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2021年12月14日火曜日

第69回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 140ページ

 第69回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 140ページ 


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密



あったアテネおよびローマについては、正しくない、と。まず第一に奇妙なのは、中世と古典古代世界についてのこの世間周知の決まり文句をまだ知らないでいる人があるものと前提して、よろこんでいる人がいるということである。


中世がカトリックによって、古典古代世界が政治によって、生活していくことができなか

ったことだけは、はっきりしている。


それどころか、それらがその暮らしを立てた仕方・様式こそ、なぜ、

古典古代では政治が、中世ではカトリックが主役を演じたかを説明するのである。


さらには、たとえばローマ共和政の歴史をほとんど知らなくても、土地所有の歴史がその裏面史をなしていることくらいはわかる。


他面では、すでにドン・キホーテは、遍歴騎士道が社会のどのような経済的形態とも同じように調和すると妄信した誤りのために、ひどい目にあっているのである。


* [ヴォルテールによって批判の対象とされたライプニッツ『弁神論』に見られる予定調和論の「最善の世界」、「最善の仕組み」が念頭にあると思われる。


本書、第三篇、第五章、第二節中の訳注参照】


  商品世界にまつわりついている物神崇拝に、あるいは社会的労働諸規定の対象的外観に、一部の経済学者がどんなにはなはだしくあざむかれているかということは、とりわけ、交換価値の形成における自然の役割についての退屈でばかばかしい論争が示している。


交換価値は、ある物に支出された労働を表現する一定の社会的様式であるから、たとえば為替相場と同じように、それが自然素材を含むことはありえないのである

商品形態は、ブルジョア的生産のもっとも一般的なもっとも未発展な形態であるから――だからこそ、商品形態は、こんにちほど支配的な、それゆえ特徴的な様式でではないにしても、早くから登場するのだが――その物神的性格はまだ比較的にたやすく見抜けるように見える。


もっと具体的な形態の場合には、簡単であるという外見さえ消えうせる。重金主義の幻想はどこから来るのか?


 重金主義は、金銀を見ても、貨幣としての金銀は一つの社会的生産関係を、しかも奇妙な社会的属性を帯びた自然物という形態で、表示するのだということを見てとることができなかった。


また、お高くとまって重金主義を冷笑している近代の経済学は、それが資本を取り扱うやいなや、その物神崇拝は手に取るように明らかになるではないか?


 地代は土地から生じるのであって、社会から生じるのではないという重農主義的幻想が消えてから、どれだけたったであろうか?


しかし、先回りしないために、ここでは商品形態そのものについてのもう一つの例で満足することにしよう。


諸商品がものを言えるとすれば、こう言うであろう。


われわれの使用価値は人間の関心を引くかもしれない。それは物としてのわれわれには属さない。


そうではなくて、われわれに物的に属 しているものは、われわれの価値である。商品物としてのわれわれ自身のつき合いがそのことを証明している。


われわれは、ただ交換価値としてのみ自分たち自身を互いに関連させ合うのだ、と。では、

経済学者が、この商品の魂をどのように伝えるかを聞いてみよう。


「価値」(交換価値) 「は物の属性 であり、富」(使用価値) 「は人間の属性 である。


価値は、この意味では、必然的に交換を含んでいるが、富はそうではない」。「富」(使用価値)「は人間の属性であり、価値は商品の属性である。人間や社会は富んでいる。


真珠やダイヤモンドには価値がある。 •真珠やダイヤモンドは、真珠やダイヤモンドとして価値をもつ」。

(三四)『経済学におけるある種の用語論争の考察。とくに価値および需要供給にかんして』、ロンドン、一八二一年一六ページ  142ページ1行目

たましい


2021年12月12日日曜日

第68回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 138ページ

 第68回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 138ページ 岩波書店版 106ページ

(新日本版ではどうなっているか。読んでみたい)

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密




あるいは商品そのものの本性にとって外的なものとして、取り扱っている。その原因は、価値の大きさの分析にすっかり注意を奪われていたというだけではない。それはもっと深いところにある。


労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のもっとも抽象的な、しかしまたもっとも一般的な形態であり、ブルジョア的生産様式はこの形態によって一つの特殊な種類の社会的生産として、それゆえまた同時に歴史的なものとして、性格づけられている。


だから、人がこの生産様式を社会的生産の永遠の自然的形態と見誤るならば、人は必然的に、価値形態の独自性を、それゆえ商品形態の、すすんでは貨幣形態、資本形態等々の独自性を見落とすことになるのである。


だから、労働時間による価値の大きさの測定についてはまったく一致している経済学者たちのあいだに、貨幣、すなわち一般的等価物の完成した姿態、については、きわめて種々雑多な、まったく矛盾した諸見解が見られるのである。


