follow me

 



2021年5月28日金曜日

第20回『資本論』の学習 マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店 第2版へのあとがき16ページ8行目から ヘーゲル

 第20回『資本論』の学習 マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店

第2版へのあとがき16ページ8行目から


今回で20回目となります。ほとんど引用なので、読破してもらうのがよろしいかと思います。多分ですが引用文の中に誤字党等があると思われるのです。それを発見するには、岩波版を見ないと分からないかもしれません。役者によっては「剰余価値」の使い方まで違いますので、訳者も重要な位置を占めています。 ヘーゲルの人物紹介を長く引用して掲載いたしました。 全文を見たいと言う方は 、ヘーゲルと検索していただければ、いくつもの項目が出て来るでしょう。その中でもWikipediaが 細かく、大量に掲載されています。『資本論』の学習を再開となるのですが、再開して昨日でちょうど1ヶ月経過しました。

  このまま、継続することになるので、情報交換できる方がいたら、 楽しいいいように思います。先日日本経済新聞にミクロ経済学で分析した「最低賃金」制度 の考え方みたいのがありました。3人の学者さんが3回連載しているのです。ここで細かく言うこともないでしょう。なんとなくごまかされてしまうような近代経済学です。 マクロ経済学の流れからケインズ、アダム・スミス まだまだ遡ってしまいそうです。

 社会主義国で、「計量経済学」を導入した事実もあるので、その根拠を調べてみたいのです。 計量経済学・ミクロ経済学も結果を統計的にとるそこに、色々理由をこじつける。 なんとなく弁証法的にとらえられているかなと思うのです 。ここは絶対そうであると言うことが言えないので、学習を継続することになります。物事は変化していく。進歩すると いう見方もあるので、しばらく考えましょう。


 

 この著者は、自分で私の実際に用いた方法であると考えていることを、このように適切に説明しており、またこの方法を私自らどう適用したかお論じては、極めて好意的に描いてくれているのであるが、ここに描かれたものをこそ、弁証法的方法にほからないいものではないか。

 もちろん手術方法は覚前と研究方法と異なっていなければならぬ。研究は、素材を細微に だって我が物としその異なった発展形態を分析して、その内的紐帯を研究しなければならぬ。この仕事が完成した後に初めて、現実の運動をこれに応じて叙述することができる。このことが達成され、今や素材の生活が関連として再現されるようになれば、一見それは、ア・プリオリに構成されたものを取り扱うように見えるだろう。

 私の弁証法的方法は、その根本において、ヘーゲルの方法と違っているのみにならず、その正反対である。ヘーゲルにとっては、 思惟過程が現実的なものの造物主出会って、現実的なものは、 思惟 過程の外的現実を成すに他ならないのである。しかも私は、思惟過程を理念という名称の元に独立の死体に転化するのである。私においては、逆に、理念的なるものは、人間の頭脳に転移し翻訳された物質的ないるものにほかならない。

 私は、ヘーゲルの弁証法の神秘的な側面を、30年ほど前に、すなわち、なおそれが流行していた時代に、批判した。しかし、ちょうど私が『資本論』第一感の造作を続けている時には、暇教養あるドイツで大言壮語しているあの厭わしい不遜な凡庸の亜流が誇りか顔、レッシングの時代に勇ましいモービス・メンデルスゾーンがこのスピノザを取り扱ったように、すなわち、「死せる犬」として、ヘーゲルを取り扱っていた。従って私は、公然と、彼の偉大な思想家の弟子であることを告白した。弁証法は、ヘーゲルの手で神秘化されましたが、しかし、そのことは、決して、彼がその一般的な運動諸形態を、まず包括的で意識的な仕方で説明したのだということを妨げるものではない。弁証法は彼において頭で立っている。神秘的な空に進まれている合理的な中核を見出すためには、これをひっくり返さなければならない。

弁証法は、その神秘化された形態においては、ドイツの流行であった。というのは、現存しているものに光明を与えるように見えたからである。弁証法は、その合理的な姿においては、ブルジョワ階級とその杓子定規的な代弁者にとって腹立たしい、恐ろしいものである。というのは、それは現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解、その自然的没落の理解をも含むものであり、生成した一切の形態を運動の流れの中に、したがってまた、その計画的な側面に従って理解するものであって、何者をも恐れず、その本質上批判的で革命的なものであるからである。

