第59回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 90ページ
1 拡大された相対的価値形態
ニ特別な等価形態
三総体的または拡大された価値形態の欠陥
C一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格
二 相対的価値形態と等価形態の発展関係
三一般的価値形態から貨幣形態への移行
あるときは相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。このばあいにおいては、なお両極的対立を固着せしめるのに骨が折れる。
第二の形態では、依然としてまだ各商品種ごとに、その相対的価値を全体として拡大しうるのみである。言葉をかえていえば、各商品種自身は、すべての他の商品がこれにたいして等価形態にあるから、そしてそのかぎりにおいて、拡大せる相対的価値形態をやっているにすぎないのである。
このばあいにおいては、もはや価値方程式 ―亜麻布 20エレ=上衣1着または =茶 10ポンドまたは =小麦1クォーター等々ーの両項を移し替えると、その総性格は変更し、これを総体的価値形態から一般的価値形態に転換させてしまうほかはないことになる。
最後の形態である第三形態は、ついに商品世界にたいして一般的社会的な相対的価値形態を与える、それは、唯一の例外を除いて、この世界に属するすべての商品が一般的等価形態から排除されるからであり、またそのかぎりにおいてである。
ある商品、すなわち亜麻布は、したがって、他のすべての商品と直接的な交換可能性の形態に、あるいは直接的に社会的な形態にある。
というのは、他の一切の商品がこの形態をとっていないからであり、また、そのかぎりにおいてである。(二四)
(二四) 人は、一般的な直接的な交換可能性の形態について、その形態が対立的な商品形態であって、直接的な交換可能性でない形態から、一つの電極の陽性が の極の陰性にたいすると同じように、分離しえないものであることを、 事実上すこし見ようとしない。
したがって、すべての商品に、同時に直接的交換可能性の刻印を押しつけることができるという風に、妄想を描いているようである。
ちょうどあらゆるカトリック信者を、教皇にすることができると思いこんでいる人があるように。商品生産に人間の自由と個人の独立の nec plus ultra(絶頂)を見る小市民にとっては、この形態に結びつけられている不都合を、ことに商品の直接に交換可能でないということを、除くことは、むろんきわめて願わしいことであろう。
この俗人的空想境の色どりを示しているのは、プルードン の社会主義である。それは、私が他の所で示したように、独創という功績すらもっていないないのであって、彼よりずっと以前にグレーやブレイその他の人々によって、はるかにうまく展開されたのである。
このことは、このようなこざかしさが、今日ある仲間で「科学」の名で流行するというようなことをさまたげないのである。プルードン学派ほどに、「科学」という言葉を乱用した学派はかってなかった。なぜかというに、
「ちょうど概念のない所へ
詞が猶予なく差し出ているのだ」[ゲーテ『ファウスト』第一部、一九九五、森林太郎訳による]から。
逆に、一般的等価という役割を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態から排除される。
亜麻布が、すなわち、一般的等価形態にあるなんらかのある商品が、同時に一般的相対的価値形態になるとすれば、その商品は、自分自身にたいして等価としてつかえるということにならなければなるまい。
そうすると、
われわれは、亜麻布 20 エレ=亜麻布 20エレ という式を得ることになる。これは内容のない繰り返しであって、そこには価値を価値の大いきや表現されてはいない。
一般的等価の相対的価値を表現するためには、われわれはむしろ第三形態を引っくり返さなければならない。
一般的等価は、他の商品と共同の相対的価値形態をやってはいないのであって、その価値は、すべての他の商品体の無限の序列の中に相対的に表現されるのである。
このようにして、いまでは拡大せる相対的の価値形態または第二形態は、等価商品の特殊的な相対的価値形態として現われる。
三一般的価値形態から貨幣形態への移行
一般的等価形態は価値一般の形態である。したがって、それは、どの商品にも与えられることができる。他方において一商品は、それが他のすべての商品によって等価として除外されるために、そしてそのかぎりにおいてのみ、一般的な等価形態(第三形態)にあるのである。
そして、この除外が、終局的にある特殊な商品種に限定される瞬間から、初めて商品世界の統一的相対的価値形態が、客観的固定性と一般的に社会的な通用性とを得たのである。
そこでこの特殊なる商品種は、等価形態がその自然形態と社会的に合生するに至って、貨幣商品となり、または貨弊として機能する。92ページ1行目
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