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2021年5月25日火曜日

第19回『資本論』の学習 マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店 第2版へのあとがき 14ページ5行目から、変革の時代と『資本論』マルクスのすすめ 『経済』編集部編 新日本出版、

 第19回『資本論』の学習 マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳

岩波書店 第2版へのあとがき 14ページ5行目から


 かのの筆者は私の方法の唯論的基礎を論じた『経済学批判』(ベルリン、1859年、4から7ページ〔邦訳、岩波文庫版、13ページ以下、新潮社判『選集』第7巻、54ページ以下〕)の序文から引用をなした後で、こう続けている。

 「マルクスにとっては、ただ一つのことだけが重要である。すなわち、彼が研究に従事している諸現象の法則を発見すること、これである。そして彼には、それらの現象が完成した形態を取り、与えられた期間に観察されるようなひとつの関連に立っている限り、これを支配する法則が重要であるばかりでない。彼にとっては、なお特に、その変化、その発展の法則、すなわちひとつの形態から他のそれへの移行 、関連の一定の秩序から他のそれへの移行ということが、重要なのである。ひとたび彼がこの法則を発見したとなると、彼は詳細に諸結果を研究する。高速はこの結果となって、社会生活の中に現れるのである。・・・こうして、マルクスはただ一つのことのために力を尽くしている。すなわち厳密な科学的研究によって社会的諸関係の特定の秩序の必然性を立証するということ、そして彼に初出点としてまた支店として役立つ事実を、出来うる限り避難の色違いまでに、確証することがこれである。このためには、もし彼が現在の秩序の必然性とともに、同時にこの秩序は不可避的に移行せざるを得ない他の秩序の必然性を立証するならば、それで完全にあますところないものとなる。その場合、人類がこれらの事を信じようが信じまいが、また人間がこれらのことを意識していようが意識していまいが、何のが変わるところもないのである。




 マルクスは、社会の運動を自然史的の過程として考察する。この過程を左右しているのは、人間の意思や意識や意図からも独立しているだけでなく、むしろ逆に人間の意思や意識や意図を規定する諸法則なのである。・・・・文化史の上で意識的要素がこのように副次的の役割を演じているとすれば、次のことはおのずから明らかである。すなわち文化そのものを対象とする批判の基礎となり得るものは、決して意識の何らかのある形態、あるいは何らかのある結果というようなものではない。ということは、この批判の発出点として用いられ得るものは、理念ではなく、外的の現象だけであることになる。批判は、ある事実を理念でなく、他の事実と比較し対審することに限られるであろう。批判にとっては、次のことこそ重要なのである。すなわち、二つの事実ができるだけ厳密に研究される。そして実際に一つの事実を他の事実に対比すると、それらは、ある発展の違った契機を成しているということである。しかし特に重要なのは、以上の場合にも劣らない厳密さで諸秩序の系列、発展段階の現れる順序と結合が研究されるということである。しかしながら、経済生活の一般的諸法則は同一のものであって、これらを現在に適用しても過去に適用しても、全く同じ事であるという人があるかもしれない。このことをマルクスの拒否するところである。彼によればこ


のような抽象的な法則というものは存在しない。・・・逆に彼の見解によると、あらゆる歴史的時代はその固有の法則を持っている。・・・人の世は、与えられた発展期間を生き終わり、ある与えられた段階から他のそれに移行すると、また他の諸法則によって支配され始める。要するに、経済生活は、我々にとって、生物学の他の諸法則における発展しに似た現象を示す。・・・旧い経済学者たちが、経済的諸法則の性質を、物理学や化学の諸法則になぞらえた時、彼らは、これを誤り解したのであった。・・・現象をより深く分析してみると、社会的有機的は、お互いに、植物有機体や動物有機体の違いと同様に、根本的に違っているということが証明された。・・・・否、一つの同じ現象が、全く違った諸法則の支配に服するものであって、それは、かの有機体の全構造が違っている結果であり、またそのこ機管が違い、さらにそれらの諸機官のキムをする諸条件が違っている結果なのである、 等々。 マルクスは、例えばあらゆる時代あらゆるところに置いて、人口法則が同一であることを否定する。反対に、彼はあらゆる発展段階が、その固有の人口法則を持っていることを確信する。・・・生産力発展の程度が違うとともに、諸関係は変化した。それを規制する諸法則も変化する。マルクスは、その観点から資本主義的経済秩序を探求し、説明しようと目標を立てて、経済生活のあらゆる正確な言及が持たなければならなぬ目標を、ひとえに末光に科学的に定式として表現している。・・・このような探究の科学的価値は、ある与えられた社会的有機体の成立、存続、発展、死滅と、この有機体の他のより高いしそれによる代替等のことを規制する特別の法則が明瞭にされるところにある。そして事実マルクスのこの書はこのような歌詞を持っている。

 