 資本主義社会の矛盾に満ちた運動は、実質的なブルジョアに対して周期的な景気循環の移り変わりにおいて、最も切実に感じられている。近代産業は、この循環を経過するものであって、その頂点が一般的な恐慌である。恐慌はまだ先行の段階にあるが、再び進行を始めている。そしてその舞台の普遍化していることによって、並びにその作用の強化されていることによって、神聖なる神プロイセンの国成りあがり者共にすら、弁証法を叩き込むであろう。

              ロンドンにて

               1873年1月24日

               カール・マルクス 


第2版へのあとがきはここまでとなります。人物についてはヘーゲルとなります。引用文が長いのである程度のところで止めておきました。 

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ナビゲーションに移動

検索に移動

ヘーゲルの肖像

生誕

1770年8月27日

神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国

Flag of Württemberg before 1809.svg ヴュルテンベルク公国 シュトゥットガルト

死没

1831年11月14日(61歳没)

Flag of the German Confederation (war).svg ドイツ連邦

プロイセン王国の旗 プロイセン王国 ベルリン

時代

18世紀の哲学19世紀の哲学

地域

西洋哲学

学派

ドイツ観念論、絶対的観念論、客観的観念論、ヘーゲル学派の創設者、歴史主義

研究分野

形而上学自然哲学歴史哲学政治哲学法哲学論理学美学哲学史

主な概念

絶対観念論、ヘーゲル弁証法主人と奴隷の弁証法en:Master-slave dialectic)、弁証法的止揚、精神Geist、人倫Sittlichkeit、「真理は全体である」、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」

影響を受けた人物:

[表示]

影響を与えた人物:

[表示]

署名

テンプレートを表示

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年8月27日 - 1831年11月14日[1])は、ドイツ哲学者である。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテフリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けてドイツ統一へと向かい始める転換期を歩んだ。

シュトゥットガルトのヘーゲルハウスにあるポートレイト

目次

概要[編集]

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、1770年8月27日神聖ローマ帝国の領邦国家ヴュルテンベルク公国の首都シュトゥットガルトでプロテスタント家庭の官吏の息子に生まれる。13歳で教育熱心な母を亡くしたものの、勉学への熱意を高めていった。1788年、チュービンゲン大学に入学。寮生活をしながら神学や哲学を学び、ヘルダーリンシェリングと親密な交友関係を築いていった。在学中にはギリシア文化に加えてカント哲学を学び、啓蒙主義と1789年フランス革命の勃発に触発を受けてさらに向学の意欲を高め、キリスト教史に関する研究をおこなった。

卒業後はすぐには教職につけなかったため、1793年から1800年までスイスの首都ベルンで、次いでフランクフルトで家庭教師をしてながら、政治研究に専心する。恐怖政治期のフランスや都市有力者の寡頭支配にあったスイス、領邦分立のドイツに批判的な立場を強めていった。1801年、シェリングが大学教授を務めていたイエナ大学の私講師となり、シェリングと共同研究をおこなってカントとフィヒテを批判する論文を執筆していたが、次第に独自の立場を形成して1807年に『精神現象学』を刊行、シェリングを厳しく批判した。シェリングとの友情はこれ以降途絶える。折しも、イエナ会戦でプロイセン王国ナポレオンに敗北したためにイエナ大学は閉鎖され、職を失うこととなった。ヘーゲルはフランス軍によるイエナ占領のなか行進中のナポレオンを目撃、ナポレオンを「馬上の世界精神」と評している。1808年から1816年、ヘーゲルは生活を守るため、友人のニートハンマーの斡旋でバンベルクで新聞社の編集者になり、次いでニュルンベルクで中等教育機関ギムナジウムの校長となった。ヘーゲルは教科書編纂を目的に体系哲学の書『大論理学』、『エンチクロペディー』を執筆した。1811年、ヘーゲルは都市貴族の娘と結婚、幸福な家庭生活を享受して、二人の男子をもうけている。

1816年、ヘーゲルは念願のハイデルベルク大学での正教授職を手に入れ、名実ともに学問的評価を確立していく。二年後の1818年、ヘーゲルはフィヒテの後任としてベルリン大学の教授に招かれた。1821年、後期の代表作『法の哲学』を発表した。また、数々の講義を担当し、教壇に立って多くの学生の心を捉えてヘーゲル学派を形成した。ヘーゲルはプロイセン改革英語版の積極性を支持したことによりプロイセン政府の好感を手にし、急進的なブルシェンシャフト運動を抑止する目的で、1829年大学総長に選出された。しかし、ヘーゲルは当時猛威を奮っていたコレラに倒れ、1831年11月14日に急逝。

