第26回 『資本論』の学習 マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店
「日本には生理用品を買えない子が二割いる」日本の状態
学習に入る前に、前回6月13日 に学習しました。今回は6月20日となり、約一週間の時間が経過してしまいました。 時間はかかるのは仕方ないことです。それでもあまりに停滞してしまうと、今までのことを忘れてしまうのは、良くないのです。
何度も前に戻り、同じところを繰り返してしまうことになりますす。
ここで社会情勢を取り入れてみたいです。日本の貧困は労働者だけではなく学生にも、子供日も及んでいる。
「日本には生理用品を買えない子が二割いる」。今年三月、国会の質疑で、金銭的な理由で生理用品を購入できない学生が五人に一人に上るとのアンケート結果が相次いで取り上げられた。調査した任意団体「#みんなの生理」代表は二十三歳の谷口歩実さん。大学生だった二〇一九年ごろからこの問題に着目、大学の仲間と改善を求める活動を続けてきた。
(.https://www.chunichi.co.jp/ 中日新聞社)
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二、第六篇(「労働賃金」、第一九章|第二二章を含む)。三、第二四章のうち第四節(.……する諸事情」)から本巻の終わりまで、第二四章の最後の部分、第二五章および第八篇の全部(第二六章から三三章まで)を含んでいる。四、著者の二つの序文。本巻中の残余全部がムア氏の手になった。このようにして、各翻訳者は、自分の参加した翻訳にたいしてのみ責任を4つわけであるが、私は全篇にたいして総責任をとる。
※英語版の章別は、フラランス語版のそれによっている。マルクスは、フラ ^語版で第四章の諸節(これは同時に第二篇をなす)を章にしてしまった。第二四章を第八篇にし、この章の各節を章に変えた。 アドラッキー版編集者。
われわれの翻訳の底本として、ずっと用いたドイツ語第三版は、1883年私が著者の遺した覚書のたすけを借りて作成したのである。この覚書によると、第二版のいくつかの個所を、1883年に公刊されたフランス語版本文に印をつけた個所と置き換えるということが指示されている。だから、第二版の本文中に生じた変更は、たいていマルクスが英訳のための指示として書いておいたものの中に示された変更と一致している。この英訳は、10年前アメリカで企てられたものであるが、主として有能で適当な翻訳者がなかったために中止されたのである。この草稿はわれわれの旧友であるニュー・ジャーシ 1 のホボーケンにあるF・A・ゾルゲ君からわれわれのもとに提供された。この草稿には、なおさらにフランス語版から若干の插入をするように書いてある。しかし、それは第三版にたいする
最後の指示より幾年か旧いのであるから、私はこれを用いるのを適当だとは考えなかった。ただ例外的におよびとくにそれによって障害を突破しうるような場合に用いるだけにした。同様に、フランス語版本文は、多くの困難な個所で参照された。それは、常に原文の意味全体の中から多少翻訳で犠牲にしなければならなかったようなとき、著者自身が何を犠牲にしてかまわないと考えたかのよりどころとなったのである。
(1) Le Capital. Par Karl Marx,“M・J・ロア訳、著者の校閲ずみ。パリ、ラシャー トル。 この翻訳は、とくに第一巻の最後の部分において、ドイツ語第二版の本文にたいする著しい変更と補足とを含んでいる。
それでも、われわれが読者のために除くことのきなかった一つの困難がある。すなわち、日常生活の語法とちがっているだけでなく、通常の経済学のそれともちがっている意味に、ある種の表現が利用されていることである。だが、これは避けえないのであった。ある科学の新たなる見解は、すべて、この科学の専門用語における革命を内包している。このことをもっともよく証明するのは、化学である。ここでは全用語が約20年ごとに根本的に変わっている。またここでは有機的化合物で、きわめて多くのちがった名称を経てこなかったゆのはないといってよい。経済学は、一般に商業生活や工業生活の言葉をあるがままに用い、またこれで操作することに満足した。この場合、経済学は、このようにすることによって、これらの言葉で表わされる思想のせまい限界内にとどまってしまうようになるということを、まったく看過していた。だから、古典派経済学すら、利潤や地代め、かの生産物の不払い部分の細分であり、一片にすぎやるのであって、労働者がこれをその企業家(その最後の専有的所有者ではないが、その最初の取得者である)に供与しなければならぬものであるということを、完全に知ってはいたが、少し利潤と地代の普通の概念を超えなかった。だから古典派経済学は、一度生産物のこの不払い部分(マルクスは剰余生産物と名づけている)
