第20回『資本論』の学習 マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店
第2版へのあとがき16ページ8行目から
今回で20回目となります。ほとんど引用なので、読破してもらうのがよろしいかと思います。多分ですが引用文の中に誤字党等があると思われるのです。それを発見するには、岩波版を見ないと分からないかもしれません。役者によっては「剰余価値」の使い方まで違いますので、訳者も重要な位置を占めています。 ヘーゲルの人物紹介を長く引用して掲載いたしました。 全文を見たいと言う方は 、ヘーゲルと検索していただければ、いくつもの項目が出て来るでしょう。その中でもWikipediaが 細かく、大量に掲載されています。『資本論』の学習を再開となるのですが、再開して昨日でちょうど1ヶ月経過しました。
このまま、継続することになるので、情報交換できる方がいたら、 楽しいいいように思います。先日日本経済新聞にミクロ経済学で分析した「最低賃金」制度 の考え方みたいのがありました。3人の学者さんが3回連載しているのです。ここで細かく言うこともないでしょう。なんとなくごまかされてしまうような近代経済学です。 マクロ経済学の流れからケインズ、アダム・スミス まだまだ遡ってしまいそうです。
社会主義国で、「計量経済学」を導入した事実もあるので、その根拠を調べてみたいのです。 計量経済学・ミクロ経済学も結果を統計的にとるそこに、色々理由をこじつける。 なんとなく弁証法的にとらえられているかなと思うのです 。ここは絶対そうであると言うことが言えないので、学習を継続することになります。物事は変化していく。進歩すると いう見方もあるので、しばらく考えましょう。
この著者は、自分で私の実際に用いた方法であると考えていることを、このように適切に説明しており、またこの方法を私自らどう適用したかお論じては、極めて好意的に描いてくれているのであるが、ここに描かれたものをこそ、弁証法的方法にほからないいものではないか。
もちろん手術方法は覚前と研究方法と異なっていなければならぬ。研究は、素材を細微に だって我が物としその異なった発展形態を分析して、その内的紐帯を研究しなければならぬ。この仕事が完成した後に初めて、現実の運動をこれに応じて叙述することができる。このことが達成され、今や素材の生活が関連として再現されるようになれば、一見それは、ア・プリオリに構成されたものを取り扱うように見えるだろう。
私の弁証法的方法は、その根本において、ヘーゲルの方法と違っているのみにならず、その正反対である。ヘーゲルにとっては、 思惟過程が現実的なものの造物主出会って、現実的なものは、 思惟 過程の外的現実を成すに他ならないのである。しかも私は、思惟過程を理念という名称の元に独立の死体に転化するのである。私においては、逆に、理念的なるものは、人間の頭脳に転移し翻訳された物質的ないるものにほかならない。
私は、ヘーゲルの弁証法の神秘的な側面を、30年ほど前に、すなわち、なおそれが流行していた時代に、批判した。しかし、ちょうど私が『資本論』第一感の造作を続けている時には、暇教養あるドイツで大言壮語しているあの厭わしい不遜な凡庸の亜流が誇りか顔、レッシングの時代に勇ましいモービス・メンデルスゾーンがこのスピノザを取り扱ったように、すなわち、「死せる犬」として、ヘーゲルを取り扱っていた。従って私は、公然と、彼の偉大な思想家の弟子であることを告白した。弁証法は、ヘーゲルの手で神秘化されましたが、しかし、そのことは、決して、彼がその一般的な運動諸形態を、まず包括的で意識的な仕方で説明したのだということを妨げるものではない。弁証法は彼において頭で立っている。神秘的な空に進まれている合理的な中核を見出すためには、これをひっくり返さなければならない。
弁証法は、その神秘化された形態においては、ドイツの流行であった。というのは、現存しているものに光明を与えるように見えたからである。弁証法は、その合理的な姿においては、ブルジョワ階級とその杓子定規的な代弁者にとって腹立たしい、恐ろしいものである。というのは、それは現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解、その自然的没落の理解をも含むものであり、生成した一切の形態を運動の流れの中に、したがってまた、その計画的な側面に従って理解するものであって、何者をも恐れず、その本質上批判的で革命的なものであるからである。
資本主義社会の矛盾に満ちた運動は、実質的なブルジョアに対して周期的な景気循環の移り変わりにおいて、最も切実に感じられている。近代産業は、この循環を経過するものであって、その頂点が一般的な恐慌である。恐慌はまだ先行の段階にあるが、再び進行を始めている。そしてその舞台の普遍化していることによって、並びにその作用の強化されていることによって、神聖なる神プロイセンの国成りあがり者共にすら、弁証法を叩き込むであろう。
ロンドンにて
