『資本論』第3巻を学習する際に重要なのは、第1巻・第2巻との連続性を意識することです。第3巻では利潤率、平均利潤、地代、利子など、資本主義の「表面的な現れ」が扱われますが、その背後には第1巻で論じられた剰余価値の理論があります。したがって、現象を独立したものとしてではなく、その本質との関係で理解する姿勢が必要です。また、第3巻は未完であり、編集者エンゲルスによる補足や構成の影響もあるため、記述の不整合や飛躍に注意しながら読むことが大切です。さらに、数式や比率の議論(利潤率の低下傾向など)では、具体例を自分で計算しながら理解を深めると効果的です。抽象的概念と現実経済の対応関係を常に考えつつ、焦らず段階的に読み進めることが理解への近道となります。
2024年2月13日火曜日
〈資本論〉学習中断中で
コトラでやリ直しますか
〈資本論〉入門 単行本 – 2011/9/25
2021年12月18日土曜日
第72回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 112ページ
第72回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 112ページ
三総体的または拡大された価値形態の欠陥
C一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格
二 相対的価値形態と等価形態の発展関係
三一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態
第四節商品の物神的性格とその秘密
第二章交換過程 112ページ
(三八) プルードンは、まず彼の正義の理想、すなわち,justice éternelle“(永遠の正義)の理想を、商品生産に相応する法関係から作り出す。
ついでに述べておくが、このことによって、またすべての俗物たちに大変に慰安を与える証明できるのである、すなわち、商品生産の形態は、正義と同じように、永遠であるということである。
それから、逆に彼は、現実の商品生産とこれに相応する現実の法を、この理想にしたがって改造しようとする。
物質代謝の現実の法則を研究し、その基礎の上に一定の課題を解こうとするかわりに、物質代謝を .naturalité“(自然的素質)や,affinité(血縁)というような「永遠の理念」によって改造しようとする化学者について、人は何と考えるだろうか。ふし高利貸は、justice éternelle“(永遠 の 正義)やséquité éternelle“(永遠の公正)ゃ amutualité éternelle" (永遠の相互扶助)やその他 の avérités éternelles(永遠の真理)に反すると言えば、高利貸について教父たちが知っていたことより、何か少しでめ多く知ることになるだろうか? 教父たちも、高利貸は ggrice éternelle(永遠の恩寵) や foi éternelle(永遠の信仰)ゃ avolonté éternelle de dieu(神の永遠の意志)に反するといっていたのである。
商品所有者をとくに商品から区別するめのは、商品にとっては、すべての他の商品体が、ただ自分の価値の現象形 形態と考えられるにすぎないという事情である。だから、生まれつきの平等主義者で皮肉屋である商品は、つねに、他のあらゆる商品と、自分はマリトルネス〔セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中。……訳者]よりもっと醜
い様子をしていても、心だけでなく、肉体換える用意をしている。
商品に欠けているこの商品体の具体的なるものにたいする感覚を、商品所有者は、彼自身の五感ないし六感で補うのである。彼の商品は、彼にとってはなんら直接の使用価値ではない。
そうでなければ、彼はこれを市場にあっては行かない。商品は他人に対する使用価値をめっ
ているのである。彼にとっては、商品は直接には、交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値をふっているだけである。
それゆえに、彼はこれを、その使用価値が彼に満足を与える商品にたいして譲渡しようとする。すべての商品は、その所有者にたいしては非使用価値であり、その非所有者にたいしては使用価値である。
商品は、こうして全般的に持ち手を換えなければならない。しかし、この持ち手変更がその交換をなすのである。そしてこの交換が商品を価値として相互に関係させる。
さらにこれを価値として実現する。したがって、商品は、それが使用価値として実現されうる前に、価値として実現されなければならない。
(三九)「なぜかというに、すべての財貨の使用は二重であるからである。 |その一つは物自体に固有であり、他はそうではない。サンダルのように、はくことに用いられると同時に交換されうるのである。
両者とらにサンダルの使用価値である。なぜかというに、サンダルを、自分であっていないのと、例えば、食物と交換する人でち、サンダルはサンダルとして利用するのであるからである。