16ページ7行目まで


変革の時代と『資本論』マルクスのすすめ 『経済』編集部編 新日本出版社

32ページ 2『資本論』を学ぶ一つの心得 金子ハルオ


 2008年の秋に、世界の資本主義経済の中心地アメリカ合衆国で「100年に一度」と言われる大規模な金融恐慌が勃発し、その影響はアメリカへの輸出をテコとして「成長」してきた日本経済を直撃し、わが国でも、派遣切り、倒産、失業などが急増し、貧富の格差が一挙に拡大しました。このような恐慌、失業、貧困などは、もともと資本主義経済にはつきものの出来事であり、決して人々の注意や努力が足りなかったために起こったのではなく、マルクスが『資本論』で明らかにした個々の人間の意思からは独立に作用する資本主義の経済法則に、基づいて必然的に起こったことなのです。ですから、最近、老若男女を問わず、かの音に聞く『資本論』を読もうという人が新たに増大しています。そこで、私が、長年にわたって多くの大学で、『資本論』をこれから初めて読もうという学生諸君に語ってきた「『資本論』を学ぶ5つの心得」の要点を紹介しましょう。

弁護士より


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2021年5月24日月曜日

第18回『資本論』の学習  マルクス『資本論』第一巻  向坂逸郎訳 岩波書店 第2版のあとがき12ページ11行目から、変革の時代と『資本論』マルクスのおすすめ 『経済』編集部編 新日本出版社 28ページ ◎近代経済学の「付加価値」概念と「価値無 用説、

 第18回『資本論』の学習 

マルクス『資本論』第一巻

 向坂逸郎訳 岩波書店


第2版のあとがき12ページ11行目から


(2)はっきりした口も聞けないドイツの俗流経済学の愚か者たちは、私の著書の文体や叙述をとやかく言っている。何人も私自身非常に厳しく『資本論』の文章上の欠陥をし得るものがあるまい。それでも私はこれらの紳士諸君やその読者のために、ここにイギリスとロシアの批判を一つずつ引用しよう。私の見解に全く敵対的な『土曜評論』は、最初のドイツ語版の新刊批評の中でこう言っている。叙述は「最も無味乾燥な経済上の問題に対しても独特の魅力を与えている」とセント・ペテルスブルク新聞」は、その1872年4月20日号で 、なかんずく、このように述べている。「若干のあまりに特殊的な部分を例外とすれば、叙述は理解の容易さと明瞭さを持って、また対象の高い化学性にも関わらず、それに見るような活き活きとした点で際立っている。この点において、著者は・・・ドイツの学者たちの多数と全く異なっている。彼らは・・・その著書を晦渋な干からびた言葉で書いているために、普通の人には頭が割れるように痛くなる」と。だが、現代のドイツ国民自由党的教授文献の読者にとっては、砕け飛ぶのは、頭と全く異なったものだ。

 『資本論』の立派なロシア語訳は、ペ―テルスブルクで刊行された。3000部刷ったものが、今ではすでにほとんど品切れとなっている。すでに1871年キエフ大学の 経済学教授であるN・ジーベル氏は、彼の著書『価値及び資本に関するD・リカードの理論』の中で、価値、貨幣及び資本に関する私の理論が、その大綱においてスミスイコールリカードの学説の必然的な発展であることを証明した。彼の素晴らしい著書を読んで、西ヨーロッパ人を驚かすことは、純粋に理論的な立場を徹底的に健二していることである。

 『資本論』に適用された方法はほとんど理解されなかった。それは、この方法について相互に相矛盾した見解が行われているということが証拠立てている。

 こうしてパリの『実証主義評論』は私に対して、次のように避難する。すなわち、私は一方で経済学を形而上学的に取り扱っており、他方でーこともあろうに!―私は、未来の飯屋のために調理法(コントし式の?)を書き与えておく代わりに、現実を単に批判的に分析することに限っているというのである。形而上学と言う非難に対しては、 ジーぺル 教授はこう述べている。「本来の理論が取り扱われる限りでは、マルクスの方法は全イギリス学派の演繹的方法である。その欠陥と長所とは 、最良の理論経済学者の謎にもあるものである」と。M・ プロック氏 ー「ドイツにおける社会主義の理論家たち」(『経済家雑誌 』1872年7月・8月号摘録)―は、私の方法が分析的であることを発見して、なかんずく、こう言っている、「この著作によってマルクス氏は、最も重要な分析的思想家の一人となっている」と。ドイツの批評家は、言うまでもなくヘーゲル的詭弁について叫び散らしている。ペーテルブルクの「ヨーロッパ報知」は、専ら『資本論』の方法を取り扱っている1論文(1872年5月号、427から436ページ)で私の研究方法を厳密に実在論的であるとしているが、叙述の方法は不幸にしてドイツ的弁証法的であるというのである。この論文はこう述べている、「叙述の外的形態によって判断するならば、一見マルクスは最大の観念論哲学者である、しかも言葉のドイツ的意味、すなわち悪い意味でそうなのである。だが、実際は、彼は経済の批判の仕事に携わったすべての彼の先行者よりも、最も深い実在者である。・・・どんな意味でも、彼を観念論者ということはできない」。この著者※に答えるには、彼自身の批判から若干の抜粋を成すのが一番良い。この抜粋は、その上に、ロシアの原本を見ることのできない多くの読者の興味を引くものであろう。