ヘーゲルは、古典に通じた慧眼で現実的かつ理想的な哲学を展開し、同時代のみならず後世にも大きな影響を与えた。主な著作は『精神現象学』、『論理学(大論理学)』、『エンチクロペディー』、『法哲学・要綱』などがある。なお、『歴史哲学』『美学』『宗教哲学』などはヘーゲル没後、弟子たち(つまりヘーゲル学派)により彼の講義ノートと聴講生のノートとを中心に編纂されたものである[2]

生涯[編集]

幼少期[編集]

1789年時点の神聖ローマ帝国。南西部の黄色部分がヴェルテンベルク公国。中小の領邦が分立している。

シュトゥットガルトのヘーゲルの生家、 現在はヘーゲル博物館となっている

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは1770年8月27日神聖ローマ帝国[注釈 1]南西部に位置するシュヴァーベン地方ヴュルテンベルク公国[注釈 2]シュトゥットガルト(現在のドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州の州都)のエーバーハルトシュトラーセ53番地に居を構える中流家庭に生まれる[8][9]。父親はヴュルテンベルク政府の公務員だったゲオルグ・ルートヴィヒ・ヘーゲル(1733年-1799年)。母はマリア・マグダレーナ・ルイーザ・ヘーゲル(旧姓フロム、1741年-1783年)[10]

詳細は「ヴュルテンベルク公国」を参照

なお、18世紀後期のドイツ社会はシュトゥルム・ウント・ドラングの時代に当たり、文豪ゲーテ(1749-1832)が活躍し、同時代人に作家にして哲学者のシラー(1759-1805)やフィヒテ(1762-1814)といった人物が活躍を見せた[11]。また、前年にコルシカではナポレオン(1769-1821)が誕生し、同年生まれには著名人に音楽家ベートーヴェン(1770-1827)、詩人のフリードリヒ・ヘルダーリン(1770-1843)がいる。後年の生まれでは、哲学者のフリードリヒ・シェリング(1775-1854)が生まれている[12][13]

ヘーゲル家は16世紀にオーストリア領内のスタイエルマルク地方やケルンテン地方から逃れたプロテスタント迫害を逃れた移民にルーツがある。祖先はヨハネス・ヘーゲルという錫器の鋳造者だと言われ、一族には牧師や製造業者、市の書記など公務員に従事するものがいた[8]。父ゲオルグ・ルートヴィヒは収税局書記としてカール・オイゲン公に仕えていた。母マリア・マグダレーナは民会の役員を務めるフロム家の出身で、信仰篤く教養豊かな女性であった[10][13]

ヘーゲルは三人兄弟の長子で、弟はナポレオン戦争に従軍しロシア遠征中に戦死している。妹のクリスティアーネとはとりわけ親密で、終生格別の強い絆をもっていた。ヘーゲルは貧しくも富裕でもない中産階級のプロテスタント的で堅実な家庭環境で幼少期を過ごすことになった[10][14]

進歩的な教育者であった母の影響も手伝って、子供時代は学問の環境に恵まれ、5歳でラテン語学校に入り、文学・新聞・哲学などの書物を読みあさった[14]。だが、幼少期は病気がちで、天然痘で死に瀕したことがある[15]

ギムナジウム時代[編集]

この時期、世界は大きな時代の変化を経験していた。1772年、第一回ポーランド分割がおこり、新大陸では1776年アメリカ合衆国が独立を宣言した。また、フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーが1778年に没し、1786年にはプロイセン王国の名君フリードリヒ大王が世を去る。一方で、カントがイギリス経験論と大陸合理論とを統一、総合して『純粋理性批判』(1781年)を執筆した。カントは人間理性の活動とその範囲を明示し、近代科学の時代の扉を開いた[16][13]

紀元前497/6年ごろ – 406/5年に活躍したギリシア詩人ソポクレース

母と恩師、そして別れ[編集]

ヘーゲルは、7歳から18歳までの教育課程としてギムナジウムに進学した[11]。ギムナジウムではレフラー先生をとりわけ尊敬していた。ヘーゲルは8歳のころ先生からの教示を受けたが、10-13歳にかけて新約聖書やキケロを教わり、ヘブライ語を学ぶなど薫陶を受けた。レフラー先生から8歳のときシェイクスピア全集をもらい読むなど大変な読書家で、感想なども多数書き残す[17]

