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2021年5月21日金曜日

第17回『資本論』の学習  マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店 、変革の時代と『資本論』マルクスのおすすめ『経済』編集部編 新日本出版社 ミル、セーについて

  第17回『資本論』の学習  マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店  

第2版へのあとがき 10ページ16行目から


 今家問題は、もはやあの定理が正しいとか、この定理が正しいとかいうことにあったのではなく、それが資本にとって有利であるか。不利であるか、便利であるか不便であるか、警察令に反するか反しないか、ということにあった。利己的でない研究の代わりに、買収された論難攻撃が現れ、とらわれない科学的研究の代わりに、痛める良心と自己弁護の悪い意図が現れた。だが、コブデンやブライトを先頭に立てて、 穀物条例反対同盟が世の中に投げ込む小うるさい小論文すら、科学的の興味はないにしても、彼らの土地所有貴族に対するの数によって、ひとつの歴史的興味を提供した。サー・ロバート・ビール以来、自由貿易立法は、俗流経済学から、この最後の刺を抜き去ってしまった。

 1848年の大陸の革命は、イギリスにも衝撃を与えた。なお科学的意義にも要求し、単なる自分から支配階級のおべっかもの以上の何かであると思う人々は、資本の経済学を、今やこれ以上無視することもできないプロレタリア階級の要求と調和させようと試みた。したがって、ジョン・スティアート・ミルが最もよく代表するような、生気のない混合主義が現れている。これこそ、ロシアの偉大な学者で批評家であるN・チェルシェフスキーが、そのもの『ミルによる経済学の大綱』の中で、すでに巧妙に照らし出しているような「ブルジョア的」経済学の破産宣告である。

 このようにして、資本主義的生産様式の対立的性格が、フランスやイギリスにおいて既に歴史的闘争によって露呈され、 人目を欹たせるに至った後に、ドイツでも、この生産様式は、成熟して行った。他方では、ドイツのプロレタリア階級は、すでにドイツのブルジョア階級よりはるかに決然たる理論的階級意識を持っていた。したがって経済のブルジョア的科学がここに成立しそうに思われたとたんに、それは再び不可能になってしまった。

 このような事情のもとで、ブルジョア経済学の代弁者たちは二つの隊伍に分かれた。一般の人々、利口で金儲けが好きで実際的な人々は、俗流経済学的弁護論の最も浅はかな、したがって最もよく成功した代弁者であるパスティア畑の周りに群がった。その化学の教授的権威を誇るとの人々はジョン・ステュアート・ミル2追従ミル、調和しよるべからずものを調和しようと試みている。ドイツ人は、と同じように、その衰退の時代においても、まだ単なる生徒、受け売りや追随者にすぎず、外国の卸商からもらってくる小行商人にすぎなかった。

 かくて、この場合にもドイツ社会の独特な歴史的発展は、「ブルジョア的」経済学のどんな独創的な進展をも許さなかった。だがそのー批判は別だ。このような批判は、そもそも一つの階級を代表している限り、資本主義的生産様式の変革と、初回9の究極的な廃止をその歴史的使命とする階級ープロレタリア階級を代表する他にない。

 ドイツ語ブルジョア階級の博学な代表者たちと博学でない代弁者たちは、私の以前の読者についてやり遂げた同じような『資本論』をまず黙殺しようと試みた。このような戦術がもはや時勢に向かないようになったと見るや 、彼らは私のこの書を批判するという口実で、「ブルジョア的意識を鎮静させるために」処方を書いた。だが、労働者新聞紙上にはー例えば『人民国家』紙上のヨゼフ・ディーッゲンの諸論文を見よー優れた戦士を見出した。彼らはこの人々に対して、今日までまだ回答を与えていない。(2)


12ページ10行目まで、今回はここまでとなります。 ここだけで、人物は7人ほど同情します。 Web 上では、何人が調べられるかわからないのですが、「ミル」は検索ですぐに探すことができるでます。少し長くwkipediaより引用となります。