※I・I・カウフマン。ー訳者。             14ページ4行目まで


変革の時代と『資本論』マルクスのおすすめ

『経済』編集部編 新日本出版社

28ページ

◎近代経済学の「付加価値」概念と「価値無 用説」


 さて、ここで使われている付加価値という概念は、従来の経済学が問題にしてきた商品の価格を規定している価値ではなく、逆に目の前に与えられているある大きさの価格が表示された、賃金という収入と利潤と言う収入のことであって、それらをひとまとめにして「付加価値」という名前をつけたものです。このように、近代経済学における賃金、利潤、付加価値、さらにには、利子、地代、家賃、サービス料、国民所得といった諸概念は、(円、ドル、ボンドと言った)同じ体位の価格令で現れされた「経済諸量」なのです。

 このような経済学の説明に対しては、従来の経済学から、「なんだそんな説明では価値によって価格が規定されていると言う価値法則を明らかにできず、賃金、利潤の正体(本質)も明らかにできないではないか」という批判が起こります。そこで、近代経済学は、「価値論無用説」 というのは、実は話をわかりやすするために私がそう名づけたのですが、経済学の研究課題についての近代経済学の次のような考え方のことです。

 商品の価値とは何か、労働か、効用か、限界効用花などという論理はしてもしょうがないし、何の役にも立たない。商品の価格は需要と供給との関係で変動するもので、需要が均衡した点に落ち着くものであることを、そのまま認めるだけで十分だ。賃金、利潤、利子、地代の正体は何かなどと経験では捉えられないものを探してみてもしょうがないし、何の役にも立たない。それらの諸収入は、同じ単位の価格量で表された「 経済科諸量」であることを、そのまま認めるだけで十分だ。そもそも経済学は、政府の経済政策や資本主義企業の経営方針に役に立つものでなくてはならないと思うので、経済学の主な研究課題は、国民経済を構成している「経済諸量」を統計的に把握し、それぞれの「経済諸量」の間の因果関係を解明することである。およそ、以上のような考え方です。

 このような「価値論無用説 」を採った近代経済学は、その考え方に基づいて、政府に、物価、投資、雇用、国民所得、国民総生産(GNP)などの経済統計をつくらせ、それを利用しながら、利子率が下がれば投資が増えるとか、投資が増えれば雇用が増えるとか、中央銀行による貨幣供給(マネーサプライ)が増えれば物価が上がるとか言った 「経済諸量」の相互の因果関係を研究します。そして、ケインズは、、総需要(投資需要と消費需要)が国民所得を決定するという 「有効需要の理論」を作り、後に「ケインズ革命」と言われる近代経済学の革新を行ったのでした。

 確かに、国民経済(一国の資本主義経済)を構成している「経済諸量」のあいだには、客観的な因果関係があります。したがって、近代経済学は、 それらの「経済諸量」を「所与のもの」としている点、及び俗流経済学の影響を受けてそれらの「経済諸量」をそれぞれの生産要素が生んだものとしている点では科学性を書いていますが、「経済諸量」の間に客観的な因果関係を解明する点では一定の科学性を持っています。皆さんは、近代経済学の科学性を持っているということを学ぶことが大切です。


◎ 二つの経済学の違いを踏まえ理解を深める


 以上に述べた二つの経済学の違いを踏まえながら、二つの経済学を学ぶと、それぞれの経済学についてより深い理解が得られます。近代経済学を学んだ人も、マルクス経済学を学べば、貨幣、資本、資金、利潤、利子、地代などと言う「経済諸量」の正体(本質)を理解することができ、失業、貧困、恐慌などの「資本主義の病気」と言われる出来事が資本主義の経済法則に規定されて起こった避けることのできない「病気」であることを理解できます。近代経済学の考えに基づいてなされる雇用政策、所得政策、成長政策、金融政策などの国家の経済政策は「病気」を根絶する政策ではなく、繰り返したかる「病気」をかかった後からその都度緩和すれば「対症療法」であること、この「対症療法」は政策という名の薬の副作用を伴うことも分かってきます。

 他方、マルクス経済学を学んだ人も、それぞれの国の経済の構造親動き、さらには国際経済の構造や動きを研究する 。すなわち現状分析を行うためには、多くの調査や統計を利用しなくてはなりません。しかし国民経済の統計及びそれに基づく国際経済の統計は、個人の力では作成できないもので、国家権力を持った政府の力で作成したものです。そして、政府の経済統計(それを体系的に取りまとめたものがわが国では「国民経済計算」)は、近代経済学の考え方と概念に基づいて作成されたもので、近代経済学を理解してないと、十分に理解できないものです。ですから、マルクス経済学を学んだ人も、近代経済学を学んで、政府の経済統計を十分に理解し、マルクス経済学の立場からそれを批判的に利用しながら現状分析を行わなくてはなりません。そうすることで、マルクス経済学こそ科学的な 超分析を行われる「科学としての経済学」であることが、より深く理解できます。

 以上のような理由で、私は、学生の皆さんに、二つの経済学のどちらを選ぶか、どのゼミに行くかということはあくまでそれぞれの人の自主的な判断によることですけれども、絶好のチャンスに、二つの経済学を、いわゆる退院を取るためでなくて、それぞれの経済学を深く理解するためにも、一通り学ぶことをお勧めしているのです。

ー長時間、貴重なお話をどうもありがとうございました。


今回で1科学としての経済学ー『資本論』の魅力を語るが一通り読み終わることになりました。次回から『 資本論』を学ぶ五つの心得となる予定です。金子ハルオ氏人物案内はまだしたことがないので、ここでご案内したいと思います。 