1783年9月20日、ヘーゲルが13歳のころ、母マリア・マグダレーナが42歳にして世を去る。ヘーゲルは母への愛を晩年期まで思い慕うものであり、ヘーゲルが終生形作ったプロテスタントとしての堅実な人間性や考え方を母との暮らしの経験と記憶から受け継いだ[15]。さらに、1785年7月5日には生徒のために身をささげ、学問の価値を教えた尊敬するレフラー先生を失ってしまう[18]。ヘーゲルに多くの資質を与えた人々がいなくなった。

しかし、ヘーゲルの勉学に臨む意欲は沈まなかった。ヘーゲルは15歳ごろから歴史や法律、道徳などを広く学び、読んだ本や学んだことを事細かく要約し、抜粋し、自分の考え方や意見、反省点を日記としてノートにまとめ始めた。早くから大学での研究に適う学問的態度を身に着けていた[19][20]。修辞学に関しても言葉の歴史的由来や用法を考察し、適切な引用をおこなう非凡な才覚を持ったヘーゲルであるが、同時に話下手であった。また運動は不得意で、ギムナジウム時代は文学に関しても、ゲーテやシラーは読まず平凡な恋愛小説を夢中になって読んでいたようである[21]

ギリシア悲劇[編集]

ギムナジウムではギリシア・ローマの古典を授業の中心に据えるのが普通であり、諸学の中でヘーゲルの心を捉えたもので最たるものはギリシア悲劇である。ソポクレースの『オイディプース王』、『コローノスのオイディプース』、『アンティゴネー』が好きで翻訳などに取り組んだ。ヘーゲルは生涯、人の世の苦悩と葛藤を描いた悲壮な悲劇の世界を愛し続けた。ギリシア悲劇はヘーゲルの内面にあって楽天的な合理主義を退け、人間(個人)と人間(個人)の衝突、種族(社会)と種族(社会)の対立に着目し、世界における避けがたい矛盾と分裂、そして闘争を主題として考察する基本的な学問路線を形成するものとなった[22]

歴史への関心[編集]

ヘーゲルは古典だけではなく、歴史の教養においても優れていた。『戦史』を記したトゥキディデスや『ローマ人盛衰原因論』を記した近代のモンテスキューを読んだ。1785年レフラー先生が亡くなる直前に当たる6月末には、シュレックの『普遍的世界史』における歴史記述の方法から、歴史上の事件や人物の活躍が各国民や民族の特性や習俗にいかなる影響をもたらし、いかなる憲法や体制の樹立につながったのかを研究する重要性を意識する必要があることを悟る。このような歴史の哲学的な意味を求めようとする姿勢はカント以来のドイツでの学問的状況と符合するものであった。ヘーゲルの歴史意識は晩年に至るまで成長を続けて年と共に完成されていく。ヘーゲルにおいての歴史は過去の人物や事件の意義を考察し、歴史の底流に流れる法則性を考察する歴史哲学へと高められていく[23]

1788年、ヘーゲルは18歳でギムナジウムを卒業し、シュトゥットガルトを去ることになる[24]

テュービンゲン大学時代 (1788–93)[編集]

イマニエル・カント

カント哲学の完成[編集]

1780年代は世界史上の激動期であった。1788年、カントが『実践理性批判』を公刊、理性に基づく道徳の格率とその体系を明示し、意志の自由と人格の尊厳を主軸とした道徳理論を鼎立した。また、1790年には『判断力批判』を公刊、美と生物の合目的性を論じた。カント哲学が完成を見せ、時代はドイツの近代的思惟の成熟期へと向かっていた[25]。ヘーゲルはカント哲学に強い影響を受け、青年時代はカント哲学を実践的かつ社会的な方法で完成させようと試みていく。実践の試みよりもむしろ、その問題点の解決が重要であると認めたのは、1800年になってからのことである。当初はカント哲学とキリスト教の両立問題に関心を集中させていた。

詳細は「イマヌエル・カント」を参照



















2021年5月25日火曜日

第19回『資本論』の学習 マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店 第2版へのあとがき 14ページ5行目から、変革の時代と『資本論』マルクスのすすめ 『経済』編集部編 新日本出版、

 第19回『資本論』の学習 マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳

岩波書店 第2版へのあとがき 14ページ5行目から


 かのの筆者は私の方法の唯論的基礎を論じた『経済学批判』(ベルリン、1859年、4から7ページ〔邦訳、岩波文庫版、13ページ以下、新潮社判『選集』第7巻、54ページ以下〕)の序文から引用をなした後で、こう続けている。