ジョン・スチュアート・ミル

生誕

1806年5月20日

イギリスの旗 イギリスロンドン

死没

1873年5月8日(66歳)





生涯[編集]

ミルの生涯は、彼の精神的、思想的発達の描写を中心とした『自伝』(『ミル自伝』とも。1873年)で詳細に語られている。

幼年時代[編集]

ジョン・スチュアート・ミルはロンドンにてジェームズ・ミルの長男として生まれた。ミルは学校へ行かず厳格な父親によって教育され、また父親と親交が深かったベンサムやフランシス・プレイスにも助言をもらったりした。 彼は小さい頃から年中勉強させられ、父親はミルが同年代の他の子供たちとは遊ばないようにさせた。父親のジェームズ・ミルはベンサムの思想に共感し、また協会主義(associationism)の支持者でもあった。ジェームズはそれらの考えにもとづき、ミルを優れた知識人として、またベンサムと自分に続く功利主義者として育て上げようとした。

この勉強法により、ミルは、三歳にしてギリシャ語のアルファベットと単語を母語の英語と共に教わり、八歳になるまでにアイソポス寓話、クセノポンの『アナバシス』、ヘロドトスの著作全てを読み、またルキアノスディオゲネス・ラエルティオスイソクラテス(Isocrates)、プラトンの六編(ミルの自伝を参照)を理解した。彼はまた英語で書かれた歴史の本も多く読んでいる。

8歳から13歳にかけてのミルの学習の記録は、彼と同時代に生きたスコットランドの哲学者であるアレクサンダー・ベイン(Alexander Bain)によって出版されている。ベインによると、ミルの自伝は彼が実際にやってのけた学習量を控えめに述べているという。8歳の時分にミルはラテン語ユークリッド幾何学代数学を学び始め、父親によって家族内で彼の弟たちの教師役に選ばれた。彼の読書の大部分はいまだ歴史物が大半を占めていたが、ミルはまた当時の学校や大学で広く読まれていた全てのラテン語とギリシア語の著作を読んでもいた。ミルはラテン語やギリシア語で作詩することは教わらず、それらの言語での著作の内容を理解するためだけに向けられていて、10歳の頃には彼はプラトンやデモステネスを難なく読むようになった。彼が12歳の頃、1818年に父親のジェームズによる著作『インドの歴史』が刊行され、そのほぼ直後からミルはスコラ論理学を全般的に学び始め、またそれと同時に、アリストテレス論理学に関する論文を原語で読みはじめた。翌年、彼は政治経済学を始め、アダム・スミス リカードを父親と共に学習・研究し、彼らの古典経済学生産要素の見方を完全に学び取った。

精神の危機とその後[編集]

ミルは21歳のときに本人の言う「精神の危機」に陥り、興味・意欲の著しい減退とうつ状態に陥った。ワーズワースなどの当時のロマン主義への接近と、(時系列上は少し遅れるが)1830年に出会ったときすでに人妻であったハリエット・テイラー英語版(1807年 - 1858年)との親密な交友関係によってミルはこの危機を乗り切っている。後者については、モラルにうるさいヴィクトリア朝期としてはかなりの問題であったが、ミル本人の証言によれば、この時期のミルとハリエットは清い交際を保っていた。ハリエットはテイラーとの間に二男一女があったが、1833年には末娘のヘレン(1831年 - 1907年)を連れて夫と別居し、週末にミルが彼女を訪問するライフスタイルをとった。ハリエットは社会活動家でもあり、その後のミルの著作全体に強い影響を与えている。ミルとハリエットはテイラーの死(1849年)の2年後、1851年に結婚したが、ハリエットのアヴィニョンでの急死(1858年)によって結婚生活は短命に終わった。ハリエットの没後は、先述した末娘ヘレンがミルの支えとなった。

ミルはオックスフォード大学ケンブリッジ大学から研究の場を提供されたがこれを断り、父と同様に1858年まで東インド会社に奉職した。従って、ミルは専門職としての「学者」であったことは一度も無い。

