第67回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 106ページ
三総体的または拡大された価値形態の欠陥
C一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格
二 相対的価値形態と等価形態の発展関係
三一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態
第四節商品の物神的性格とその秘密
価値をもち、あるいは二つの相ことなる価値をすらっているとすれば、これらの物は、 これをただ自分がつくられてくる労働のそれ(価値)から得るほかにありえない」(リカ ー ド
I ド『経済学および課税の原理』第三版、ロンドン、一八二一年、三三四ペー ジ〔邦訳、小泉信三訳、岩波文庫版、下巻、一九ページ]。〔デステュトラシ『観念学概要』第四・第五部、パリ、一八二六年、三五・三六ページ、参照])。
われわれはリカードが、デステュットにたいして、彼自身のより深い意味を押しつけていることだけを示唆しておく。
デステュットは、事実、一方では富をなす一切の物が「これを作り出した労働を代表する」
と言っているが、他方では、それらの物が、その「二つのちがった価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得ると言っている。
彼は、これをもって、俗流経済学の浅薄さに堕ちている。俗流経済学は、一商品(この場合労働)の価値を前提して、これによって後で他の商品の価値を規定しようとするのである。
リカードは彼をこう読んでいる、すなわち、使用価値においても交換価値においても、労働(労働の価値ではない)が示されていると。
しかし彼自身は、同じく二重に表示される労働の二重性を区別していない。したがって、彼は、「価値と富、その属性の相違」という章全体にわたって、苦心してJ・B・セイ程度の男の通俗性と闘わなければならない。
したがって、最後にまた彼は、デステュットが、彼自身と価値源泉としての労働にっいて一致するが、また他方で価値概念についてセイと調和することを、大変に驚いている。
(三二) 古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、 この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでちいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。
その理由は、価値の大ぃさの分析が、その注意を吸いつくしているということにだけあるのではない それはちっと深いところにある。
労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のちっと抽象的な、だがまたもっと一般的な形態であって、この生産様式は、 これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。
したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性を看過することになる。
それゆえに、労働時間による価値の大いさ の秤定について全く一致する経済学者に、貨弊、 すなわち一般的等価の完成体についての、あっとめ混乱した、そしてもっとめ矛盾した観念を見ることにな のである。
このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取扱いにあらわれる。
ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、ちはや間に合わなくなる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としか見ないような新装の重商主義(ガニイ等々)が、 ここに発生した。
――これを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるぬのは、W・ペティ以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学と反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探究するあのである。
俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつき廻るだけで、いわばちっとお粗け
ずりの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学によってとっくに与えられている材料を、絶えず繰りかえして反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が、彼ら自身の最良の世界にっいてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理窟づけ、しかもこれを永遠の真理として宣言する、ということに限られているのである。
(三三) 「経済学者たちは一種独特のやり方をするのだ。彼らにとっては、制度に二種類があるだけである。人工的なそれと自然的なそれである。
封建体制の制度は人工的のそれであり、ブルジョアジー の制度は自然的である。彼らはこの点では神学者に似ている。彼らも同じように二種の宗教をたてる。
彼らの宗教でない宗教は、すべて人間の作ったのであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示である。―かくて、歴史はそのようにつづいたのであるが、もはや歴史は終わった」(カー マルクス『哲学の貧困。プルードン氏の貧困の哲学』に答えて』一八四七年、一二三ページィーツ版『全集』第四巻、一三九ページ。邦訳、山村喬訳『哲学の貧困』岩波文庫版、一三二一一三三ページ。新潮社版『選集』第三巻、九三一九四ページ])。古代ギリシア人も口ー マ人も掠奪だけで生きていたと思っているバスティア氏は、まことにおかしい考え方だ。
しかし、もし数世紀を通じて掠奪で生きられるとすれば、絶えず何か掠奪さるべきるのが、そこになければならない いいかえれば、掠奪の対象が継続的に再生産されなければならない。
したがって、ギリシア人もローマ人も、一つの生産過程を含っていたようであ
る。したがって、ブルジ ア経済が今日の世界の物質的基礎をなしているのと全く同じように、彼らの世界の物質的基礎をなしていた経済、 もっていたようである。
それとちバスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式が、一つの掠奪体制によるものであるとでも考えているのだろうか? こうなると、彼の立っている土台があぶないことになる。
アリストテレスほどの巨人思想家が、奴隷労働の評価において過っているとすれば、バスティアのような体儒(こびと)経済学者が、どうして賃金労働の評価において正しいことをいえようか?
|私はこの機会を摑んで、私の著書『経済学批判』(一八五九年)の刊行に際して、一ドイツ語
アメリカ新聞によってなされた抗議を厳しておきたい。
この新聞は、こういうのである、私の見解、すなわち、一定の生産様式とこれにつねに相応する生産諸関係、簡単にいえば「社会の経済的構造が、法律的政治的上部構造のよって立ち
かっこれに対して108ページ1行目