を、総体において、全的なものとしては研究しなかった。またそのために、その発生や性質についても、その価値の補足的分配を規制する諸法則についてる、かつて明瞭な理解に到達することがなかった。同様に一切の産業は、農業でや手工業でもないかぎりは、無差別にマニュファクチャという表現で総括される。このために、経済史の2っの大きな本質的にちがった期間の間の区別はなくなってしまう。すなわち、一は本来のマニュファクチャの期間であって、手工労働による分業にもとづくものであり、二は近代的工業の期間であって、それは機械装置によるものなのである。だが、近代資本主義的生産を人類の経済史上の単なる発展段階と見る理論が、この生産様式を恒久的で最後二、第六篇(「労働賃金」、第一九章|第二二章を含む)。三、第二四章のうち第四節(.……する諸事情」)か
ら本巻の終わりまで、第二四章の最後の部分、第二五章および第八篇の全部(第二六章から三三章まで)を含んでいる。
四、著者の二つの序文。本巻中の残余全部がムア氏の手になった。このようにして、各翻訳者は、自分の参加した翻
訳にたいしてのみ責任を4つわけであるが、私は全篇にたいして総責任をとる。
英語版の章別は、フラランス語版のそれによっている。マルクスは、フラ ^語版で第四章の諸節(これは同時に第二篇をなす)を章にしてしまった。第二四章を第八篇にし、この章の各節を章に変えた。 アドラッキー版編集者。
われわれの翻訳の底本として、ずっと用いたドイツ語第三版は、一八八三年私が著者の遺した覚書のたすけを借りて作成したのである。この覚書によると、第二版のいくつかの個所を、一八七三年に公刊されたフランス語版本文に印をつけた個所と置き換えるということが指示されている。だから、第二版の本文中に生じた変更は、たいていマルクスが英訳のための指示として書いておいたものの中に示された変更と一致している。この英訳は、一〇年前アメリカで企てられたものであるが、主として有能で適当な翻訳者がなかったために中止されたのである。この草稿はわれわれの旧友であるニュー・ジャーシ 1 のホボーケンにあるF・A・ゾルゲ君からわれわれのもとに提供された。この草稿には、なおさらにフランス語版から若干の插入をするように書いてある。しかし、それは第三版にたいする最後の指示より幾年か旧いのであるから、私はこれを用いるのを適当だとは考えなかった。ただ例外的におよびとくにそれによって障害を突破しうるような場合に用いるだけにした。同様に、フランス語版本文は、多くの困難な個所で参照された。それは、常に原文の意味全体の中から多少翻訳で犠牲にしなければならなかったようなとき、著者自身が何を犠牲にしてかまわないと考えたかのよりどころとなったのである。
(1) Le Capital. Par Karl Marx,“M・J・ロア訳、著者の校閲ずみ。パリ、ラシャー トル。 この翻訳は、とくに第一巻の最後の部分において、ドイツ語第二版の本文にたいする著しい変更と補足とを含んでいる。
それでも、われわれが読者のために除くことのきなかった一つの困難がある。すなわち、日常生活の語法とちがっているだけでなく、通常の経済学のそれともちがっている意味に、ある種の表現が利用されていることである。だが、これは避けえないのであった。ある科学の新たなる見解は、すべて、この科学の専門用語における革命を内包している。このことをもっとちよく証明するのは、化学である。ここでは全用語が約二〇年ごとに根本的に変わっている。またここでは有機的化合物で、きわめて多くのちがった名称を経てこなかったゆのはないといってよい。経済学は、一般に商業生活や工業生活の言葉をあるがままに用い、またこれで操作することに満足した。この場合、経済学は、このようにすることによって、これらの言葉で表わされる思想のせまい限界内にとどまってしまうようになるということを、まったく看過していた。だから、古典派経済学すら、利潤や地代め、かの生産物の不払い部分の細分であり、一片にすぎやるのであって、労働者がこれをその企業家(その最後の専有的所有者ではないが、その最初の取得者である)に供与しなければならぬものであるということを、完全に知ってはいたが、少し利潤と地代の普通の概念を超えなかった。だから古典派経済学は、一度生産物のこの不払い部分(マルクスは剰余生産物と名づけている)を、総体において、全的なものとしては研究しなかった。またそのために、その発生や性質についても、その価値の補足的分配を規制する諸法則についてる、かつて明瞭な理解に到達することがなかった。同様に一切の産業は、農業でや手工業でもないかぎりは、無差別にマニュファクチャという表現で総括される。このために、経済史の二つの大きな本質的にちがった期間の間の区別はなくなってしまう。すなわち、一は本来のマニュファクチャの期間であって、手工労働による分業にもとづくものであり、二は近代的工業の期間であって、それは機械装置によるものなのである。だが、近代資本主義的生産を人類の経済史上の単なる発展段階と見る理論が、この生産様式を恒久的で最後のものであると見る著者たちの慣れている表現とちがっ多表現っを用いざるをえないということは、当然のことである。
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