しかしながら、その自然の使用方法で利用するのではない。なぜかというに、サンダルは、交換のためにあるのではないからである」(アリストテレス『国家論』第一巻、第九章〔山本光雄訳『政治学』岩波文庫版、五一ページ])。
他方において、商品は、それが価値として実現されうる前に、使用価値であることを立証しなければならない。なぜかというに、商品に支出された人間労働は、それが他人にたいして有用な形態で支出されるかぎりでのみ、かかる人間労働の性質を受け取るからである。
その労働が他人に有用であるか、したがって、その生産物が他人の欲望を充足させるかどうかは、だが、諸商品が交換されてはじめて証明しうることである。
あらゆる商品所有者は、その商品を、ただ彼の欲望を充足させる使用価値をあつ他の商品にたいして譲渡するだけである。
そのかぎりにおいて、交換は彼にとって個人的な過程であるにすぎない。他方において、彼はその商品を価値として、したがって、同一価値をめっている任意のあらゆる他の商品に実現しようとする。
ここでは彼自身の商品が他の商品の所有者にとって、使用価値をもっているかどうかは問題でない。そのかぎりにおいて、交換は彼にとっ換て、一般的に社会的な過程である。
だが、この同じ過程が、同時にすべての商品所有者にたいして、もっぱら個人的であって、同時にまたもっぱら一般的に社会的であるというようなことはありえない。
あっと詳細に見るならば、すべての商品所有者にたいして、あらゆる他人の商品は、彼の商品の特別な等価となっている。したがって彼の商品は、また他のすべての商品の一般的な等価となる。しかしながら、すべての商品所有者113ページ末
2021年12月16日木曜日
第71回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 111ページ
第71回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 111ページ
三総体的または拡大された価値形態の欠陥
C一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格
二 相対的価値形態と等価形態の発展関係
三一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態
第四節商品の物神的性格とその秘密
第二章交換 過 程
父換過程
商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。したがって、われわれはその番人を、すなわち、商品所有者をさがさなければならない。
商品は物であって、したがって人間にたいして無抵抗である。し商品が従順でないようなばあいには、人間は暴力を用いることができる。
言葉を換えていえば、これを持って歩くことができる。これらの物を商品として相互に関係せしめるために、商品の番人は、お互いに人として相対しなければならぬ。彼らの意志がそれらの物の中にひそんでいる。
したがって、ある一人は、他人の同意をもってのみ、したがって各人は、ただ両者に共通な意志行為によってのみ、自身の商品を譲渡して他人の商品を取得する。
したがって、彼らは交互に私有財産所有者として、認め合わなければならぬ。契約という形態をとるこの法関係は、適法的なものとして進行するかどうかは別として、一つの意志関係である。この関係に経済的関係が反映されている。
この法関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。人々はここではただ相互に商品の代表者として、したがってまた商品所有者として存在している。
叙述の進行ととめに、われわれは、一般に、人々の経済的仮装は経済的諸関係の人格化にすぎず、この経済的諸関係の担い手として、彼らが相対しているということを見るであろう。
(三七) かの篤信をもってきこえた第一二世紀においては、これらの商品の中には、往々にしてきわめてなよやかなめの現われている。
だから、その頃のフランスのある詩人は、ランディ の市場にきている商品の中に、衣服類や靴や皮革や農具や鞣革やその他のほかに、 ,femmes folles de leur corps(燃えるようなからだをもった女たち)数えあげている。111ページ末
2021年12月15日水曜日
第70回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 142ページ
第70回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 142ページ
三総体的または拡大された価値形態の欠陥
C一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格
二 相対的価値形態と等価形態の発展関係
三一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態
第四節商品の物神的性格とその秘密