 「マルクスにとっては、ただ一つのことだけが重要である。すなわち、彼が研究に従事している諸現象の法則を発見すること、これである。そして彼には、それらの現象が完成した形態を取り、与えられた期間に観察されるようなひとつの関連に立っている限り、これを支配する法則が重要であるばかりでない。彼にとっては、なお特に、その変化、その発展の法則、すなわちひとつの形態から他のそれへの移行 、関連の一定の秩序から他のそれへの移行ということが、重要なのである。ひとたび彼がこの法則を発見したとなると、彼は詳細に諸結果を研究する。高速はこの結果となって、社会生活の中に現れるのである。・・・こうして、マルクスはただ一つのことのために力を尽くしている。すなわち厳密な科学的研究によって社会的諸関係の特定の秩序の必然性を立証するということ、そして彼に初出点としてまた支店として役立つ事実を、出来うる限り避難の色違いまでに、確証することがこれである。このためには、もし彼が現在の秩序の必然性とともに、同時にこの秩序は不可避的に移行せざるを得ない他の秩序の必然性を立証するならば、それで完全にあますところないものとなる。その場合、人類がこれらの事を信じようが信じまいが、また人間がこれらのことを意識していようが意識していまいが、何のが変わるところもないのである。




 マルクスは、社会の運動を自然史的の過程として考察する。この過程を左右しているのは、人間の意思や意識や意図からも独立しているだけでなく、むしろ逆に人間の意思や意識や意図を規定する諸法則なのである。・・・・文化史の上で意識的要素がこのように副次的の役割を演じているとすれば、次のことはおのずから明らかである。すなわち文化そのものを対象とする批判の基礎となり得るものは、決して意識の何らかのある形態、あるいは何らかのある結果というようなものではない。ということは、この批判の発出点として用いられ得るものは、理念ではなく、外的の現象だけであることになる。批判は、ある事実を理念でなく、他の事実と比較し対審することに限られるであろう。批判にとっては、次のことこそ重要なのである。すなわち、二つの事実ができるだけ厳密に研究される。そして実際に一つの事実を他の事実に対比すると、それらは、ある発展の違った契機を成しているということである。しかし特に重要なのは、以上の場合にも劣らない厳密さで諸秩序の系列、発展段階の現れる順序と結合が研究されるということである。しかしながら、経済生活の一般的諸法則は同一のものであって、これらを現在に適用しても過去に適用しても、全く同じ事であるという人があるかもしれない。このことをマルクスの拒否するところである。彼によればこ


のような抽象的な法則というものは存在しない。・・・逆に彼の見解によると、あらゆる歴史的時代はその固有の法則を持っている。・・・人の世は、与えられた発展期間を生き終わり、ある与えられた段階から他のそれに移行すると、また他の諸法則によって支配され始める。要するに、経済生活は、我々にとって、生物学の他の諸法則における発展しに似た現象を示す。・・・旧い経済学者たちが、経済的諸法則の性質を、物理学や化学の諸法則になぞらえた時、彼らは、これを誤り解したのであった。・・・現象をより深く分析してみると、社会的有機的は、お互いに、植物有機体や動物有機体の違いと同様に、根本的に違っているということが証明された。・・・・否、一つの同じ現象が、全く違った諸法則の支配に服するものであって、それは、かの有機体の全構造が違っている結果であり、またそのこ機管が違い、さらにそれらの諸機官のキムをする諸条件が違っている結果なのである、 等々。 マルクスは、例えばあらゆる時代あらゆるところに置いて、人口法則が同一であることを否定する。反対に、彼はあらゆる発展段階が、その固有の人口法則を持っていることを確信する。・・・生産力発展の程度が違うとともに、諸関係は変化した。それを規制する諸法則も変化する。マルクスは、その観点から資本主義的経済秩序を探求し、説明しようと目標を立てて、経済生活のあらゆる正確な言及が持たなければならなぬ目標を、ひとえに末光に科学的に定式として表現している。・・・このような探究の科学的価値は、ある与えられた社会的有機体の成立、存続、発展、死滅と、この有機体の他のより高いしそれによる代替等のことを規制する特別の法則が明瞭にされるところにある。そして事実マルクスのこの書はこのような歌詞を持っている。

 