このことは、たとえば、ありふれた貨幣の定義ではもはや間に合わない銀行業の取り扱いにさいしてはっきりと現われてくる。」

それゆえ、反対に、価値のうちに社会的な形態だけを見る、あるいはむしろ実体のない社会的形態の外観だけを見る復活した重商主義(ガニルなど)が生じた。


―ここできっぱりと断わっておくが、私が古典派経済学と言うのは、ブルジョア的生産諸関係の内的連関を探求するW・ペティ以来のすべての経済学をさし、これにたいして俗流経済学と言うのは、外* 見上の連関のなかだけをうろつき回り、


いわばもっとも粗雑な現象のもっともらしい解説とブルジョア的自家需要とのために、科学的経済学によってとうの昔に与えら に材料を絶えずあらためて反芻し、それ以外には、自分たち自身の最善の世界についてのブルジョア的生産当事者たちの平凡でひとりよがりの諸観念を*体系づけ、学問めかし、永遠の真理だと宣言するだけにとどまる経済学をさしている。


(三三)「経済学者たちは奇妙なやり方をする。彼らにとってはただ 二種類の制度 があるだけだ。人為的制度と自然的制度と。封建制の制度は人為的制度であり、ブルジョアジーの制度は自然的制度である。


彼らはこの点では、同じく二つの種類の宗教を区別する神学者たちに似ている。彼らのものでないどの宗教も人間のっくりものであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示なのである。


 そういうわけで、かつてはとにかく歴史があったが、もうそれは 存在しないのだ」(カール・マルクス『哲学の貧困。プルードン氏の「貧困の 哲学」にたいする返答』、一八四七年、一二三ページ[邦訳『全集』、第四巻、一四三ー一四四ページ)。ここで実にこっけいなのはバスティア氏で、彼は、古代のギリシア人やローマ人はただ略奪だけで生活していたと思い込んでいる


しかし、何世紀にもわたって略奪で生活していくからには、そこには略奪されるべきものが

絶えず存在しなければならない。言い換えれば、略奪の対象が引き続き再生産されていなければならない。


とすれば、ギリシア人やローマ人も一つの生産過程を、したがって一つの経済をもっていて、それが彼らの世界の物質的基礎をなしていたことは、ブルジョア経済がこんにちの世界の物質的基礎をなしていることとまったく同じであるように思われる。


それとも、バスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式は略奪体制の上に立っているとでも考えているのだろうか?


 そうだとすると、彼はあぶない地盤の上にいることになる。


アリストテレスのような大思想家でさえ奴隷労働の評価で誤ったのに、バスティアのようなちっぽけな経済学者がどうして賃労働の評価をまともにやれるはずがあろうか?


―この機会に、私の著書『経済学批判』(一八五九年)が出たときに、アメリカのあるドイツ語新聞から 私に加えられた異論を 簡単にしりぞけておこう。


この新聞によれば、私の見解、すなわち、一定の生産様式といつでもこれに照応している生産諸関係、要するに、「社会の経済的構造は、法的かつ 政治的上部構造が その上に立ち、一定の社会的意識形態がそれに照応するところの 実在的土台である」ということ、「物質的生活の 生産様式が、社会的、政治的、および精神的生活過程一般を制約する」という私の見解 およそこうした見解は、物質的利害が支配的であるこんにちの世界については確かに正しいが、カトリックが支配的であった中世についてや、政治が支配的であった一四〇ページ一行目


2021年12月11日土曜日

第67回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 106ページ

 第67回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 106ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密


価値をもち、あるいは二つの相ことなる価値をすらっているとすれば、これらの物は、 これをただ自分がつくられてくる労働のそれ(価値)から得るほかにありえない」(リカ ー ド

I ド『経済学および課税の原理』第三版、ロンドン、一八二一年、三三四ペー ジ〔邦訳、小泉信三訳、岩波文庫版、下巻、一九ページ]。〔デステュトラシ『観念学概要』第四・第五部、パリ、一八二六年、三五・三六ページ、参照])。


われわれはリカードが、デステュットにたいして、彼自身のより深い意味を押しつけていることだけを示唆しておく。


デステュットは、事実、一方では富をなす一切の物が「これを作り出した労働を代表する」

と言っているが、他方では、それらの物が、その「二つのちがった価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得ると言っている。


彼は、これをもって、俗流経済学の浅薄さに堕ちている。俗流経済学は、一商品(この場合労働)の価値を前提して、これによって後で他の商品の価値を規定しようとするのである。 


リカードは彼をこう読んでいる、すなわち、使用価値においても交換価値においても、労働(労働の価値ではない)が示されていると。


しかし彼自身は、同じく二重に表示される労働の二重性を区別していない。したがって、彼は、「価値と富、その属性の相違」という章全体にわたって、苦心してJ・B・セイ程度の男の通俗性と闘わなければならない。


したがって、最後にまた彼は、デステュットが、彼自身と価値源泉としての労働にっいて一致するが、また他方で価値概念についてセイと調和することを、大変に驚いている。


(三二) 古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、 この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでちいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。