(A) S・ベイリー『価値の性質、尺度、および諸原因に かんする 批判的論究』、一六五ページ以下鈴木訳
『リカード価値論の批判』、日本評論社、一五一ページ]。
(98)
これまでまだどの化学者も、真珠やダイヤモンドのなかに交換価値を発見してはいない。ところが、批判のするどさをとくに自負するこの化学的実体の経済学的発見者たちは、物の使用価値はそれらの物的属性にはかかわりがないが、これにたいして、それらの価値は物としてのそれらに属するということを見いだすのである。
ここで彼らの見解を確証するのは、物の使用価値は人間にとって交換なしに、それゆえ物と人間との直接的関係において実現されるが、反対に物の価値はただ交換においてのみ、すなわち一つの社会的過程においてのみ、実現されるという奇妙な事情である。
ここで、あのお人よしのドッグベリーを思い出さない人があろうか。彼は夜番のシーコールに教えて語る。
「男ぶりのいいのは運の賜物だが、読み書きは自然にそなわるものだ」。
(三六)*
(六)『考察』の著者やS・ベイリーは、リカードウが交換価値を単に相対的なものから 絶対的なものに転化させたと言って、リカードウを責めている。逆である。彼は、これらの物、たとえばダイヤモンドや真珠が交換価値としてもっている外観的相対性を、その外観の背後に隠されている真の関係に、人間的労働の単なる表現としてのそれらの相対性に、還元したのである。
リカード学派のベイリーに対する反論が粗雑であり、適切でなかったとすれば、そのわけは、彼らがリカードウ自身のうちに、価値と価値形態または交換価値との内的連関についてなんの解明も見いださなかったからにほかならない。
* 〔シェイクスピア『から騒ぎ』、第三幕、第三場。小田島訳、『シェイクスピア全集』I、白水社、一七八ページ。ドッグベリーはこの劇に登場する警察官で、始終、言葉を誤用する.
140ページ末
2021年12月14日火曜日
第69回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 140ページ
第69回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 140ページ
三総体的または拡大された価値形態の欠陥
C一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格
二 相対的価値形態と等価形態の発展関係
三一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態
第四節商品の物神的性格とその秘密
あったアテネおよびローマについては、正しくない、と。まず第一に奇妙なのは、中世と古典古代世界についてのこの世間周知の決まり文句をまだ知らないでいる人があるものと前提して、よろこんでいる人がいるということである。
中世がカトリックによって、古典古代世界が政治によって、生活していくことができなか
ったことだけは、はっきりしている。
それどころか、それらがその暮らしを立てた仕方・様式こそ、なぜ、
古典古代では政治が、中世ではカトリックが主役を演じたかを説明するのである。
さらには、たとえばローマ共和政の歴史をほとんど知らなくても、土地所有の歴史がその裏面史をなしていることくらいはわかる。
他面では、すでにドン・キホーテは、遍歴騎士道が社会のどのような経済的形態とも同じように調和すると妄信した誤りのために、ひどい目にあっているのである。
* [ヴォルテールによって批判の対象とされたライプニッツ『弁神論』に見られる予定調和論の「最善の世界」、「最善の仕組み」が念頭にあると思われる。
本書、第三篇、第五章、第二節中の訳注参照】
商品世界にまつわりついている物神崇拝に、あるいは社会的労働諸規定の対象的外観に、一部の経済学者がどんなにはなはだしくあざむかれているかということは、とりわけ、交換価値の形成における自然の役割についての退屈でばかばかしい論争が示している。
交換価値は、ある物に支出された労働を表現する一定の社会的様式であるから、たとえば為替相場と同じように、それが自然素材を含むことはありえないのである
。
商品形態は、ブルジョア的生産のもっとも一般的なもっとも未発展な形態であるから――だからこそ、商品形態は、こんにちほど支配的な、それゆえ特徴的な様式でではないにしても、早くから登場するのだが――その物神的性格はまだ比較的にたやすく見抜けるように見える。
もっと具体的な形態の場合には、簡単であるという外見さえ消えうせる。重金主義の幻想はどこから来るのか?
重金主義は、金銀を見ても、貨幣としての金銀は一つの社会的生産関係を、しかも奇妙な社会的属性を帯びた自然物という形態で、表示するのだということを見てとることができなかった。
また、お高くとまって重金主義を冷笑している近代の経済学は、それが資本を取り扱うやいなや、その物神崇拝は手に取るように明らかになるではないか?
地代は土地から生じるのであって、社会から生じるのではないという重農主義的幻想が消えてから、どれだけたったであろうか?