16ページ7行目まで


変革の時代と『資本論』マルクスのすすめ 『経済』編集部編 新日本出版社

32ページ 2『資本論』を学ぶ一つの心得 金子ハルオ


 2008年の秋に、世界の資本主義経済の中心地アメリカ合衆国で「100年に一度」と言われる大規模な金融恐慌が勃発し、その影響はアメリカへの輸出をテコとして「成長」してきた日本経済を直撃し、わが国でも、派遣切り、倒産、失業などが急増し、貧富の格差が一挙に拡大しました。このような恐慌、失業、貧困などは、もともと資本主義経済にはつきものの出来事であり、決して人々の注意や努力が足りなかったために起こったのではなく、マルクスが『資本論』で明らかにした個々の人間の意思からは独立に作用する資本主義の経済法則に、基づいて必然的に起こったことなのです。ですから、最近、老若男女を問わず、かの音に聞く『資本論』を読もうという人が新たに増大しています。そこで、私が、長年にわたって多くの大学で、『資本論』をこれから初めて読もうという学生諸君に語ってきた「『資本論』を学ぶ5つの心得」の要点を紹介しましょう。

弁護士より


アップロード中: 298139 / 298139 バイトをアップロードしました。

2021年5月24日月曜日

第18回『資本論』の学習  マルクス『資本論』第一巻  向坂逸郎訳 岩波書店 第2版のあとがき12ページ11行目から、変革の時代と『資本論』マルクスのおすすめ 『経済』編集部編 新日本出版社 28ページ ◎近代経済学の「付加価値」概念と「価値無 用説、

 第18回『資本論』の学習 

マルクス『資本論』第一巻

 向坂逸郎訳 岩波書店


第2版のあとがき12ページ11行目から


(2)はっきりした口も聞けないドイツの俗流経済学の愚か者たちは、私の著書の文体や叙述をとやかく言っている。何人も私自身非常に厳しく『資本論』の文章上の欠陥をし得るものがあるまい。それでも私はこれらの紳士諸君やその読者のために、ここにイギリスとロシアの批判を一つずつ引用しよう。私の見解に全く敵対的な『土曜評論』は、最初のドイツ語版の新刊批評の中でこう言っている。叙述は「最も無味乾燥な経済上の問題に対しても独特の魅力を与えている」とセント・ペテルスブルク新聞」は、その1872年4月20日号で 、なかんずく、このように述べている。「若干のあまりに特殊的な部分を例外とすれば、叙述は理解の容易さと明瞭さを持って、また対象の高い化学性にも関わらず、それに見るような活き活きとした点で際立っている。この点において、著者は・・・ドイツの学者たちの多数と全く異なっている。彼らは・・・その著書を晦渋な干からびた言葉で書いているために、普通の人には頭が割れるように痛くなる」と。だが、現代のドイツ国民自由党的教授文献の読者にとっては、砕け飛ぶのは、頭と全く異なったものだ。

 『資本論』の立派なロシア語訳は、ペ―テルスブルクで刊行された。3000部刷ったものが、今ではすでにほとんど品切れとなっている。すでに1871年キエフ大学の 経済学教授であるN・ジーベル氏は、彼の著書『価値及び資本に関するD・リカードの理論』の中で、価値、貨幣及び資本に関する私の理論が、その大綱においてスミスイコールリカードの学説の必然的な発展であることを証明した。彼の素晴らしい著書を読んで、西ヨーロッパ人を驚かすことは、純粋に理論的な立場を徹底的に健二していることである。

 『資本論』に適用された方法はほとんど理解されなかった。それは、この方法について相互に相矛盾した見解が行われているということが証拠立てている。

 こうしてパリの『実証主義評論』は私に対して、次のように避難する。すなわち、私は一方で経済学を形而上学的に取り扱っており、他方でーこともあろうに!―私は、未来の飯屋のために調理法(コントし式の?)を書き与えておく代わりに、現実を単に批判的に分析することに限っているというのである。形而上学と言う非難に対しては、 ジーぺル 教授はこう述べている。「本来の理論が取り扱われる限りでは、マルクスの方法は全イギリス学派の演繹的方法である。その欠陥と長所とは 、最良の理論経済学者の謎にもあるものである」と。M・ プロック氏 ー「ドイツにおける社会主義の理論家たち」(『経済家雑誌 』1872年7月・8月号摘録)―は、私の方法が分析的であることを発見して、なかんずく、こう言っている、「この著作によってマルクス氏は、最も重要な分析的思想家の一人となっている」と。ドイツの批評家は、言うまでもなくヘーゲル的詭弁について叫び散らしている。ペーテルブルクの「ヨーロッパ報知」は、専ら『資本論』の方法を取り扱っている1論文(1872年5月号、427から436ページ)で私の研究方法を厳密に実在論的であるとしているが、叙述の方法は不幸にしてドイツ的弁証法的であるというのである。この論文はこう述べている、「叙述の外的形態によって判断するならば、一見マルクスは最大の観念論哲学者である、しかも言葉のドイツ的意味、すなわち悪い意味でそうなのである。だが、実際は、彼は経済の批判の仕事に携わったすべての彼の先行者よりも、最も深い実在者である。・・・どんな意味でも、彼を観念論者ということはできない」。この著者※に答えるには、彼自身の批判から若干の抜粋を成すのが一番良い。この抜粋は、その上に、ロシアの原本を見ることのできない多くの読者の興味を引くものであろう。