その理由は、価値の大ぃさの分析が、その注意を吸いつくしているということにだけあるのではない それはちっと深いところにある。


労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のちっと抽象的な、だがまたもっと一般的な形態であって、この生産様式は、 これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。


したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性を看過することになる。


それゆえに、労働時間による価値の大いさ の秤定について全く一致する経済学者に、貨弊、 すなわち一般的等価の完成体についての、あっとめ混乱した、そしてもっとめ矛盾した観念を見ることにな のである。


このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取扱いにあらわれる。

ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、ちはや間に合わなくなる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としか見ないような新装の重商主義(ガニイ等々)が、 ここに発生した。


――これを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるぬのは、W・ペティ以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学と反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探究するあのである。


俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつき廻るだけで、いわばちっとお粗け

ずりの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学によってとっくに与えられている材料を、絶えず繰りかえして反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が、彼ら自身の最良の世界にっいてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理窟づけ、しかもこれを永遠の真理として宣言する、ということに限られているのである。


(三三) 「経済学者たちは一種独特のやり方をするのだ。彼らにとっては、制度に二種類があるだけである。人工的なそれと自然的なそれである。


封建体制の制度は人工的のそれであり、ブルジョアジー の制度は自然的である。彼らはこの点では神学者に似ている。彼らも同じように二種の宗教をたてる。


彼らの宗教でない宗教は、すべて人間の作ったのであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示である。―かくて、歴史はそのようにつづいたのであるが、もはや歴史は終わった」(カー マルクス『哲学の貧困。プルードン氏の貧困の哲学』に答えて』一八四七年、一二三ページィーツ版『全集』第四巻、一三九ページ。邦訳、山村喬訳『哲学の貧困』岩波文庫版、一三二一一三三ページ。新潮社版『選集』第三巻、九三一九四ページ])。古代ギリシア人も口ー マ人も掠奪だけで生きていたと思っているバスティア氏は、まことにおかしい考え方だ。


しかし、もし数世紀を通じて掠奪で生きられるとすれば、絶えず何か掠奪さるべきるのが、そこになければならない いいかえれば、掠奪の対象が継続的に再生産されなければならない。

したがって、ギリシア人もローマ人も、一つの生産過程を含っていたようであ

る。したがって、ブルジ ア経済が今日の世界の物質的基礎をなしているのと全く同じように、彼らの世界の物質的基礎をなしていた経済、 もっていたようである。


それとちバスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式が、一つの掠奪体制によるものであるとでも考えているのだろうか? こうなると、彼の立っている土台があぶないことになる。


アリストテレスほどの巨人思想家が、奴隷労働の評価において過っているとすれば、バスティアのような体儒(こびと)経済学者が、どうして賃金労働の評価において正しいことをいえようか?


|私はこの機会を摑んで、私の著書『経済学批判』(一八五九年)の刊行に際して、一ドイツ語

アメリカ新聞によってなされた抗議を厳しておきたい。


この新聞は、こういうのである、私の見解、すなわち、一定の生産様式とこれにつねに相応する生産諸関係、簡単にいえば「社会の経済的構造が、法律的政治的上部構造のよって立ち

かっこれに対して108ページ1行目


2021年12月10日金曜日

第66回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 104ページ

 第66回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 104ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密



正しい比例をとるようにように規制する。他方において、労働時間は、同時に生産者の共同労働にたいする、したがってまた共同生産物の個人的に費消さるべき部分にたいする、個人的参加分の尺度として役立つ。


人々のその労働とその労働生産物とにたいする社会的な連結は、このばあい生産において分配においての簡単明瞭であることに変わりない。


商品生産者の一般的に社会的な生産関係は、彼らの生産物に商品として、したがって価値として相対し、また、この物的な形態の中に、彼らの私的労働が相互に等一の人間労働として相連結するということにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽象的人間の礼拝をもって、とくにそのブルジョア的発展たるプロテスタンティズム、理神論等において、やっとや適応した宗教形態となっている。


古代アジア的な、古代的等々の生産様式においては、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての存在は、一つの副次的な役割を演ずる。


だが、この役割は、その共同体が没落の段階にすすむほど、重要となってくる。本来の商業

民族は、ェピクロスの神々のように、あるいはポーランド社会の小穴の中のユダヤ人のように、古代世界の合間合間にのみ、存在している。


かの古代の社会的生産有機体は、ブルジョア的なそれにくらべると、特別にずっと単純であ

り明瞭である。しかし、それは個々の人間が、他の人間との自然的な種族結合の臍の緒をまだ切り取っていない、その未成熟にもとづくか、あるいは直接的な支配関係または隷属関係にとづいているのである。





これらの諸関係は、労働の生産諸力の発展段階が低いということ、これに応じて、人間の物質的な生活をつくり出す過程の内部における諸関係、したがって相互間と自然とにたいする諸関係が、狭隘であるということによって、条件づけられている。