しかし、先回りしないために、ここでは商品形態そのものについてのもう一つの例で満足することにしよう。
諸商品がものを言えるとすれば、こう言うであろう。
われわれの使用価値は人間の関心を引くかもしれない。それは物としてのわれわれには属さない。
そうではなくて、われわれに物的に属 しているものは、われわれの価値である。商品物としてのわれわれ自身のつき合いがそのことを証明している。
われわれは、ただ交換価値としてのみ自分たち自身を互いに関連させ合うのだ、と。では、
経済学者が、この商品の魂をどのように伝えるかを聞いてみよう。
「価値」(交換価値) 「は物の属性 であり、富」(使用価値) 「は人間の属性 である。
価値は、この意味では、必然的に交換を含んでいるが、富はそうではない」。「富」(使用価値)「は人間の属性であり、価値は商品の属性である。人間や社会は富んでいる。
真珠やダイヤモンドには価値がある。 •真珠やダイヤモンドは、真珠やダイヤモンドとして価値をもつ」。
(三四)『経済学におけるある種の用語論争の考察。とくに価値および需要供給にかんして』、ロンドン、一八二一年一六ページ 142ページ1行目
たましい
2021年12月12日日曜日
第68回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 138ページ
第68回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 138ページ 岩波書店版 106ページ
(新日本版ではどうなっているか。読んでみたい)
三総体的または拡大された価値形態の欠陥
C一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格
二 相対的価値形態と等価形態の発展関係
三一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態
第四節商品の物神的性格とその秘密
あるいは商品そのものの本性にとって外的なものとして、取り扱っている。その原因は、価値の大きさの分析にすっかり注意を奪われていたというだけではない。それはもっと深いところにある。
労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のもっとも抽象的な、しかしまたもっとも一般的な形態であり、ブルジョア的生産様式はこの形態によって一つの特殊な種類の社会的生産として、それゆえまた同時に歴史的なものとして、性格づけられている。
だから、人がこの生産様式を社会的生産の永遠の自然的形態と見誤るならば、人は必然的に、価値形態の独自性を、それゆえ商品形態の、すすんでは貨幣形態、資本形態等々の独自性を見落とすことになるのである。
だから、労働時間による価値の大きさの測定についてはまったく一致している経済学者たちのあいだに、貨幣、すなわち一般的等価物の完成した姿態、については、きわめて種々雑多な、まったく矛盾した諸見解が見られるのである。
このことは、たとえば、ありふれた貨幣の定義ではもはや間に合わない銀行業の取り扱いにさいしてはっきりと現われてくる。」
それゆえ、反対に、価値のうちに社会的な形態だけを見る、あるいはむしろ実体のない社会的形態の外観だけを見る復活した重商主義(ガニルなど)が生じた。
―ここできっぱりと断わっておくが、私が古典派経済学と言うのは、ブルジョア的生産諸関係の内的連関を探求するW・ペティ以来のすべての経済学をさし、これにたいして俗流経済学と言うのは、外* 見上の連関のなかだけをうろつき回り、
いわばもっとも粗雑な現象のもっともらしい解説とブルジョア的自家需要とのために、科学的経済学によってとうの昔に与えら に材料を絶えずあらためて反芻し、それ以外には、自分たち自身の最善の世界についてのブルジョア的生産当事者たちの平凡でひとりよがりの諸観念を*体系づけ、学問めかし、永遠の真理だと宣言するだけにとどまる経済学をさしている。
(三三)「経済学者たちは奇妙なやり方をする。彼らにとってはただ 二種類の制度 があるだけだ。人為的制度と自然的制度と。封建制の制度は人為的制度であり、ブルジョアジーの制度は自然的制度である。
彼らはこの点では、同じく二つの種類の宗教を区別する神学者たちに似ている。彼らのものでないどの宗教も人間のっくりものであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示なのである。
そういうわけで、かつてはとにかく歴史があったが、もうそれは 存在しないのだ」(カール・マルクス『哲学の貧困。プルードン氏の「貧困の 哲学」にたいする返答』、一八四七年、一二三ページ[邦訳『全集』、第四巻、一四三ー一四四ページ)。ここで実にこっけいなのはバスティア氏で、彼は、古代のギリシア人やローマ人はただ略奪だけで生活していたと思い込んでいる
しかし、何世紀にもわたって略奪で生活していくからには、そこには略奪されるべきものが
絶えず存在しなければならない。言い換えれば、略奪の対象が引き続き再生産されていなければならない。
とすれば、ギリシア人やローマ人も一つの生産過程を、したがって一つの経済をもっていて、それが彼らの世界の物質的基礎をなしていたことは、ブルジョア経済がこんにちの世界の物質的基礎をなしていることとまったく同じであるように思われる。
それとも、バスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式は略奪体制の上に立っているとでも考えているのだろうか?