東インド会社の解散後は、ロンドン・ウエストミンスター選挙区選出の無所属下院議員として1865年から68年まで短期間ながら選出されている。ミルは当時のリベラリストの代表格として、この時期にアイルランドの負担軽減を主張し、イギリス下院における最初の婦人参政権論者となっている。「代議制統治論」では比例代表制普通選挙制など、はるかに時代の流れに先駆けた選挙制度改革を主張した。植民地におけるジャマイカ事件ダーウィンなどとともに反乱側(黒人)を擁護し、エア総督を弾劾する論陣を張ったのもこの時期である。もっとも、政治家としてはあまりにも先進的・理想主義的であったために世の受け入れるところとならず、次の選挙では落選している。結局、英国で男女平等の普通選挙が実現したのは、第一次大戦後の1928年のことであった。なお、ミルはバートランド・ラッセルの名付け親でもある。1865年、セント・アンドルーズ大学の学長に任命された(1865年-1868年)。

ミルはフランスのアヴィニョンに滞在中、丹毒連鎖球菌感染症の一つ)によって死去した。アヴィニョンに妻ハリエットと並んで墓がある。

学問におけるミルの業績[編集]

今日ミルの主著と考えられているものの多くは、1840年代以降(『自伝』における最終章にあたる)に書かれている。ミルは様々な学問で業績を残したが、彼の思想の基礎にあるものは、彼自身の功利主義という倫理的な姿勢であり、それらは『功利主義』(1861年)などにおいて彼自身が述べている。

また1902年創刊でイギリスの知識階級に長く影響を与えたホイッグ党系の文化評論雑誌『エディンバラ・レヴュー英語版』にも、バートランド・ラッセルに先んじてたびたび寄稿した。

政治哲学におけるミル[編集]

ミルの業績の中でもとりわけ彼の名が刻まれているのは政治哲学での貢献であろう。ミルの著わした『自由論』(1859年)は自由とは何かと問いかけるものに力強い議論を与える。ミルは、自由とは個人の発展に必要不可欠なものという前提から議論を進める。ミルによれば、私たちの精神的、道徳的な機能・能力は筋肉のようなもので、使わなければ衰えてしまう。しかし、もしも政府や世論によっていつも「これはできる。あれはできない。」と言われていたら、人々は自らの心や心の中に持っている判断する力を行使できない。よって、本当に人間らしくあるためには、個人は彼、彼女自身が自由に考え、話せる状態(=自由)が必要なのである。ここで、ミルの功利主義はその提唱者であるベンサムとはたもとを分かつ。簡単に述べると、ミルの功利主義は、快楽について、ベンサムが唱えた量的なものよりも質的な差異をみとめ精神的な快楽に重きを置いた。それは次のミルの有名な言葉で表されている。

...it is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied. And if the fool, or the pig, are of a different opinion, it is because they only know their own side of the question.


「満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい。そして愚者や豚の意見がこれと違っていても、それは彼らがこの問題を自分の立場からしか見ていないからである

— 『功利主義』第二章

ミルの『自由論』は個人にとって自由とは何か、また社会国家)が個人に対して行使する権力の道徳的に正当な限界について述べている。『自由論』の中でも取り分け有名なものに、彼の提案した「危害の原理」がある。「危害の原理」とは、人々は彼らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなだけ従事できるように自由であるべきだという原理である。この思想の支持者はしばしば リバタリアンと呼ばれる。リバタリアンという言葉が定義するものは広いが、通常は危害を加えない行為は合法化されるべきだという考え(=「危害の原理」)を含む。現代において、この「危害の原理」を基盤に幾人かのリバタリアンが合法化されることを支持するものとしては売春や現在非合法の薬物も含めた薬物使用がある。