金子ハルオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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金子ハルオ(かねこ はるお、1929年2月3日 - )は、日本の経済学者、東京都立大学 (1949-2011)大妻女子大学名誉教授。門下に五十嵐仁がいる

目次

来歴[編集]

茨城県新治郡千代田村(現かすみがうら市)出身。1953年東京大学経済学部卒。1959年同大学院社会科学研究科理論経済学博士課程満期退学。1959年東京都立大学法経学部助手、1961年講師、1962年助教授、1970年経済学部教授、1975年-1979年1981年-1985年経済学部長。1992年定年退官、大妻女子大学社会情報学部教授、学部長、2000年同名誉教授。1969年「生産的労働と国民所得」で東大経済学博士1978年-1984年日本学術会議会員。

著書[編集]

単著[編集]

  • 賃金のしくみ』青木書店 青木新書 1964

  • 『生産的労働と国民所得日本評論社 1966

  • 『経済学 上 (資本主義の基本的理論)』新日本出版社 新日本新書 1967

  • 『経済学 下 (帝国主義の理論)』新日本新書 1967

  • 資本論の学習』新日本新書 1971

  • 『講座マルクス主義研究入門 第3巻』青木書店 1974

  • 『サービス論研究』創風社 1998

共編著[編集]

  • 『講座現代賃金論』全3巻 高橋洸,高木督夫共編 青木書店 1968

  • 『暮しの経済教室』編 新日本選書 1972

  • マルクス経済学を学ぶ』横山正彦共編 有斐閣選書 1975

  • 資本主義の原理と歴史』編著 青木書店 青木教養選書 1979

参考[編集]

  • 金子ハルオ先生履歴・著作目録 (金子ハルオ先生退職記念論文集-上-) 経済と経済学 1992-02

カテゴリ

























































































2021年5月21日金曜日

第17回『資本論』の学習  マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店 、変革の時代と『資本論』マルクスのおすすめ『経済』編集部編 新日本出版社 ミル、セーについて

  第17回『資本論』の学習  マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店  

第2版へのあとがき 10ページ16行目から


 今家問題は、もはやあの定理が正しいとか、この定理が正しいとかいうことにあったのではなく、それが資本にとって有利であるか。不利であるか、便利であるか不便であるか、警察令に反するか反しないか、ということにあった。利己的でない研究の代わりに、買収された論難攻撃が現れ、とらわれない科学的研究の代わりに、痛める良心と自己弁護の悪い意図が現れた。だが、コブデンやブライトを先頭に立てて、 穀物条例反対同盟が世の中に投げ込む小うるさい小論文すら、科学的の興味はないにしても、彼らの土地所有貴族に対するの数によって、ひとつの歴史的興味を提供した。サー・ロバート・ビール以来、自由貿易立法は、俗流経済学から、この最後の刺を抜き去ってしまった。

 1848年の大陸の革命は、イギリスにも衝撃を与えた。なお科学的意義にも要求し、単なる自分から支配階級のおべっかもの以上の何かであると思う人々は、資本の経済学を、今やこれ以上無視することもできないプロレタリア階級の要求と調和させようと試みた。したがって、ジョン・スティアート・ミルが最もよく代表するような、生気のない混合主義が現れている。これこそ、ロシアの偉大な学者で批評家であるN・チェルシェフスキーが、そのもの『ミルによる経済学の大綱』の中で、すでに巧妙に照らし出しているような「ブルジョア的」経済学の破産宣告である。

 このようにして、資本主義的生産様式の対立的性格が、フランスやイギリスにおいて既に歴史的闘争によって露呈され、 人目を欹たせるに至った後に、ドイツでも、この生産様式は、成熟して行った。他方では、ドイツのプロレタリア階級は、すでにドイツのブルジョア階級よりはるかに決然たる理論的階級意識を持っていた。したがって経済のブルジョア的科学がここに成立しそうに思われたとたんに、それは再び不可能になってしまった。

 このような事情のもとで、ブルジョア経済学の代弁者たちは二つの隊伍に分かれた。一般の人々、利口で金儲けが好きで実際的な人々は、俗流経済学的弁護論の最も浅はかな、したがって最もよく成功した代弁者であるパスティア畑の周りに群がった。その化学の教授的権威を誇るとの人々はジョン・ステュアート・ミル2追従ミル、調和しよるべからずものを調和しようと試みている。ドイツ人は、と同じように、その衰退の時代においても、まだ単なる生徒、受け売りや追随者にすぎず、外国の卸商からもらってくる小行商人にすぎなかった。

 かくて、この場合にもドイツ社会の独特な歴史的発展は、「ブルジョア的」経済学のどんな独創的な進展をも許さなかった。だがそのー批判は別だ。このような批判は、そもそも一つの階級を代表している限り、資本主義的生産様式の変革と、初回9の究極的な廃止をその歴史的使命とする階級ープロレタリア階級を代表する他にない。

