
『資本論』は、その運命を資本主義社会とともにすると考えたものがある。『資本論』その意義は、資本主義社会とともに消滅するというのである。これはまちがっている。これは、社会主義国が発展して、基本的な階級対立が消滅するほど、『資本論 』の研究が盛大になっているという事実に相反する。人々は、「資本論」の歴史的社会的分析の方法は、人類のいかなる社会の運動法則の研究にも、指針となるものであることを忘れてはならない。『資本論』は、自然と社会に関する真実の科学書とともに、古くして、常に新しい本なのである。
1867年9月14日は、ハンブルクのマイスネルという書店で、初めて『資本論」第一感が現れた日であるとされている《 でディ—ツ版『全集』第16巻、722ページ》。我々が、この秋を期して、記念出版をなす所以である。この記念出版では、第一巻を一冊、第2巻を一冊、第3巻を2冊とする。ドイツ語の原本は、、第3巻は、一冊にまとめられていたり、あるいは、 2冊に分けらたり、様々な形をとっている。これは、全く便宜上の問題である。
我々は、第3巻を2冊にした。この方が、この札を読む上の取り扱いに、便利であると考えたからである。第3巻があまりに大きな必殺になるのを避けたのである。
この翻訳は、モスクワのマルクス・レーニン主義研究所とベルリンのマルクス・レーニン主義研究所の協力になるディーツ゚晩『マルクス・エンゲルス全集』収納『資本論』お低本とした。現在行われている『資本論』原本のうちで最も新しく、最も校訂の正確なものであると考えたからである。しかし、私は、2種の英訳本、フランス薬、及び原本の初版、後のエンゲルス版、アドラー月版、ハウス基板等を参照することに力めた。
私は、この度の記念出版にあたっては、拙訳岩波文庫版に、今一度、新しい底本にしたがっ、、改訂を加えた。改めてまた『資本論』という本の医大さに圧倒された次第であった。広さ奥底の はかれない天才の思考力に驚き呆れたわけである。
この際特に、岩波文庫版に対して、私の誤読いや悪役を指摘してくださったご親切に対して厚く感謝する。見解を必ずしも同じくしなかったが、改むべきものは、改めたつもりである。
わが国では、『資本論』の訳本に、原本の頁数を入れる習慣がある。この記念盤について、そのことを勧めてくださった職員のお志には感謝しながらも、私は岩波文庫版と同じくそれに従わなかった。もしそれをすると、原本の初版、エンゲルス版、カウツキー版、アドラツキ—版、新しい ディーツ゚『全集』版東等々の頁数で、各頁のせっかくの余白は、汚くなる。その上にこのような希望は、ごく少数のドイツ語の読める学者にとってのみ意味がある。マルクスが考えているように『資本論』は、少数の学者のためのみにあるのではなく、琴似その翻訳は、幾百万、幾千万の額に汗して働く、そしてドイツ語版の読めない、また原本を持たない人のためにあることを考えなければならぬ。その人々が、読過の際、、自分の感想や意見を余白に書き込まれることに、少しも反対ではないが、少数の学者のために、あらかじめ余白を残しておく気には、ならなかったのである。万事便宜主義の世の中ではありますが、これに対する私のささやかな抵抗をお許し願いたい。】V2行目まで
( 【 】ない引用です )
ここで注目することは、「幾百万、幾千万の額に汗して働く、」というところでしょうか。これはもちろん労働者をさしているのでしょう。『資本論』は労働者の戦いのためにかかれたある。実践の書いえる。
とにかく『資本論』の学習は再開されたのです。すでに進めているところもあるでしょう。それ追いつくこと、ともに学ぶことで進むといいと思うのです。
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