ヴィルヘルム・フォン・フンボルト「国家活動の限界を決定するための試論」(1851年、刊行)はミルの「自由論」にも大きな影響を与えた。ミルは『自由論』において、政府がどの程度まで国民の自由を制限できるか、国民はどの程度の客観的証拠による注意によって、自らの自由な注意によってどの程度まで政府に干渉されずに、自由な意思決定をなすべきなのか考察を行なった。例として毒薬の薬品の注意書きは政府によって命令されるべきか、自らの自由な意思によって注意すべきかを挙げて考察している。もし自らの意思によって注意すべきであるならば、政府は注意書きをつけるように強制すべきではないが、それが不可能ならば政府は注意書きを強制すべきであると論じ、国民の能力の問題をも取り上げることとなった。 酒や、タバコの注意書きや、それと類似に経済学的に意味がある酒税や、タバコ税の意味についても同じことがいえる。もし注意すべきではないということになれば夜警国家となるであろうし、一方リバタリアンのように経済的なことのみに注意すべきであるということも可能であろうし、またスウェーデンのような福祉国家を主張することも可能であるということになる。

ミルは自由論の中でオーギュスト・コントの実証主義哲学を次のように解釈している。

M. Comte, in particular, whose social system, as unfolded in his Système de Politique Positive, aims at establishing (though by moral more than by legal appliances) a despotism of society over the individual, surpassing anything contemplated in the political ideal of the most rigid disciplinarian among the ancient philosophers.


特にコントは『実証主義政治システム(Système de Politique Positive)』の中で述べているように、個人に対する社会の専制を(法的手段によるよりも、むしろ道徳によって)確立することを目指した。それは古代の思想家の中でも最も規律を重んじる者の政治的理想が述べた内容をさらに越えるものであった。

— 『自由論』

このヴィルヘルム・フォン・フンボルトとコントの考え方がミルの自由論の根底にあったのである。

 

変革の時代と『資本論』マルクスのおすすめ『経済』編集部編 新日本出版社

27ページ(6)二つの経済学(マルクス経済学と近代経済経済学)とその性格の違い

ー現代では、マルクス経済学と近代経済学と二つの経済学がありますが、どう違うのでしょうか。日本の大学では、普通には両方の授業とゼミがあって、多くの学生が「どちらを学んだら良いか」と迷うのですが。

◎二つの経済学の学びのすすめ

 そういう質問をする学生に対して、私は、いつも「 お茶の性格の違いを踏まえながら、片方だけではなく、両方とも一通り学べ」と進めています。というのは、この二つの経済学を学ぶことによって、実はそれぞれの経済学についてより深い理解が得られるからです。それに、学生時代は、両方を学ぶ絶好のチャンスです。このチャンスを逃す手はありません。

 近代経済学というのは、一般的には、マルクス経済学に対抗する経済学の総称であって、時期と学者によって違う特徴を持っています。1870年代に「限界効用価値説」を唱えたイギリスのジェボンズ、オーストリアのメンガー、フランスのワルラスによって始められ、やがて「価値論無 用説」を探る学者に引き継がれ、相撲20世紀における代表者は、イギリスのケインズです。二つの経済学の性格の違いをもたらしているそもそもの原因は、マルクス経済学が史的唯物論により資本主義の社会と経済制度を「歴史的に過渡的なもの」と捉え、労働価値説をその理論的基礎としているのに対して、近代経済学は、人間社会の発展に関する独自の歴史観を持たず、資本主義の社会と経済制度を善かれ悪しかれ実際に与えられていていつまでも同じ量的な運動をするだけで質的な変化をしないもの、すなわち「所与のもの」と捉え、限界効用価値説または価値無用論を探っている点にあります。