※I・I・カウフマン。ー訳者。             14ページ4行目まで


変革の時代と『資本論』マルクスのおすすめ

『経済』編集部編 新日本出版社

28ページ

◎近代経済学の「付加価値」概念と「価値無 用説」


 さて、ここで使われている付加価値という概念は、従来の経済学が問題にしてきた商品の価格を規定している価値ではなく、逆に目の前に与えられているある大きさの価格が表示された、賃金という収入と利潤と言う収入のことであって、それらをひとまとめにして「付加価値」という名前をつけたものです。このように、近代経済学における賃金、利潤、付加価値、さらにには、利子、地代、家賃、サービス料、国民所得といった諸概念は、(円、ドル、ボンドと言った)同じ体位の価格令で現れされた「経済諸量」なのです。

 このような経済学の説明に対しては、従来の経済学から、「なんだそんな説明では価値によって価格が規定されていると言う価値法則を明らかにできず、賃金、利潤の正体(本質)も明らかにできないではないか」という批判が起こります。そこで、近代経済学は、「価値論無用説」 というのは、実は話をわかりやすするために私がそう名づけたのですが、経済学の研究課題についての近代経済学の次のような考え方のことです。

 商品の価値とは何か、労働か、効用か、限界効用花などという論理はしてもしょうがないし、何の役にも立たない。商品の価格は需要と供給との関係で変動するもので、需要が均衡した点に落ち着くものであることを、そのまま認めるだけで十分だ。賃金、利潤、利子、地代の正体は何かなどと経験では捉えられないものを探してみてもしょうがないし、何の役にも立たない。それらの諸収入は、同じ単位の価格量で表された「 経済科諸量」であることを、そのまま認めるだけで十分だ。そもそも経済学は、政府の経済政策や資本主義企業の経営方針に役に立つものでなくてはならないと思うので、経済学の主な研究課題は、国民経済を構成している「経済諸量」を統計的に把握し、それぞれの「経済諸量」の間の因果関係を解明することである。およそ、以上のような考え方です。

 このような「価値論無用説 」を採った近代経済学は、その考え方に基づいて、政府に、物価、投資、雇用、国民所得、国民総生産(GNP)などの経済統計をつくらせ、それを利用しながら、利子率が下がれば投資が増えるとか、投資が増えれば雇用が増えるとか、中央銀行による貨幣供給(マネーサプライ)が増えれば物価が上がるとか言った 「経済諸量」の相互の因果関係を研究します。そして、ケインズは、、総需要(投資需要と消費需要)が国民所得を決定するという 「有効需要の理論」を作り、後に「ケインズ革命」と言われる近代経済学の革新を行ったのでした。

 確かに、国民経済(一国の資本主義経済)を構成している「経済諸量」のあいだには、客観的な因果関係があります。したがって、近代経済学は、 それらの「経済諸量」を「所与のもの」としている点、及び俗流経済学の影響を受けてそれらの「経済諸量」をそれぞれの生産要素が生んだものとしている点では科学性を書いていますが、「経済諸量」の間に客観的な因果関係を解明する点では一定の科学性を持っています。皆さんは、近代経済学の科学性を持っているということを学ぶことが大切です。