このような実際の狭隘さは、思想的には古い自然宗教や民族宗教に反映されている。現実世界の宗教的反映は、一般に、実際的な日常勤労生活の諸関係が、人間にたいして、相互間のおよび自然との間の合理的な関係を毎日明瞭に示すようになってはじめて、消滅しうるのである。


社会的生活過程、すなわち、物質的生産過程の態容は、それが自由に社会をなしている人間の生産物として、彼らの意識的な計画的な規制のあとに立つようになってはじめて、その神秘的なおおいをぬぎすてるのである。


だが、このためには、社会の物質的基礎が、いいかえると一連の物質的存立条件が、必要とされる。これらの諸条件自体は、また永い苦悩にみちた発展史の自然発生的な産物である。

(三)

さて経済学は不完全ではあるが価値と価値の大いさを分析したし、またこれらの形態にかくされている内容を発見したのではあるが、それはまだ一度の、なぜにこの内容が、かの形態をとり、したがって、なぜに労働が価値において、また労働の継続時間による労働の秤量が、労働生産物の価値の大いさの中に、示されるのか? という疑問をすら提起しなかった。


生產過程が人々を支配し、人間はまだ生産過程を支配していない社会形成体に属するということが、その額に書き記されている諸法式は、人間のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じように、自明の自然必然性と考えられている。


したがって、社会的生産有機体の先ブルジョア的形態は、あたかも先キリスト教的宗教が、教父たちによってなされたと同じ取扱いを、経済学によって受けている。


(三一)リカードの価値の大いさ の分析ーそしてこれは最良のものである に不充分なところがあることについては、本書の第三および第四巻で述べる。しかしながら、価値そのものについていえば、古典派経済学はいずこにおいても、明白にそして明瞭な意識をあって、価値に示されている労働を、その生産物の使用価値に示されている同じ労働から、区別することをしていない。


古典派経済学は、もちろん事実上区別はしている。というのは、それは労働を一方では量的に、他方では質的に考察しているからである。しかしながら、古典派経済学には労働の単に量的な相違が、その質的な同一性または等一性を前提しており、したがって、その抽象的に人間的な労働への整約を前提とするということは、思いもよらぬのである。

リカードは、例えば、デステュット・ドゥ ・トラシ が こう述べるとき、これと同見解であると宣言している、すなわち「われわれの肉体的および精神的の能力のみが、われわれの本源的な富であることは確かであるから、これら能力の使用、すなわち一定種の労働はわれわれの本源的な財宝である。


われわれが富と名づけるかの一切の物を作るのが、つねにこの使用なのである。……その上

に、労働が作り出したかの一切の物は、労働を表わしているにすぎないこと。確かである。そしてちしこれらの物が、一つの価値をもち、106ページ1行目


2021年12月9日木曜日

第65回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 102ページ

 第65回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 102ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密




とが、物質的生産の社会的諸関係にめ、その上に築かれている生活部面にも、特徴となっている。しかしながら、与えられた社会的基礎をなしているのは、まさしく人身的隷属関係であるのであるから、労働と生産物とは、その実在性とちがった幻想的な態容をとる必要はない。


それらのものは、奉仕として、また現物貢納として、社会の営為の中にはいる。労働の自然形態と、そして商品生産の基礎におけるようにその一般性ではなく、その特殊性とが、ここでは労働の直接に社会的な形態である。


俗役労働は、商品を生産する労働と同じように時間によってはかられる。だが各農奴は、彼がその主人の仕事のために支出するのが、彼の個人的労働力の一定量であるということをっている。


僧侶にたいして納むべき十分の一税は、僧侶の祝福よりずっとはっきりしている。したがって、人々がここで相対して着ている仮装をどう観るにしても、彼らの労働における人々の社会的関係は、いずれにして彼ら自身の人的の関係として現われ、物の、すなわち、労働生産物の社会的関係に扮装してはいない。


共同的な、すなわち直接に社会的となっている労働を考察するために、われわれはその自然発生的な形態、すなわち、すべての文化民族の歴史の入口で、われわれが出会うような形態に帰る必要はない。


あっと身近な例をあげると、自家の欲望のために穀物や家畜や撚糸や亜麻布や衣服等を生産している、農家の田園的家父長的な産業がある。これら各種の物は、家族にとって、その家族労働のそれぞれの生産物である。


しかしそれがお互いに商品として相対するのではない。これらの生産物を作り出す各種の労働、すなわち、農耕、牧畜、紡績、機織、裁縫等々は、それぞれの自然形態のままで社会的な機能をなしている。


というのは、それらは、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的な分業をやって行なわれている家族の機能であるからである。