1873年1月24日
カール・マルクス
第2版へのあとがきはここまでとなります。人物についてはヘーゲルとなります。引用文が長いのである程度のところで止めておきました。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年8月27日 - 1831年11月14日[1])は、ドイツの哲学者である。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けてドイツ統一へと向かい始める転換期を歩んだ。
シュトゥットガルトのヘーゲルハウスにあるポートレイト
目次
概要[編集]
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、1770年8月27日、神聖ローマ帝国の領邦国家ヴュルテンベルク公国の首都シュトゥットガルトでプロテスタント家庭の官吏の息子に生まれる。13歳で教育熱心な母を亡くしたものの、勉学への熱意を高めていった。1788年、チュービンゲン大学に入学。寮生活をしながら神学や哲学を学び、ヘルダーリン、シェリングと親密な交友関係を築いていった。在学中にはギリシア文化に加えてカント哲学を学び、啓蒙主義と1789年のフランス革命の勃発に触発を受けてさらに向学の意欲を高め、キリスト教史に関する研究をおこなった。
卒業後はすぐには教職につけなかったため、1793年から1800年までスイスの首都ベルンで、次いでフランクフルトで家庭教師をしてながら、政治研究に専心する。恐怖政治期のフランスや都市有力者の寡頭支配にあったスイス、領邦分立のドイツに批判的な立場を強めていった。1801年、シェリングが大学教授を務めていたイエナ大学の私講師となり、シェリングと共同研究をおこなってカントとフィヒテを批判する論文を執筆していたが、次第に独自の立場を形成して1807年に『精神現象学』を刊行、シェリングを厳しく批判した。シェリングとの友情はこれ以降途絶える。折しも、イエナ会戦でプロイセン王国がナポレオンに敗北したためにイエナ大学は閉鎖され、職を失うこととなった。ヘーゲルはフランス軍によるイエナ占領のなか行進中のナポレオンを目撃、ナポレオンを「馬上の世界精神」と評している。1808年から1816年、ヘーゲルは生活を守るため、友人のニートハンマーの斡旋でバンベルクで新聞社の編集者になり、次いでニュルンベルクで中等教育機関ギムナジウムの校長となった。ヘーゲルは教科書編纂を目的に体系哲学の書『大論理学』、『エンチクロペディー』を執筆した。1811年、ヘーゲルは都市貴族の娘と結婚、幸福な家庭生活を享受して、二人の男子をもうけている。
1816年、ヘーゲルは念願のハイデルベルク大学での正教授職を手に入れ、名実ともに学問的評価を確立していく。二年後の1818年、ヘーゲルはフィヒテの後任としてベルリン大学の教授に招かれた。1821年、後期の代表作『法の哲学』を発表した。また、数々の講義を担当し、教壇に立って多くの学生の心を捉えてヘーゲル学派を形成した。ヘーゲルはプロイセン改革(英語版)の積極性を支持したことによりプロイセン政府の好感を手にし、急進的なブルシェンシャフト運動を抑止する目的で、1829年大学総長に選出された。しかし、ヘーゲルは当時猛威を奮っていたコレラに倒れ、1831年11月14日に急逝。
ヘーゲルは、古典に通じた慧眼で現実的かつ理想的な哲学を展開し、同時代のみならず後世にも大きな影響を与えた。主な著作は『精神現象学』、『論理学(大論理学)』、『エンチクロペディー』、『法哲学・要綱』などがある。なお、『歴史哲学』『美学』『宗教哲学』などはヘーゲル没後、弟子たち(つまりヘーゲル学派)により彼の講義ノートと聴講生のノートとを中心に編纂されたものである[2]。
生涯[編集]
幼少期[編集]
1789年時点の神聖ローマ帝国。南西部の黄色部分がヴェルテンベルク公国。中小の領邦が分立している。
シュトゥットガルトのヘーゲルの生家、 現在はヘーゲル博物館となっている
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは1770年8月27日、神聖ローマ帝国[注釈 1]南西部に位置するシュヴァーベン地方ヴュルテンベルク公国[注釈 2]のシュトゥットガルト(現在のドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州の州都)のエーバーハルトシュトラーセ53番地に居を構える中流家庭に生まれる[8][9]。父親はヴュルテンベルク政府の公務員だったゲオルグ・ルートヴィヒ・ヘーゲル(1733年-1799年)。母はマリア・マグダレーナ・ルイーザ・ヘーゲル(旧姓フロム、1741年-1783年)[10]。
詳細は「ヴュルテンベルク公国」を参照
