第18回『資本論』の学習
マルクス『資本論』第一巻
向坂逸郎訳 岩波書店
第2版のあとがき12ページ11行目から
(2)はっきりした口も聞けないドイツの俗流経済学の愚か者たちは、私の著書の文体や叙述をとやかく言っている。何人も私自身非常に厳しく『資本論』の文章上の欠陥をし得るものがあるまい。それでも私はこれらの紳士諸君やその読者のために、ここにイギリスとロシアの批判を一つずつ引用しよう。私の見解に全く敵対的な『土曜評論』は、最初のドイツ語版の新刊批評の中でこう言っている。叙述は「最も無味乾燥な経済上の問題に対しても独特の魅力を与えている」とセント・ペテルスブルク新聞」は、その1872年4月20日号で 、なかんずく、このように述べている。「若干のあまりに特殊的な部分を例外とすれば、叙述は理解の容易さと明瞭さを持って、また対象の高い化学性にも関わらず、それに見るような活き活きとした点で際立っている。この点において、著者は・・・ドイツの学者たちの多数と全く異なっている。彼らは・・・その著書を晦渋な干からびた言葉で書いているために、普通の人には頭が割れるように痛くなる」と。だが、現代のドイツ国民自由党的教授文献の読者にとっては、砕け飛ぶのは、頭と全く異なったものだ。
『資本論』の立派なロシア語訳は、ペ―テルスブルクで刊行された。3000部刷ったものが、今ではすでにほとんど品切れとなっている。すでに1871年キエフ大学の 経済学教授であるN・ジーベル氏は、彼の著書『価値及び資本に関するD・リカードの理論』の中で、価値、貨幣及び資本に関する私の理論が、その大綱においてスミスイコールリカードの学説の必然的な発展であることを証明した。彼の素晴らしい著書を読んで、西ヨーロッパ人を驚かすことは、純粋に理論的な立場を徹底的に健二していることである。
『資本論』に適用された方法はほとんど理解されなかった。それは、この方法について相互に相矛盾した見解が行われているということが証拠立てている。
こうしてパリの『実証主義評論』は私に対して、次のように避難する。すなわち、私は一方で経済学を形而上学的に取り扱っており、他方でーこともあろうに!―私は、未来の飯屋のために調理法(コントし式の?)を書き与えておく代わりに、現実を単に批判的に分析することに限っているというのである。形而上学と言う非難に対しては、 ジーぺル 教授はこう述べている。「本来の理論が取り扱われる限りでは、マルクスの方法は全イギリス学派の演繹的方法である。その欠陥と長所とは 、最良の理論経済学者の謎にもあるものである」と。M・ プロック氏 ー「ドイツにおける社会主義の理論家たち」(『経済家雑誌 』1872年7月・8月号摘録)―は、私の方法が分析的であることを発見して、なかんずく、こう言っている、「この著作によってマルクス氏は、最も重要な分析的思想家の一人となっている」と。ドイツの批評家は、言うまでもなくヘーゲル的詭弁について叫び散らしている。ペーテルブルクの「ヨーロッパ報知」は、専ら『資本論』の方法を取り扱っている1論文(1872年5月号、427から436ページ)で私の研究方法を厳密に実在論的であるとしているが、叙述の方法は不幸にしてドイツ的弁証法的であるというのである。この論文はこう述べている、「叙述の外的形態によって判断するならば、一見マルクスは最大の観念論哲学者である、しかも言葉のドイツ的意味、すなわち悪い意味でそうなのである。だが、実際は、彼は経済の批判の仕事に携わったすべての彼の先行者よりも、最も深い実在者である。・・・どんな意味でも、彼を観念論者ということはできない」。この著者※に答えるには、彼自身の批判から若干の抜粋を成すのが一番良い。この抜粋は、その上に、ロシアの原本を見ることのできない多くの読者の興味を引くものであろう。
※I・I・カウフマン。ー訳者。 14ページ4行目まで
変革の時代と『資本論』マルクスのおすすめ
『経済』編集部編 新日本出版社
28ページ
◎近代経済学の「付加価値」概念と「価値無 用説」
さて、ここで使われている付加価値という概念は、従来の経済学が問題にしてきた商品の価格を規定している価値ではなく、逆に目の前に与えられているある大きさの価格が表示された、賃金という収入と利潤と言う収入のことであって、それらをひとまとめにして「付加価値」という名前をつけたものです。このように、近代経済学における賃金、利潤、付加価値、さらにには、利子、地代、家賃、サービス料、国民所得といった諸概念は、(円、ドル、ボンドと言った)同じ体位の価格令で現れされた「経済諸量」なのです。
このような経済学の説明に対しては、従来の経済学から、「なんだそんな説明では価値によって価格が規定されていると言う価値法則を明らかにできず、賃金、利潤の正体(本質)も明らかにできないではないか」という批判が起こります。そこで、近代経済学は、「価値論無用説」 というのは、実は話をわかりやすするために私がそう名づけたのですが、経済学の研究課題についての近代経済学の次のような考え方のことです。
商品の価値とは何か、労働か、効用か、限界効用花などという論理はしてもしょうがないし、何の役にも立たない。商品の価格は需要と供給との関係で変動するもので、需要が均衡した点に落ち着くものであることを、そのまま認めるだけで十分だ。賃金、利潤、利子、地代の正体は何かなどと経験では捉えられないものを探してみてもしょうがないし、何の役にも立たない。それらの諸収入は、同じ単位の価格量で表された「 経済科諸量」であることを、そのまま認めるだけで十分だ。そもそも経済学は、政府の経済政策や資本主義企業の経営方針に役に立つものでなくてはならないと思うので、経済学の主な研究課題は、国民経済を構成している「経済諸量」を統計的に把握し、それぞれの「経済諸量」の間の因果関係を解明することである。およそ、以上のような考え方です。