◎セーが唱えた「生産の三要素説」

 経済学説も歴史を振り返ってみると、18世紀までは「労働価値説」を唱えたイギリス古典派経済学が経済学の主流でした。しかし、19世紀にイギリスで、世界の先頭を切って機械制大工業に基づく産業資本主義が成立し,労資の利害の対立が露わになり、労資の階級闘争が激しくなると、資本家階級の利益を弁護するために、労働価値説を歪曲し、ついには捨て去った「経済学」が現れました。その先端を切ったのが、セーが唱えた「生産の三要素説」です。それによると、資本主義生産の三つの要素(ファクター)は、資本( 機械、原料などのものとしての資本)、土地(自然としての土地)、労働(労働者の労働)であり、利潤は資本の用役(使用価値としての役立ち)が生み出したものであり、地代は土地の用役を生み出したものであり、賃金は労働者の用役が上田市たものとされます。こういう主張は、「資本ー利潤、土地ー地代、労働ー賃金」という定式にまとめられました。この定式において、資本家と事務士と労働者は退院協力して資本主義的生産を行うパートナーであり、それぞれの収入の正当な取得者として描かれています。

 そこで、マルクスは、「生産の三要素説」を資本家階級の利益を弁護するために経済学を俗流化した俗流経済学と呼びこの定式を俗流経済学の「三位一体定式」 と呼んで、批判しました。

 近代経済学は、俗流経済学ではありませんが、労働価値説を唱える経済学に対抗する経済学の潮流から生じたため、「生産の三要素説」の影響を受けている点があります。近代経済学は、ミクロ経済学とマクロ経済学とから成り立っていますが、そのマクロ経済学の標準的教科書は、たいてい「国民所得論」から始まります。

  経済学が「商品論」から始まるのと、まさに対照的ですね。そこで、資本主義生産の(価格で表示された)生産額は「原材料費+減価償却費+賃金+利潤」 レアリ、このうち新しく生産された額(純生産額)は「賃金+利潤」であり、このことは誰にでもわかる「経済常識」である。 このうち賃金は労働という生産要素の役に立ち(サービス)に対する報酬であり、利潤は資本(物としての資本)という生産要素の役立ちに対する報酬であり、両者はそれぞれの生産要素の役立ちによって付加された(新たに生産された)価値、すなわち付加価値(正確には純付加価値)であるといった説明がされています。

28ページ26行目まで 「セー」ではないようです。「セイ」でしょう。


ジャン=バティスト・セイJean-Baptiste Sayフランス語: [ʒãbatist sɛ]、[ジャン=バティスト・セ [1]]1767年1月5日 - 1832年11月15日)はフランス経済学者実業家古典的自由主義の信奉者であり、競争、自由貿易、および事業上の制約の引き下げに賛成する主張を行った。「供給はそれ自身の需要を創造する」という「セイの法則」で知られる。

目次

略歴[編集]

Lettres a M. Malthus, 1820

1767年フランス南東部のリヨンユグノー(仏カルバン派プロテスタント)に属する織物商の家に生まれる。少年時代はイタリア人僧侶の寄宿学校で歴史、イタリア語、ラテン語を学ぶ。1780年に父の商売の行き詰まりからパリに移住。

1785年から2年間、商人の徒弟として弟とともにイギリスで過ごしたあと、クラヴィエールの運営するパリの保険会社に勤める(クラヴィエールはジュネーヴの銀行家で1792年フランス革命期のジロンド派の大蔵大臣、のち投獄され獄死)。1792年に、熱烈な共和主義者でありフランス革命の成立を大いに喜んだセイは、義勇兵としてオーストリアプロイセン諸国連合軍との戦争に参加している。この頃アダム・スミス国富論第五版を購読、自由放任主義(laissez-faire)の思想に傾倒。1794年に共和主義者協会の主筆となり、1794年から1800年まで雑誌「哲学の十年(La Décade philosophique)」の編集をつとめる。その論調は89年の大革命以降、怪しげなものとして見られていたアンシャン・レジーム時代の思想のなかで啓蒙主義的な自由主義を復興させようとしたものである。彼の属した集団は「理論家協会(La société des idéologues)」と呼ばれ、デステュット・ド・トラシー(Antoine Destutt de Tracy)とともにフランスリベラル学派の創始者、指導的立場となった。