 ドイツ語ブルジョア階級の博学な代表者たちと博学でない代弁者たちは、私の以前の読者についてやり遂げた同じような『資本論』をまず黙殺しようと試みた。このような戦術がもはや時勢に向かないようになったと見るや 、彼らは私のこの書を批判するという口実で、「ブルジョア的意識を鎮静させるために」処方を書いた。だが、労働者新聞紙上にはー例えば『人民国家』紙上のヨゼフ・ディーッゲンの諸論文を見よー優れた戦士を見出した。彼らはこの人々に対して、今日までまだ回答を与えていない。(2)


12ページ10行目まで、今回はここまでとなります。 ここだけで、人物は7人ほど同情します。 Web 上では、何人が調べられるかわからないのですが、「ミル」は検索ですぐに探すことができるでます。少し長くwkipediaより引用となります。


ジョン・スチュアート・ミル

生誕

1806年5月20日

イギリスの旗 イギリスロンドン

死没

1873年5月8日(66歳)





生涯[編集]

ミルの生涯は、彼の精神的、思想的発達の描写を中心とした『自伝』(『ミル自伝』とも。1873年)で詳細に語られている。

幼年時代[編集]

ジョン・スチュアート・ミルはロンドンにてジェームズ・ミルの長男として生まれた。ミルは学校へ行かず厳格な父親によって教育され、また父親と親交が深かったベンサムやフランシス・プレイスにも助言をもらったりした。 彼は小さい頃から年中勉強させられ、父親はミルが同年代の他の子供たちとは遊ばないようにさせた。父親のジェームズ・ミルはベンサムの思想に共感し、また協会主義(associationism)の支持者でもあった。ジェームズはそれらの考えにもとづき、ミルを優れた知識人として、またベンサムと自分に続く功利主義者として育て上げようとした。

この勉強法により、ミルは、三歳にしてギリシャ語のアルファベットと単語を母語の英語と共に教わり、八歳になるまでにアイソポス寓話、クセノポンの『アナバシス』、ヘロドトスの著作全てを読み、またルキアノスディオゲネス・ラエルティオスイソクラテス(Isocrates)、プラトンの六編(ミルの自伝を参照)を理解した。彼はまた英語で書かれた歴史の本も多く読んでいる。

8歳から13歳にかけてのミルの学習の記録は、彼と同時代に生きたスコットランドの哲学者であるアレクサンダー・ベイン(Alexander Bain)によって出版されている。ベインによると、ミルの自伝は彼が実際にやってのけた学習量を控えめに述べているという。8歳の時分にミルはラテン語ユークリッド幾何学代数学を学び始め、父親によって家族内で彼の弟たちの教師役に選ばれた。彼の読書の大部分はいまだ歴史物が大半を占めていたが、ミルはまた当時の学校や大学で広く読まれていた全てのラテン語とギリシア語の著作を読んでもいた。ミルはラテン語やギリシア語で作詩することは教わらず、それらの言語での著作の内容を理解するためだけに向けられていて、10歳の頃には彼はプラトンやデモステネスを難なく読むようになった。彼が12歳の頃、1818年に父親のジェームズによる著作『インドの歴史』が刊行され、そのほぼ直後からミルはスコラ論理学を全般的に学び始め、またそれと同時に、アリストテレス論理学に関する論文を原語で読みはじめた。翌年、彼は政治経済学を始め、アダム・スミス リカードを父親と共に学習・研究し、彼らの古典経済学生産要素の見方を完全に学び取った。

精神の危機とその後[編集]

ミルは21歳のときに本人の言う「精神の危機」に陥り、興味・意欲の著しい減退とうつ状態に陥った。ワーズワースなどの当時のロマン主義への接近と、(時系列上は少し遅れるが)1830年に出会ったときすでに人妻であったハリエット・テイラー英語版(1807年 - 1858年)との親密な交友関係によってミルはこの危機を乗り切っている。後者については、モラルにうるさいヴィクトリア朝期としてはかなりの問題であったが、ミル本人の証言によれば、この時期のミルとハリエットは清い交際を保っていた。ハリエットはテイラーとの間に二男一女があったが、1833年には末娘のヘレン(1831年 - 1907年)を連れて夫と別居し、週末にミルが彼女を訪問するライフスタイルをとった。ハリエットは社会活動家でもあり、その後のミルの著作全体に強い影響を与えている。ミルとハリエットはテイラーの死(1849年)の2年後、1851年に結婚したが、ハリエットのアヴィニョンでの急死(1858年)によって結婚生活は短命に終わった。ハリエットの没後は、先述した末娘ヘレンがミルの支えとなった。

ミルはオックスフォード大学ケンブリッジ大学から研究の場を提供されたがこれを断り、父と同様に1858年まで東インド会社に奉職した。従って、ミルは専門職としての「学者」であったことは一度も無い。

東インド会社の解散後は、ロンドン・ウエストミンスター選挙区選出の無所属下院議員として1865年から68年まで短期間ながら選出されている。ミルは当時のリベラリストの代表格として、この時期にアイルランドの負担軽減を主張し、イギリス下院における最初の婦人参政権論者となっている。「代議制統治論」では比例代表制普通選挙制など、はるかに時代の流れに先駆けた選挙制度改革を主張した。植民地におけるジャマイカ事件ダーウィンなどとともに反乱側(黒人)を擁護し、エア総督を弾劾する論陣を張ったのもこの時期である。もっとも、政治家としてはあまりにも先進的・理想主義的であったために世の受け入れるところとならず、次の選挙では落選している。結局、英国で男女平等の普通選挙が実現したのは、第一次大戦後の1928年のことであった。なお、ミルはバートランド・ラッセルの名付け親でもある。1865年、セント・アンドルーズ大学の学長に任命された(1865年-1868年)。