性別や年齢別、ならびに季節の変化ととやに変化する労働の自然諸条件が、家族間における労働の分配と個々の家族員の労働時間とを規制する。


しかしながら、継続時間によって測定される個人的労働力の支出は、ここでは、初めから労働自身の社会的規定として現われる。


というのは個人的労働力は、本来家族の共同の労働力の器官としてのみ作用するからである。

(三0) 第二版への注。「自然発生的な共有財産制の形態が、特殊的にスラヴ人的の形態であるとか、さらには、ロシア以外にはない形態であるなどというような主張は、最近拡がっている笑うべき偏見である。


それは、ローマ人、ゲルマン人、ケルト人に立証されうる原始形態であるが、これについては、いろいろな見本でいっぱいの見本帳が、インド人の間に、部分的には崩壊しているが、な依然として存している。


アジア的な、とくにインドの共有財産形態のより正確な研究は、各種の自然発生的共有財産制の形態から、いかにその崩壊の種々の形態が出てくるかということを証明するであろう。


こうして例えば、ローマ人やゲルマン人の私有財産制の各種の原型を、インド共有財産制の種々なる形態から導き出すことができるのである」(カール・マルクス『批判』10ページ[ディーツ版『全集』第一三巻、二一ページ。邦訳、岩波文庫版、三一ページ。新潮社版『選集』第七巻、六三ページ])。


最後にわれわれは、目先きを変えて、自由な人間の一つの協力体を考えてみよう。人々は、共同の生産手段をもって労働し、彼らの多くの個人的労働力を、意識して一つの社会的労働力として支出する。


ロビンソンの労働の一切の規定がここで繰り返される。ただ、個人的であるかわりに社会的であることがちがっている。


口ビンソンのすべて生産物は、もっぱら彼の個人的な生産物であった。したがってまた、直接に彼のための使用対象であった。この協力体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部は、再び生産手段として用いられる。


それは依然として社会的である。しかしながら、他の部分は生活手段として、協力体の成員によって費消される。


したがって、この部分は彼らの間に分配されなければならぬ。この分配の様式は、社会的生産有機体自身の特別な様式とともに、またこれに相応する生産者の歴史的発展の高さとともに、変化するであろう。


ただ商品生産と比較するために、各生産者の生活手段にたいする分け前は、その労働時間によって規定されると前提する。


したがって、労働時間は二重の役割を演ずるであろう。労働時間の社会的に計画的な分配は、各種の労働機能が各種の欲望にたいして正しい比例をとる103ページ末


2021年12月8日水曜日

第64回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 100ページ

 第64回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 100ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密





労働生産物に商品の刻印を捺し、したがって、商品流通の前提となっている形態が、すでに社会生活の自然形態の固定性をもつようになってはじめて、人間は、彼らがむしろすでに不変であると考えている、


このような諸形態の歴史的性質についてでなく、それらの形態の内包しているものについて、考察をめぐらすようになる。


このようにして、価値の大いさの規定に導いたのは、商品価格の分析にほかならず、その価値性格の確定に導いたのは、商品が共同してなす貨幣表現にほかならなかったのである。


ところが、私的労働の社会的性格を、したがって私的労働者の社会的諸関係を明白にするかわりに、実際上蔽いかぶせてしまうの、まさに商品世界のこの完成した形態 ――貨幣形態―である。


私が、上衣、深靴等々は、抽象的人間的労働の一般的体現としての亜麻布に関係しているというとすれば、この表現の倒錯は、目を射るように明らかである。


しかし、もし上衣や深靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的等価としての亜麻布にあるいは事実上すこしことなるところはないのだが、金や銀に――関係せしめるとすれば、


彼らにとっては、その私的労働の社会的総労働にたいする関係は、正確にこの倒錯した形態で現われる。このような形態が、まさにブルジョア的経済学の諸範疇をなしているのである。


それは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、すなわち、商品生産の生産諸関係にたいして、社会的に妥当した、したがって客観的である思惟形態なのである。


それゆえに、商品生産にもとづく労働生産物を、はっきり見えないようにしている商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、われわれが身をさけて、他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる。

            (三九)

経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず、ロビンソンをかれの島に出現させよう。本来彼は控え目な男ではあったが、それでもとにかく彼は、各種の欲望を充足せしめなければならない。


したがってまた、各種の有用労働をなさなければならない。道具を作り、家具を製造し、騎馬を馴らし、漁りし、猟をしなければならない。祈繕その他のことはここでは語らない。というのは、われわれのロビンソンは、このことに楽しみを見出し、このような活動を休息と考えているからである。


彼の生産的な仕事がいろいろとあるにゃかかわらず、彼は、それらの仕事が同じ口ビンソンのちがった活動形態にすぎないことを知っている。


したがって、人間労働のちがった仕方であるにすぎないことを知っている。必要そのものが、彼の時間を、正確にそのちがった仕事の間に分配しなければならないようにする。


彼の総活動の中で、どの仕事が割合をより多く、どのそれがより少なく占めるかということは、目的とした有用効果の達成のために克服しなければならぬ困難の大小にかかっている。