1799年ナポレオンのクーデター後に護民院の財務担当に就任。同年にフランスアカデミーの懸賞論文に応募するがこれは落選、1800年に「オルビー(Olbie)」として出版される(オルビーはセイの考えた仮想国家の名称)。1803年には、主著「経済学概論(Traité d'économie politique)」を出版。しかし徹底した自由放任主義を主張するこの論文著作はナポレオンの目にとまり、セイを私的会合に召還したうえで、戦争経済の構築のため保護政策と規制について書き直すように要求される。だがこれを拒んだため、同著作は禁止され、1804年には護民院を罷免されている。なお別のポストへの就任を提示されたものの、統領政府に失望した彼は1805年フランス北端のカレーに移りAuchy-lès-Hesdinで綿工場を設立。これが大成功し、1812年には経営株を転売して裕福になった彼はパリに戻り投機家として暮らした。ナポレオン没落後の1814年、政治経済学概論の第二版を出版し、イギリスに渡航。デヴィッド・リカードウイリアム・ゴドウィンらに面会、またリカードとともにベンサムJ・S・ミルを訪問したり、グラスゴー大学アダム・スミスが使用していた教壇に立ち感激したという。1815年にかけてこれらをまとめた手記を出版。

ルイ18世の復古王政はセイの業績を高く評価し多くの褒賞が与えられる。1816年には王立大学の経済学教官に招聘、1819年には王立工芸院の産業経済学の教授として迎えられ、1828年には講義録が出版されている。1819年と22年にはリカードがパリのセイを訪問、また20年にはJ・S・ミルがしばらく逗留した。この頃、セイの法則をめぐる一般過剰供給論争がおこる。トマス・ロバート・マルサスあての書簡(1820年)やシモンド・ド・シスモンディとのエンサイクロペディックレビュー誌上(1824年)で、彼らの主張した過少消費説を攻撃した。

1831年には経済学者としてははじめてコレージュ・ド・フランスに迎えられる。フランスリベラル学派の創設に多大な影響をおよぼした。

思想的な立場[編集]

セイは、しばしば「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約されるセイの法則で有名である。彼は、交換経済において交換を前提とした財を生産することは、自動的にその生産者のための同価値の所得の生産を要求するので、ある生産財が経済に注入されるとかならずその財を購入するための十分な需要を創造する、と主張した。それゆえ、生産量は、需要よりは財の供給量で決定されるとした。セイの交換経済においては失業なるものや、土地その他の資源の遊休はありえず、もしそれが存在するとすればそこには取引上の何らかの制約があるとした。(※セイの失業観には18世紀~19世紀初頭のプロテスタント的失業観の倫理的限界がある。失業の項参照)

彼はまた、貨幣は経済上の影響において中立である、と最初に主張した1人でもある。貨幣はそれ自身の目的のためにではなく、それで購入できる物のために所望される。貨幣循環の中での貨幣量の増大は、他の財の貨幣に換算した価格を増加させるが(インフレーションの原因)、財の相対価格や生産量を変化させることはないであろう。この考えは、後に経済学者らによって、貨幣数量説へと発展した。

セイの考えは、19世紀後半に起こった新古典派経済学に啓示を与えるのを助けた。セイの法則と呼ばれた議論は、後にジョン・メイナード・ケインズとケインズ主義の経済学者らによって激しく批判された。

セイの法則[編集]

著書「経済学概論(Traité d’économie politique, 1841, 6e édition)」第一巻第十五章「販路について(Des débouchés)」の記載から「販路法則(Loi des débouchés)」あるいは「セイの販路法則(Say's law of markets)と呼ばれることもある。

貨幣がこの相互交換において果たすのは一時的な役割だけである:交換が終わってみると、ある生産物に別の生産物が支払われたのだ、ということが常に見出される(L’argent ne remplit qu’un office passager dans ce double échange ; et, les échanges terminés, il se trouve toujours qu’on a payé des produits avec des produits.)


次のことは注目に値する。すなわち、ある生産物は作り出されるやいなや、その瞬間から、それ自身の総額の価値に見合った他の生産物の販路を供給するということである。(Il est bon de remarquer qu’un produit terminé offre, dès cet instant, un débouché à d’autres produits pour tout le montant de sa valeur.







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