そうだとすると、彼はあぶない地盤の上にいることになる。
アリストテレスのような大思想家でさえ奴隷労働の評価で誤ったのに、バスティアのようなちっぽけな経済学者がどうして賃労働の評価をまともにやれるはずがあろうか?
―この機会に、私の著書『経済学批判』(一八五九年)が出たときに、アメリカのあるドイツ語新聞から 私に加えられた異論を 簡単にしりぞけておこう。
この新聞によれば、私の見解、すなわち、一定の生産様式といつでもこれに照応している生産諸関係、要するに、「社会の経済的構造は、法的かつ 政治的上部構造が その上に立ち、一定の社会的意識形態がそれに照応するところの 実在的土台である」ということ、「物質的生活の 生産様式が、社会的、政治的、および精神的生活過程一般を制約する」という私の見解 およそこうした見解は、物質的利害が支配的であるこんにちの世界については確かに正しいが、カトリックが支配的であった中世についてや、政治が支配的であった一四〇ページ一行目
2021年12月11日土曜日
第67回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 106ページ
第67回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 106ページ
三総体的または拡大された価値形態の欠陥
C一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格
二 相対的価値形態と等価形態の発展関係
三一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態
第四節商品の物神的性格とその秘密
価値をもち、あるいは二つの相ことなる価値をすらっているとすれば、これらの物は、 これをただ自分がつくられてくる労働のそれ(価値)から得るほかにありえない」(リカ ー ド
I ド『経済学および課税の原理』第三版、ロンドン、一八二一年、三三四ペー ジ〔邦訳、小泉信三訳、岩波文庫版、下巻、一九ページ]。〔デステュトラシ『観念学概要』第四・第五部、パリ、一八二六年、三五・三六ページ、参照])。
われわれはリカードが、デステュットにたいして、彼自身のより深い意味を押しつけていることだけを示唆しておく。
デステュットは、事実、一方では富をなす一切の物が「これを作り出した労働を代表する」
と言っているが、他方では、それらの物が、その「二つのちがった価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得ると言っている。
彼は、これをもって、俗流経済学の浅薄さに堕ちている。俗流経済学は、一商品(この場合労働)の価値を前提して、これによって後で他の商品の価値を規定しようとするのである。
リカードは彼をこう読んでいる、すなわち、使用価値においても交換価値においても、労働(労働の価値ではない)が示されていると。
しかし彼自身は、同じく二重に表示される労働の二重性を区別していない。したがって、彼は、「価値と富、その属性の相違」という章全体にわたって、苦心してJ・B・セイ程度の男の通俗性と闘わなければならない。
したがって、最後にまた彼は、デステュットが、彼自身と価値源泉としての労働にっいて一致するが、また他方で価値概念についてセイと調和することを、大変に驚いている。
(三二) 古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、 この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでちいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。
その理由は、価値の大ぃさの分析が、その注意を吸いつくしているということにだけあるのではない それはちっと深いところにある。
労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のちっと抽象的な、だがまたもっと一般的な形態であって、この生産様式は、 これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。
したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性を看過することになる。
それゆえに、労働時間による価値の大いさ の秤定について全く一致する経済学者に、貨弊、 すなわち一般的等価の完成体についての、あっとめ混乱した、そしてもっとめ矛盾した観念を見ることにな のである。
このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取扱いにあらわれる。
ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、ちはや間に合わなくなる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としか見ないような新装の重商主義(ガニイ等々)が、 ここに発生した。