経験が彼にこのことを教える。そして、時計、台帳、インクおよびペンを難破船から救い出したわがロビンソンは、よきイギリス人として、まおなく自分自身について記帳しはじめる。


彼の財産目録は、彼がやっている使用対象、彼の生産に必要な各種の作業、最後に、これら各種の生産物の一定量が、平均して彼に支出させる労働時間の明細表を含んでいる。


ロビンソンと彼の自分で作り出した富をなしている物との間の一切の関係は、ここではきわめて単純であり、明白であって、M・ヴィルト氏すら、特別に精神を緊張させることなくと、これを理解できるようである。


そしてそれにちかかわらず、この中には価値の一切の本質的な規定が含まれている。


(二九) 第二版への注。リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない。「彼は原始漁夫と原始猟師を、ただちに商品所有者にして魚と野獣とを交換させる、これらの交換価値に対象化されている労働時間に比例して。


このおり、彼は、原始漁夫と原始猟師とが、彼らの労働要具の計算のために、一八一七年ロン ドン の取引所で行なわれるような減価計算表を利用するという、時代錯誤に陥っている。

"オーウェン氏の平行四辺形』 は、彼がブルジョア的社会形態以外に識っている唯一の社会形態であるように見える」(カール・マルクス『批判』三八・三九ページ[ディーツ版『全集』第一三巻、四六ページ。邦訳、岩波文庫版、六九・七〇ページ。新潮社版『選集』第七巻、八六・八七ページ])。


いまわれわれは、ロビンソンの明るい島から陰鬱なヨーロッパの中世に移ろう。


ここでは独立人のかわりに、すべての人が非独立的であるのを見出す――農奴と領主、家臣と封主、俗人と僧侶という風に。人身的な隷属ということが、102ページ1行目


2021年12月7日火曜日

第63回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 98ページ

 第63回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 98ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密




置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし、彼らはこれをなすのである。したがって、価値のひたいの上には、それが何であるかということは書かれていない。価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字に転化するのである。


後になって、人間は、彼ら自身の社会的生産物の秘密を探るために、この象形文字の意味を解こうと試みる。


なぜかというに、使用対象の価値としての規定は、言語と同様に彼らの社会的な生産物であるからである。労働生産物が、価値であるかぎり、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現であるという、後の科学的発見は、人類の発展史上に時期を画するものである。


しかし、決して労働の社会的性格の対象的外観を逐い払うものではない。


この特別なる生産形態、すなわち、商品生産にたいしてのみ行なわれているもの、すなわち、相互に独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が、人間労働としてのその等一性にあり、そして労働生産物の価値性格の形態をとるということは、かの發見以前においても以後においても商品生産の諸関係の中に囚われているものにとっては、あたかや空気をその成素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続せしめるのを妨げぬと同じように、終局的なものに見えるのである。


(二七) 第二版への注。したがって、ガリアニが、価値は人々の間の関係である。ー„La Ricchezza è una ragione tra due per-sone"ー

といっているとすれば、彼はこう付け加えなければならなかったであろう、すなわち、物的外被の下にかくされた関係と(ガリアニ『貨幣について』二三一ページ、クストディ編『イタリア古典経済学叢書』近代篇、第三巻、ミラ 一八0三年)。


生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるのは、自分の生産物にたいしてどれだけ他人の生産物を得るか、したがって、生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。


このような割合は、ある程度習慣的な固定性

をもつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性質から生ずるように見える。したがって、例えば一トンの鉄と二ォンスの金とは、一封度の金と一封度の鉄が、その物理学的化学的属性を異にするにかかわらず同じ重さであるように、同じ価値であることになる。


事実、労働生産物の価値性格は、価値の大いさとしてのその働きによってはじめて固定する。この価値の大いさは、つねに交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。


彼ら自身の社会的運動は、彼らにとっては、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動を規制するのではなくして、その運動に規制される。


相互に独立して営まれるが、社会的分業の自然発生的構成分子として、あらゆる面において相互に依存している私的労働が、継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、私的労働の生産物の偶然的で、つねに動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる労働時間が、規制的な自然法則として強力的に貫かれること、


あたから家が人の頭上に崩れかかるばあいにおける重力の法則のようなものであるからであるが、このことを、経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。


労働時間によって価値の大いさが規定されるということは、したがって、相対的商品価値の現象的運動のもとにかくされた秘密である。


その発見は、労働生産物の価値の大いさが、単なる偶然的な規定であるという外観をのぞくが、しかし、少しもその事物的な形態をなくするものではない。


(二八)「周期的な革命によってのみ貫徹されうる法則を何と考えるべきであろうか? それはまさしく一つの自然法則であって、関与者たちの無意識にとづいているあのなのである」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、『独仏年誌』