ミルはフランスのアヴィニョンに滞在中、丹毒連鎖球菌感染症の一つ)によって死去した。アヴィニョンに妻ハリエットと並んで墓がある。

学問におけるミルの業績[編集]

今日ミルの主著と考えられているものの多くは、1840年代以降(『自伝』における最終章にあたる)に書かれている。ミルは様々な学問で業績を残したが、彼の思想の基礎にあるものは、彼自身の功利主義という倫理的な姿勢であり、それらは『功利主義』(1861年)などにおいて彼自身が述べている。

また1902年創刊でイギリスの知識階級に長く影響を与えたホイッグ党系の文化評論雑誌『エディンバラ・レヴュー英語版』にも、バートランド・ラッセルに先んじてたびたび寄稿した。

政治哲学におけるミル[編集]

ミルの業績の中でもとりわけ彼の名が刻まれているのは政治哲学での貢献であろう。ミルの著わした『自由論』(1859年)は自由とは何かと問いかけるものに力強い議論を与える。ミルは、自由とは個人の発展に必要不可欠なものという前提から議論を進める。ミルによれば、私たちの精神的、道徳的な機能・能力は筋肉のようなもので、使わなければ衰えてしまう。しかし、もしも政府や世論によっていつも「これはできる。あれはできない。」と言われていたら、人々は自らの心や心の中に持っている判断する力を行使できない。よって、本当に人間らしくあるためには、個人は彼、彼女自身が自由に考え、話せる状態(=自由)が必要なのである。ここで、ミルの功利主義はその提唱者であるベンサムとはたもとを分かつ。簡単に述べると、ミルの功利主義は、快楽について、ベンサムが唱えた量的なものよりも質的な差異をみとめ精神的な快楽に重きを置いた。それは次のミルの有名な言葉で表されている。

...it is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied. And if the fool, or the pig, are of a different opinion, it is because they only know their own side of the question.


「満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい。そして愚者や豚の意見がこれと違っていても、それは彼らがこの問題を自分の立場からしか見ていないからである

— 『功利主義』第二章

ミルの『自由論』は個人にとって自由とは何か、また社会国家)が個人に対して行使する権力の道徳的に正当な限界について述べている。『自由論』の中でも取り分け有名なものに、彼の提案した「危害の原理」がある。「危害の原理」とは、人々は彼らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなだけ従事できるように自由であるべきだという原理である。この思想の支持者はしばしば リバタリアンと呼ばれる。リバタリアンという言葉が定義するものは広いが、通常は危害を加えない行為は合法化されるべきだという考え(=「危害の原理」)を含む。現代において、この「危害の原理」を基盤に幾人かのリバタリアンが合法化されることを支持するものとしては売春や現在非合法の薬物も含めた薬物使用がある。

ヴィルヘルム・フォン・フンボルト「国家活動の限界を決定するための試論」(1851年、刊行)はミルの「自由論」にも大きな影響を与えた。ミルは『自由論』において、政府がどの程度まで国民の自由を制限できるか、国民はどの程度の客観的証拠による注意によって、自らの自由な注意によってどの程度まで政府に干渉されずに、自由な意思決定をなすべきなのか考察を行なった。例として毒薬の薬品の注意書きは政府によって命令されるべきか、自らの自由な意思によって注意すべきかを挙げて考察している。もし自らの意思によって注意すべきであるならば、政府は注意書きをつけるように強制すべきではないが、それが不可能ならば政府は注意書きを強制すべきであると論じ、国民の能力の問題をも取り上げることとなった。 酒や、タバコの注意書きや、それと類似に経済学的に意味がある酒税や、タバコ税の意味についても同じことがいえる。もし注意すべきではないということになれば夜警国家となるであろうし、一方リバタリアンのように経済的なことのみに注意すべきであるということも可能であろうし、またスウェーデンのような福祉国家を主張することも可能であるということになる。

ミルは自由論の中でオーギュスト・コントの実証主義哲学を次のように解釈している。

M. Comte, in particular, whose social system, as unfolded in his Système de Politique Positive, aims at establishing (though by moral more than by legal appliances) a despotism of society over the individual, surpassing anything contemplated in the political ideal of the most rigid disciplinarian among the ancient philosophers.