◎ 二つの経済学の違いを踏まえ理解を深める


 以上に述べた二つの経済学の違いを踏まえながら、二つの経済学を学ぶと、それぞれの経済学についてより深い理解が得られます。近代経済学を学んだ人も、マルクス経済学を学べば、貨幣、資本、資金、利潤、利子、地代などと言う「経済諸量」の正体(本質)を理解することができ、失業、貧困、恐慌などの「資本主義の病気」と言われる出来事が資本主義の経済法則に規定されて起こった避けることのできない「病気」であることを理解できます。近代経済学の考えに基づいてなされる雇用政策、所得政策、成長政策、金融政策などの国家の経済政策は「病気」を根絶する政策ではなく、繰り返したかる「病気」をかかった後からその都度緩和すれば「対症療法」であること、この「対症療法」は政策という名の薬の副作用を伴うことも分かってきます。

 他方、マルクス経済学を学んだ人も、それぞれの国の経済の構造親動き、さらには国際経済の構造や動きを研究する 。すなわち現状分析を行うためには、多くの調査や統計を利用しなくてはなりません。しかし国民経済の統計及びそれに基づく国際経済の統計は、個人の力では作成できないもので、国家権力を持った政府の力で作成したものです。そして、政府の経済統計(それを体系的に取りまとめたものがわが国では「国民経済計算」)は、近代経済学の考え方と概念に基づいて作成されたもので、近代経済学を理解してないと、十分に理解できないものです。ですから、マルクス経済学を学んだ人も、近代経済学を学んで、政府の経済統計を十分に理解し、マルクス経済学の立場からそれを批判的に利用しながら現状分析を行わなくてはなりません。そうすることで、マルクス経済学こそ科学的な 超分析を行われる「科学としての経済学」であることが、より深く理解できます。

 以上のような理由で、私は、学生の皆さんに、二つの経済学のどちらを選ぶか、どのゼミに行くかということはあくまでそれぞれの人の自主的な判断によることですけれども、絶好のチャンスに、二つの経済学を、いわゆる退院を取るためでなくて、それぞれの経済学を深く理解するためにも、一通り学ぶことをお勧めしているのです。

ー長時間、貴重なお話をどうもありがとうございました。


今回で1科学としての経済学ー『資本論』の魅力を語るが一通り読み終わることになりました。次回から『 資本論』を学ぶ五つの心得となる予定です。金子ハルオ氏人物案内はまだしたことがないので、ここでご案内したいと思います。 


金子ハルオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ナビゲーションに移動

検索に移動

金子ハルオ(かねこ はるお、1929年2月3日 - )は、日本の経済学者、東京都立大学 (1949-2011)大妻女子大学名誉教授。門下に五十嵐仁がいる

目次

来歴[編集]

茨城県新治郡千代田村(現かすみがうら市)出身。1953年東京大学経済学部卒。1959年同大学院社会科学研究科理論経済学博士課程満期退学。1959年東京都立大学法経学部助手、1961年講師、1962年助教授、1970年経済学部教授、1975年-1979年1981年-1985年経済学部長。1992年定年退官、大妻女子大学社会情報学部教授、学部長、2000年同名誉教授。1969年「生産的労働と国民所得」で東大経済学博士1978年-1984年日本学術会議会員。

著書[編集]

単著[編集]

  • 賃金のしくみ』青木書店 青木新書 1964

  • 『生産的労働と国民所得日本評論社 1966

  • 『経済学 上 (資本主義の基本的理論)』新日本出版社 新日本新書 1967

  • 『経済学 下 (帝国主義の理論)』新日本新書 1967

  • 資本論の学習』新日本新書 1971

  • 『講座マルクス主義研究入門 第3巻』青木書店 1974

  • 『サービス論研究』創風社 1998

共編著[編集]

  • 『講座現代賃金論』全3巻 高橋洸,高木督夫共編 青木書店 1968

  • 『暮しの経済教室』編 新日本選書 1972

  • マルクス経済学を学ぶ』横山正彦共編 有斐閣選書 1975

  • 資本主義の原理と歴史』編著 青木書店 青木教養選書 1979

参考[編集]

  • 金子ハルオ先生履歴・著作目録 (金子ハルオ先生退職記念論文集-上-) 経済と経済学 1992-02

カテゴリ

























































































注目

『資本論』の学習第234回第3巻資本主義的生産の総過程第1部第5篇利子と企業者利得地への利潤の分割。 利子付き資本第25 章 信用と空資本

  5 資本論第3巻第5篇・第25章「信用と空資本」は、資本主義が高度に発展した段階で現れる** 金融の仕組みと“見かけの資本”**を分析する重要な章です。少し抽象的ですが、現代の株式市場 やバブル経済を理解する鍵にもなります。 ■ 全体のテーマ この章の核心はシンプルに言うと:...

また来てね