(アーノルト ルーゲおよびカール マルクス編、パリ、一八四四年)、所載[ディーツ版『全集』第一巻、五一五ページ。邦訳、新潮社版『選集』第一巻、一六一ページ])。


人間生活の諸形態にかんする思索、したがってまたその科学的分析は、一般に現実の発展とは対立した途を進む。

このような思索は、post festum(後から)始まり、したがって、発展過程の完成した成果とともに始まる。労働生産物に商品の刻印を捺し、100ページ1行目


2021年12月6日月曜日

第62回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 96ページ

 第62回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 96ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密


それは物理的な物の間における物理的な関係である。これに反して、商品形態とそれが表われる労働諸生産物の価値関係とは、それらの物理的性質やこれから発出する物的関係をやっては、絶対にどうすることや出来ないものである。


このばあい、人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。したがって、類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない。


ここでは人間の頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。


商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝と名づける。それは、労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着するものであって、したがって、商品生産から分離しえないあのである。


商品世界のこの物神的性格は、先に述べた分析がすでに示したように、商品を生産する労働の独特な社会的性格から生ずるのである。


使用対象が一般に商品となるのは、やっぱらそれが相互に相独立して営まれる私的労働の生産物[エンゲルス編、英訳『資本論』では、「私的個人または個人の集団の労個の生産物」となっている。……訳者」であるからである。


これらの私的労働の複合が社会的総労働をなす。生産者たちは、彼らの労働生産物の交換によって、はじめて社会的接触にはいるのであるから、彼らの私的労働の特殊的に社会的なる性格お、この交換の内部においてはじめて現われる。


いい換えると、私的労働は、事実上、交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者たちが置かれる諸関係によって、はじめて社会的総労働の構成分子たることを実証する。

したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのめのとして現われる。


すなわち、彼らの労働自身にする人々の直接に社会的な諸関係としてでなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係として現われるのである。


労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった使用対象性から分離された、社会的に等一なる価値対象性を得るのである。


労働生産物の有用物と価値物とへのこのような分裂は、交換がすでに充分な広さと重要さを得、それによって有用物が交換のために生産され、したがって事物の価値性格が、すでにその生産そのもののうちで考察されるようになるまでは、まだ実際に存在を目だたせるようにはならない。


この瞬間から、生産者たちの私的労働は、事実上、二重の社会的性格を得るのである。これらの私的労働は、一方においては特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そしてこのようにして総労働の、すなわち、社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ。


これらの私的労働は、他方において、生産者たち自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働種と交換されうるかぎりにおいて、したがって、これと等一なるあのとなるかぎりにおいてのみ、充足するのである。 toto coelo(全く)ちがった労働が等しくなるということは、それが現実に不等一であることから抽象されるばあいにのみ、それらの労働が、人間労働力の支出として、抽象的に人間的な労働としてあっている共通な性格に約元されることによってのみ、ありうるのである。


私的生産者の脳髄は、彼らの私的労働のこの二重な社会的性格を、ただ実際の交易の上で、生産物交換の中で現われる形態で、反映するのである。


すなわちーしたがって、彼らの私的労働の社会的に有用なる性格を、労働生産物が有用でなけ ればならず、しかも他人にたいしてそうでなければならぬという形態で―異種の労働の等一性の社会的性格を、これらの物質的にちがった物、すなわち労働生産物の共通な価値性格の形態で、反映するのである。


したがって、人間がその労働生産物を相互に価値として関係させるのは、これらの事物が、彼らにとって同種的な人間的労働の、単に物的な外被であると考えられるからではない。


逆である。彼らは、その各種の生産物を、相互に交換において価値として等しいと置くことによって、そのちがった労働を、相互に人間労働として等しいと置くのである。98ページ1行目


2021年12月5日日曜日

第61回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 94ページ

 第61回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 94ページ


1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密



一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。これを分析して見ると、商品はきわめて気むずかしい物であって、形而上学的小理窟と神学的偏屈にみちたのであることがわかる。


商品を使用価値として見るかぎり、私がこれをいま、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるとか、あるいはこの属性は人間労働の生産物として得るるのであるとかいうような観点のあとに考察しても、これに少しの神秘的なところもない。


人間がその活動によって自然素材の形態を、彼に有用な仕方で変えるということは、真昼のように明らかなことである。


例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作るならば、変化する。それにちかかわらず、机が木であり、普通の感覚的な物であることに変わりない。


しかしながら、机が商品として現われるとなると、感覚的にして超感覚的な物に転化する。


机はもはやその脚で床の上に立つのみでなく、他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から狂想を展開する、それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである。