特にコントは『実証主義政治システム(Système de Politique Positive)』の中で述べているように、個人に対する社会の専制を(法的手段によるよりも、むしろ道徳によって)確立することを目指した。それは古代の思想家の中でも最も規律を重んじる者の政治的理想が述べた内容をさらに越えるものであった。

— 『自由論』

このヴィルヘルム・フォン・フンボルトとコントの考え方がミルの自由論の根底にあったのである。

 

変革の時代と『資本論』マルクスのおすすめ『経済』編集部編 新日本出版社

27ページ(6)二つの経済学(マルクス経済学と近代経済経済学)とその性格の違い

ー現代では、マルクス経済学と近代経済学と二つの経済学がありますが、どう違うのでしょうか。日本の大学では、普通には両方の授業とゼミがあって、多くの学生が「どちらを学んだら良いか」と迷うのですが。

◎二つの経済学の学びのすすめ

 そういう質問をする学生に対して、私は、いつも「 お茶の性格の違いを踏まえながら、片方だけではなく、両方とも一通り学べ」と進めています。というのは、この二つの経済学を学ぶことによって、実はそれぞれの経済学についてより深い理解が得られるからです。それに、学生時代は、両方を学ぶ絶好のチャンスです。このチャンスを逃す手はありません。

 近代経済学というのは、一般的には、マルクス経済学に対抗する経済学の総称であって、時期と学者によって違う特徴を持っています。1870年代に「限界効用価値説」を唱えたイギリスのジェボンズ、オーストリアのメンガー、フランスのワルラスによって始められ、やがて「価値論無 用説」を探る学者に引き継がれ、相撲20世紀における代表者は、イギリスのケインズです。二つの経済学の性格の違いをもたらしているそもそもの原因は、マルクス経済学が史的唯物論により資本主義の社会と経済制度を「歴史的に過渡的なもの」と捉え、労働価値説をその理論的基礎としているのに対して、近代経済学は、人間社会の発展に関する独自の歴史観を持たず、資本主義の社会と経済制度を善かれ悪しかれ実際に与えられていていつまでも同じ量的な運動をするだけで質的な変化をしないもの、すなわち「所与のもの」と捉え、限界効用価値説または価値無用論を探っている点にあります。

◎セーが唱えた「生産の三要素説」

 経済学説も歴史を振り返ってみると、18世紀までは「労働価値説」を唱えたイギリス古典派経済学が経済学の主流でした。しかし、19世紀にイギリスで、世界の先頭を切って機械制大工業に基づく産業資本主義が成立し,労資の利害の対立が露わになり、労資の階級闘争が激しくなると、資本家階級の利益を弁護するために、労働価値説を歪曲し、ついには捨て去った「経済学」が現れました。その先端を切ったのが、セーが唱えた「生産の三要素説」です。それによると、資本主義生産の三つの要素(ファクター)は、資本( 機械、原料などのものとしての資本)、土地(自然としての土地)、労働(労働者の労働)であり、利潤は資本の用役(使用価値としての役立ち)が生み出したものであり、地代は土地の用役を生み出したものであり、賃金は労働者の用役が上田市たものとされます。こういう主張は、「資本ー利潤、土地ー地代、労働ー賃金」という定式にまとめられました。この定式において、資本家と事務士と労働者は退院協力して資本主義的生産を行うパートナーであり、それぞれの収入の正当な取得者として描かれています。

 そこで、マルクスは、「生産の三要素説」を資本家階級の利益を弁護するために経済学を俗流化した俗流経済学と呼びこの定式を俗流経済学の「三位一体定式」 と呼んで、批判しました。

 近代経済学は、俗流経済学ではありませんが、労働価値説を唱える経済学に対抗する経済学の潮流から生じたため、「生産の三要素説」の影響を受けている点があります。近代経済学は、ミクロ経済学とマクロ経済学とから成り立っていますが、そのマクロ経済学の標準的教科書は、たいてい「国民所得論」から始まります。

  経済学が「商品論」から始まるのと、まさに対照的ですね。そこで、資本主義生産の(価格で表示された)生産額は「原材料費+減価償却費+賃金+利潤」 レアリ、このうち新しく生産された額(純生産額)は「賃金+利潤」であり、このことは誰にでもわかる「経済常識」である。 このうち賃金は労働という生産要素の役に立ち(サービス)に対する報酬であり、利潤は資本(物としての資本)という生産要素の役立ちに対する報酬であり、両者はそれぞれの生産要素の役立ちによって付加された(新たに生産された)価値、すなわち付加価値(正確には純付加価値)であるといった説明がされています。

28ページ26行目まで 「セー」ではないようです。「セイ」でしょう。


ジャン=バティスト・セイJean-Baptiste Sayフランス語: [ʒãbatist sɛ]、[ジャン=バティスト・セ [1]]1767年1月5日 - 1832年11月15日)はフランス経済学者実業家古典的自由主義の信奉者であり、競争、自由貿易、および事業上の制約の引き下げに賛成する主張を行った。「供給はそれ自身の需要を創造する」という「セイの法則」で知られる。

目次

略歴[編集]

Lettres a M. Malthus, 1820

1767年フランス南東部のリヨンユグノー(仏カルバン派プロテスタント)に属する織物商の家に生まれる。少年時代はイタリア人僧侶の寄宿学校で歴史、イタリア語、ラテン語を学ぶ。1780年に父の商売の行き詰まりからパリに移住。