このような「価値論無用説 」を採った近代経済学は、その考え方に基づいて、政府に、物価、投資、雇用、国民所得、国民総生産(GNP)などの経済統計をつくらせ、それを利用しながら、利子率が下がれば投資が増えるとか、投資が増えれば雇用が増えるとか、中央銀行による貨幣供給(マネーサプライ)が増えれば物価が上がるとか言った 「経済諸量」の相互の因果関係を研究します。そして、ケインズは、、総需要(投資需要と消費需要)が国民所得を決定するという 「有効需要の理論」を作り、後に「ケインズ革命」と言われる近代経済学の革新を行ったのでした。
確かに、国民経済(一国の資本主義経済)を構成している「経済諸量」のあいだには、客観的な因果関係があります。したがって、近代経済学は、 それらの「経済諸量」を「所与のもの」としている点、及び俗流経済学の影響を受けてそれらの「経済諸量」をそれぞれの生産要素が生んだものとしている点では科学性を書いていますが、「経済諸量」の間に客観的な因果関係を解明する点では一定の科学性を持っています。皆さんは、近代経済学の科学性を持っているということを学ぶことが大切です。
◎ 二つの経済学の違いを踏まえ理解を深める
以上に述べた二つの経済学の違いを踏まえながら、二つの経済学を学ぶと、それぞれの経済学についてより深い理解が得られます。近代経済学を学んだ人も、マルクス経済学を学べば、貨幣、資本、資金、利潤、利子、地代などと言う「経済諸量」の正体(本質)を理解することができ、失業、貧困、恐慌などの「資本主義の病気」と言われる出来事が資本主義の経済法則に規定されて起こった避けることのできない「病気」であることを理解できます。近代経済学の考えに基づいてなされる雇用政策、所得政策、成長政策、金融政策などの国家の経済政策は「病気」を根絶する政策ではなく、繰り返したかる「病気」をかかった後からその都度緩和すれば「対症療法」であること、この「対症療法」は政策という名の薬の副作用を伴うことも分かってきます。
他方、マルクス経済学を学んだ人も、それぞれの国の経済の構造親動き、さらには国際経済の構造や動きを研究する 。すなわち現状分析を行うためには、多くの調査や統計を利用しなくてはなりません。しかし国民経済の統計及びそれに基づく国際経済の統計は、個人の力では作成できないもので、国家権力を持った政府の力で作成したものです。そして、政府の経済統計(それを体系的に取りまとめたものがわが国では「国民経済計算」)は、近代経済学の考え方と概念に基づいて作成されたもので、近代経済学を理解してないと、十分に理解できないものです。ですから、マルクス経済学を学んだ人も、近代経済学を学んで、政府の経済統計を十分に理解し、マルクス経済学の立場からそれを批判的に利用しながら現状分析を行わなくてはなりません。そうすることで、マルクス経済学こそ科学的な 超分析を行われる「科学としての経済学」であることが、より深く理解できます。
以上のような理由で、私は、学生の皆さんに、二つの経済学のどちらを選ぶか、どのゼミに行くかということはあくまでそれぞれの人の自主的な判断によることですけれども、絶好のチャンスに、二つの経済学を、いわゆる退院を取るためでなくて、それぞれの経済学を深く理解するためにも、一通り学ぶことをお勧めしているのです。
ー長時間、貴重なお話をどうもありがとうございました。
今回で1科学としての経済学ー『資本論』の魅力を語るが一通り読み終わることになりました。次回から『 資本論』を学ぶ五つの心得となる予定です。金子ハルオ氏人物案内はまだしたことがないので、ここでご案内したいと思います。
金子ハルオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金子ハルオ(かねこ はるお、1929年2月3日 - )は、日本の経済学者、東京都立大学 (1949-2011)・大妻女子大学名誉教授。門下に五十嵐仁がいる
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来歴[編集]
茨城県新治郡千代田村(現かすみがうら市)出身。1953年東京大学経済学部卒。1959年同大学院社会科学研究科理論経済学博士課程満期退学。1959年東京都立大学法経学部助手、1961年講師、1962年助教授、1970年経済学部教授、1975年-1979年・1981年-1985年経済学部長。1992年定年退官、大妻女子大学社会情報学部教授、学部長、2000年同名誉教授。1969年「生産的労働と国民所得」で東大経済学博士。1978年-1984年日本学術会議会員。
著書[編集]
単著[編集]
『賃金のしくみ』青木書店 青木新書 1964
『経済学 上 (資本主義の基本的理論)』新日本出版社 新日本新書 1967
『経済学 下 (帝国主義の理論)』新日本新書 1967
『資本論の学習』新日本新書 1971
『講座マルクス主義研究入門 第3巻』青木書店 1974
『サービス論研究』創風社 1998
共編著[編集]
『講座現代賃金論』全3巻 高橋洸,高木督夫共編 青木書店 1968
『暮しの経済教室』編 新日本選書 1972
『資本主義の原理と歴史』編著 青木書店 青木教養選書 1979
参考[編集]
金子ハルオ先生履歴・著作目録 (金子ハルオ先生退職記念論文集-上-) 経済と経済学 1992-02
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