(二五) シナと机とは、他のすべての世界が静止しているように見えたときに踊りはじめたーpour encourager les autres、

(他の人々を元気づけるために)、ということが想い起こされる。


 だから、商品の神秘的性質はその使用価値から出てくるものではない。それは、同じように価値規定の内容から出てくるのでもない。


なぜかというに、第一に、有用な労働または生産的な活動がどんなにいろいろあるにしても、これが人間有機体の機能であり、かかる機能のおのおのが、その内容その形態の如何にかかわらず、本質的に人間の脳髄と神経と筋肉と感覚器官等の支出であるということは、生理学的真理であるからである。


第二に、価値の大いさの規定の基礎にある旨のは、すなわち、それらの支出の継続時間、または労働の量であるが、この量は、労働の質から紛うかたなく区別できるといってよい。


どんな状態においてる、生活手段の生産に用いられる労働時間は、発展段階のことなるにしたがって均等であるとはいえないが、人間の関心をもたざるをえないのである。最後に、人間がなんらかの仕方でお互いのために労働するようになると、その労働は、また社会的の形態をる得るのである。


(二六) 第二版への注。古代ゲルマン人においては、一モルゲンの土地の大いさは、一日の労働にしたがってはかられた。したがって、一モルゲンは、Tagwerk (Tagwanne〔日仕事の意])はdiurnalis), Mannwerk〔男仕事]、Mannskraft〔男力、Mannsmaad男草地]、Mannshauet〔男刈地]等々と呼ばれた。


ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン マウレル 『マルク、フ圃、村落および都市諸制度ならびに公権の歴史序説』ミュンヘン、一八五四年、一二九ページ以下参照。


それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか? 明らかにこの形態自身からである。


人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をとる。人間労働力支

力出のその継続時間によって示される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態をとるのである。


それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中にあるのである、すなわち、商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として、品 反映するということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をめ、彼らのほかに存する対象の社会的関係として、反映するということである。


 このQuidproquo〔とりちがえ]によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである。


このようにして、ある物の視神経にたいする光印象は、視神経自身の主観的刺激としてでなく、眼の外にある物の対象的形態として示される。しかしながら、視るということにおいては、実際に光がある物から、すなわち外的対象から、他のある物、すなわち眼にたいして投ぜられる。


2021年12月3日金曜日

第60回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 92ページ

 第60回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 92ページ


1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態





貨幣として機能する。商品世界内で一般的等価の役割を演ずることが、この商品の特殊的に社会的な機能となり、したがって、その社会的独占となる。


この特別の地位を、第二形態で亜麻布の特別の等価たる役を演じ、また第三形態でその相対的価値を共通に亜麻布に表現する諸商品のうちで、一定の商品が、歴史的に占有したのである。


すなわち、金である。したがって、われわれが、第三形態において、商品金を商品亜麻布のかわりにおくならば、次のようになる。


D 貨幣形態

亜麻布 20ェレ=


上衣1着=

茶 10ポンド=

コーヒ40ポンド=

                   金2オンス

小麦1クォーター=

鉄1/2トン

A商品x量=


第一形態から第二形態へ、第二形態から第三形態への移行にさいしては、本質的な変化が生じている。これに反して、第四形態は、ただ亜麻布のかわりに、いまや金が一般的等価形態をつに至ったということ以外には、第三形態と少しのことなるところはない。金は第四形態で亜麻布が第三形態であったとおりのもの、すなわち一般的等価にとどまるのである。進歩があるのは次のことだけである、すなわち、直接的な一般的な交換可能性の形態、または一般的な等価形態が、いまや社会的習慣によって、終局的に商品金の特殊な自然形態と合生してしまったということである。


金が他の商品にたいして貨幣としてのみ相対するのは、金がすでに以前に、それらにたいして商品として相対したからである。


すべての他の商品と同じように、金も、個々の交換行為において個別的の等価としてであれ、他の商品等価と並んで特別の等価としてであれ、とにかく等価として機能した。


しだいに金は、あるいは比較的狭い、あるいは比較的広い範囲で一般的等価として機能した。金が、商品世界の価値表現で、この地位の独占を奪うことになってしまうと、それは貨幣商品となる。


そして金がすでに貨幣商品となった瞬間に、やっと第四形態が第三形態と区別される。いい換えると一般的価値形態は貨幣形態に転化される。


すでに貨幣商品として機能する商品、例えば金における、一商品、例えば亜麻布の、単純な相対的価値表現は価格形態である。亜麻布の「価格形態」はしたがって、


亜麻布 20 エレ=金2オンス


または、もしニオンスの金の鋳貨名が、二ポンド・スターリングであるならば、

亜麻布 20 エレ=2 ポンド・スターリング

である。


貨幣形態という概念の困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態なるものの、すなわち、第三形態の理解に限られている。


第三形態は、関係を逆にして第二形態に、すなわち、拡大された価値形態に解消する。


そしてその構成的要素は第一形態である。すなわち 亜麻布 20 エレ =上衣1着または A商品 x量=B商品y量である。

したがって、単純なる商品形態は貨幣形態の萌芽である。93ページ末


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