――これを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるぬのは、W・ペティ以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学と反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探究するあのである。
俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつき廻るだけで、いわばちっとお粗け
ずりの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学によってとっくに与えられている材料を、絶えず繰りかえして反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が、彼ら自身の最良の世界にっいてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理窟づけ、しかもこれを永遠の真理として宣言する、ということに限られているのである。
(三三) 「経済学者たちは一種独特のやり方をするのだ。彼らにとっては、制度に二種類があるだけである。人工的なそれと自然的なそれである。
封建体制の制度は人工的のそれであり、ブルジョアジー の制度は自然的である。彼らはこの点では神学者に似ている。彼らも同じように二種の宗教をたてる。
彼らの宗教でない宗教は、すべて人間の作ったのであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示である。―かくて、歴史はそのようにつづいたのであるが、もはや歴史は終わった」(カー マルクス『哲学の貧困。プルードン氏の貧困の哲学』に答えて』一八四七年、一二三ページィーツ版『全集』第四巻、一三九ページ。邦訳、山村喬訳『哲学の貧困』岩波文庫版、一三二一一三三ページ。新潮社版『選集』第三巻、九三一九四ページ])。古代ギリシア人も口ー マ人も掠奪だけで生きていたと思っているバスティア氏は、まことにおかしい考え方だ。
しかし、もし数世紀を通じて掠奪で生きられるとすれば、絶えず何か掠奪さるべきるのが、そこになければならない いいかえれば、掠奪の対象が継続的に再生産されなければならない。
したがって、ギリシア人もローマ人も、一つの生産過程を含っていたようであ
る。したがって、ブルジ ア経済が今日の世界の物質的基礎をなしているのと全く同じように、彼らの世界の物質的基礎をなしていた経済、 もっていたようである。
それとちバスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式が、一つの掠奪体制によるものであるとでも考えているのだろうか? こうなると、彼の立っている土台があぶないことになる。
アリストテレスほどの巨人思想家が、奴隷労働の評価において過っているとすれば、バスティアのような体儒(こびと)経済学者が、どうして賃金労働の評価において正しいことをいえようか?
|私はこの機会を摑んで、私の著書『経済学批判』(一八五九年)の刊行に際して、一ドイツ語
アメリカ新聞によってなされた抗議を厳しておきたい。
この新聞は、こういうのである、私の見解、すなわち、一定の生産様式とこれにつねに相応する生産諸関係、簡単にいえば「社会の経済的構造が、法律的政治的上部構造のよって立ち
かっこれに対して108ページ1行目
注目
『資本論』の学習第234回第3巻資本主義的生産の総過程第1部第5篇利子と企業者利得地への利潤の分割。 利子付き資本第25 章 信用と空資本
5 資本論第3巻第5篇・第25章「信用と空資本」は、資本主義が高度に発展した段階で現れる** 金融の仕組みと“見かけの資本”**を分析する重要な章です。少し抽象的ですが、現代の株式市場 やバブル経済を理解する鍵にもなります。 ■ 全体のテーマ この章の核心はシンプルに言うと:...
また来てね
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『資本論』第3巻・第20章「商人資本に関する歴史的考察」は、 カール・マルクス が、商人資本(商業資本)が歴史の中でどのように成立し、資本主義とどう関係し ているかを分析した重要な章です。少し難しいですが、ポイントを整理すると理解 しやすくなります。 🔹 この章の核心テ...
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資本論第3巻は、第1巻・第2巻で解明された内容を前提に、**資本主義社会が「現実にど のような 姿で現れるか」**を分析する巻です。 したがって最大の注意点は、 本質(価値・剰余価値)と外観(価格・利潤・利子・ 地代など)を 混同しないこと です。 学習上の重要ポイントを篇ご...
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資本論 第2巻・第3篇・第20章「単純再生産」における核心―― 第1節(問題の提起)/第2節(二部類)/第3節(両部類の取引)、特に 第I部類の v+m と 第II部類の c の関係 を、式・直観・流れの順にわかりやすく解説します。 ◆ 前提:単純再生産とは何か(第1節) 単...