1785年から2年間、商人の徒弟として弟とともにイギリスで過ごしたあと、クラヴィエールの運営するパリの保険会社に勤める(クラヴィエールはジュネーヴの銀行家で1792年フランス革命期のジロンド派の大蔵大臣、のち投獄され獄死)。1792年に、熱烈な共和主義者でありフランス革命の成立を大いに喜んだセイは、義勇兵としてオーストリアプロイセン諸国連合軍との戦争に参加している。この頃アダム・スミス国富論第五版を購読、自由放任主義(laissez-faire)の思想に傾倒。1794年に共和主義者協会の主筆となり、1794年から1800年まで雑誌「哲学の十年(La Décade philosophique)」の編集をつとめる。その論調は89年の大革命以降、怪しげなものとして見られていたアンシャン・レジーム時代の思想のなかで啓蒙主義的な自由主義を復興させようとしたものである。彼の属した集団は「理論家協会(La société des idéologues)」と呼ばれ、デステュット・ド・トラシー(Antoine Destutt de Tracy)とともにフランスリベラル学派の創始者、指導的立場となった。

1799年ナポレオンのクーデター後に護民院の財務担当に就任。同年にフランスアカデミーの懸賞論文に応募するがこれは落選、1800年に「オルビー(Olbie)」として出版される(オルビーはセイの考えた仮想国家の名称)。1803年には、主著「経済学概論(Traité d'économie politique)」を出版。しかし徹底した自由放任主義を主張するこの論文著作はナポレオンの目にとまり、セイを私的会合に召還したうえで、戦争経済の構築のため保護政策と規制について書き直すように要求される。だがこれを拒んだため、同著作は禁止され、1804年には護民院を罷免されている。なお別のポストへの就任を提示されたものの、統領政府に失望した彼は1805年フランス北端のカレーに移りAuchy-lès-Hesdinで綿工場を設立。これが大成功し、1812年には経営株を転売して裕福になった彼はパリに戻り投機家として暮らした。ナポレオン没落後の1814年、政治経済学概論の第二版を出版し、イギリスに渡航。デヴィッド・リカードウイリアム・ゴドウィンらに面会、またリカードとともにベンサムJ・S・ミルを訪問したり、グラスゴー大学アダム・スミスが使用していた教壇に立ち感激したという。1815年にかけてこれらをまとめた手記を出版。

ルイ18世の復古王政はセイの業績を高く評価し多くの褒賞が与えられる。1816年には王立大学の経済学教官に招聘、1819年には王立工芸院の産業経済学の教授として迎えられ、1828年には講義録が出版されている。1819年と22年にはリカードがパリのセイを訪問、また20年にはJ・S・ミルがしばらく逗留した。この頃、セイの法則をめぐる一般過剰供給論争がおこる。トマス・ロバート・マルサスあての書簡(1820年)やシモンド・ド・シスモンディとのエンサイクロペディックレビュー誌上(1824年)で、彼らの主張した過少消費説を攻撃した。

1831年には経済学者としてははじめてコレージュ・ド・フランスに迎えられる。フランスリベラル学派の創設に多大な影響をおよぼした。

思想的な立場[編集]

セイは、しばしば「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約されるセイの法則で有名である。彼は、交換経済において交換を前提とした財を生産することは、自動的にその生産者のための同価値の所得の生産を要求するので、ある生産財が経済に注入されるとかならずその財を購入するための十分な需要を創造する、と主張した。それゆえ、生産量は、需要よりは財の供給量で決定されるとした。セイの交換経済においては失業なるものや、土地その他の資源の遊休はありえず、もしそれが存在するとすればそこには取引上の何らかの制約があるとした。(※セイの失業観には18世紀~19世紀初頭のプロテスタント的失業観の倫理的限界がある。失業の項参照)

彼はまた、貨幣は経済上の影響において中立である、と最初に主張した1人でもある。貨幣はそれ自身の目的のためにではなく、それで購入できる物のために所望される。貨幣循環の中での貨幣量の増大は、他の財の貨幣に換算した価格を増加させるが(インフレーションの原因)、財の相対価格や生産量を変化させることはないであろう。この考えは、後に経済学者らによって、貨幣数量説へと発展した。

セイの考えは、19世紀後半に起こった新古典派経済学に啓示を与えるのを助けた。セイの法則と呼ばれた議論は、後にジョン・メイナード・ケインズとケインズ主義の経済学者らによって激しく批判された。

セイの法則[編集]

著書「経済学概論(Traité d’économie politique, 1841, 6e édition)」第一巻第十五章「販路について(Des débouchés)」の記載から「販路法則(Loi des débouchés)」あるいは「セイの販路法則(Say's law of markets)と呼ばれることもある。

貨幣がこの相互交換において果たすのは一時的な役割だけである:交換が終わってみると、ある生産物に別の生産物が支払われたのだ、ということが常に見出される(L’argent ne remplit qu’un office passager dans ce double échange ; et, les échanges terminés, il se trouve toujours qu’on a payé des produits avec des produits.)


次のことは注目に値する。すなわち、ある生産物は作り出されるやいなや、その瞬間から、それ自身の総額の価値に見合った他の生産物の販路を供給するということである。(Il est bon de remarquer qu’un produit terminé offre, dès cet instant, un débouché à d’autres produits pour tout le montant de sa valeur.







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  5 資本論第3巻第5篇・第25章「信用と空資本」は、資本主義が高度に発展した段階で現れる** 金融の仕組みと“見かけの資本”**を分析する重要な章です。少し抽象的ですが、現代の株式市場 やバブル経済を理解する鍵にもなります。 ■ 全体のテーマ この章の核心はシンプルに言うと:...

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