なお、18世紀後期のドイツ社会はシュトゥルム・ウント・ドラングの時代に当たり、文豪ゲーテ(1749-1832)が活躍し、同時代人に作家にして哲学者のシラー(1759-1805)やフィヒテ(1762-1814)といった人物が活躍を見せた[11]。また、前年にコルシカではナポレオン(1769-1821)が誕生し、同年生まれには著名人に音楽家ベートーヴェン(1770-1827)、詩人のフリードリヒ・ヘルダーリン(1770-1843)がいる。後年の生まれでは、哲学者のフリードリヒ・シェリング(1775-1854)が生まれている[12][13]。
ヘーゲル家は16世紀にオーストリア領内のスタイエルマルク地方やケルンテン地方から逃れたプロテスタント迫害を逃れた移民にルーツがある。祖先はヨハネス・ヘーゲルという錫器の鋳造者だと言われ、一族には牧師や製造業者、市の書記など公務員に従事するものがいた[8]。父ゲオルグ・ルートヴィヒは収税局書記としてカール・オイゲン公に仕えていた。母マリア・マグダレーナは民会の役員を務めるフロム家の出身で、信仰篤く教養豊かな女性であった[10][13]。
ヘーゲルは三人兄弟の長子で、弟はナポレオン戦争に従軍しロシア遠征中に戦死している。妹のクリスティアーネとはとりわけ親密で、終生格別の強い絆をもっていた。ヘーゲルは貧しくも富裕でもない中産階級のプロテスタント的で堅実な家庭環境で幼少期を過ごすことになった[10][14]。
進歩的な教育者であった母の影響も手伝って、子供時代は学問の環境に恵まれ、5歳でラテン語学校に入り、文学・新聞・哲学などの書物を読みあさった[14]。だが、幼少期は病気がちで、天然痘で死に瀕したことがある[15]。
ギムナジウム時代[編集]
この時期、世界は大きな時代の変化を経験していた。1772年、第一回ポーランド分割がおこり、新大陸では1776年アメリカ合衆国が独立を宣言した。また、フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーが1778年に没し、1786年にはプロイセン王国の名君フリードリヒ大王が世を去る。一方で、カントがイギリス経験論と大陸合理論とを統一、総合して『純粋理性批判』(1781年)を執筆した。カントは人間理性の活動とその範囲を明示し、近代科学の時代の扉を開いた[16][13]。
紀元前497/6年ごろ – 406/5年に活躍したギリシア詩人ソポクレース
母と恩師、そして別れ[編集]
ヘーゲルは、7歳から18歳までの教育課程としてギムナジウムに進学した[11]。ギムナジウムではレフラー先生をとりわけ尊敬していた。ヘーゲルは8歳のころ先生からの教示を受けたが、10-13歳にかけて新約聖書やキケロを教わり、ヘブライ語を学ぶなど薫陶を受けた。レフラー先生から8歳のときシェイクスピア全集をもらい読むなど大変な読書家で、感想なども多数書き残す[17]。
1783年9月20日、ヘーゲルが13歳のころ、母マリア・マグダレーナが42歳にして世を去る。ヘーゲルは母への愛を晩年期まで思い慕うものであり、ヘーゲルが終生形作ったプロテスタントとしての堅実な人間性や考え方を母との暮らしの経験と記憶から受け継いだ[15]。さらに、1785年7月5日には生徒のために身をささげ、学問の価値を教えた尊敬するレフラー先生を失ってしまう[18]。ヘーゲルに多くの資質を与えた人々がいなくなった。
しかし、ヘーゲルの勉学に臨む意欲は沈まなかった。ヘーゲルは15歳ごろから歴史や法律、道徳などを広く学び、読んだ本や学んだことを事細かく要約し、抜粋し、自分の考え方や意見、反省点を日記としてノートにまとめ始めた。早くから大学での研究に適う学問的態度を身に着けていた[19][20]。修辞学に関しても言葉の歴史的由来や用法を考察し、適切な引用をおこなう非凡な才覚を持ったヘーゲルであるが、同時に話下手であった。また運動は不得意で、ギムナジウム時代は文学に関しても、ゲーテやシラーは読まず平凡な恋愛小説を夢中になって読んでいたようである[21]。
ギリシア悲劇[編集]
ギムナジウムではギリシア・ローマの古典を授業の中心に据えるのが普通であり、諸学の中でヘーゲルの心を捉えたもので最たるものはギリシア悲劇である。ソポクレースの『オイディプース王』、『コローノスのオイディプース』、『アンティゴネー』が好きで翻訳などに取り組んだ。ヘーゲルは生涯、人の世の苦悩と葛藤を描いた悲壮な悲劇の世界を愛し続けた。ギリシア悲劇はヘーゲルの内面にあって楽天的な合理主義を退け、人間(個人)と人間(個人)の衝突、種族(社会)と種族(社会)の対立に着目し、世界における避けがたい矛盾と分裂、そして闘争を主題として考察する基本的な学問路線を形成するものとなった[22]。
歴史への関心[編集]
ヘーゲルは古典だけではなく、歴史の教養においても優れていた。『戦史』を記したトゥキディデスや『ローマ人盛衰原因論』を記した近代のモンテスキューを読んだ。1785年レフラー先生が亡くなる直前に当たる6月末には、シュレックの『普遍的世界史』における歴史記述の方法から、歴史上の事件や人物の活躍が各国民や民族の特性や習俗にいかなる影響をもたらし、いかなる憲法や体制の樹立につながったのかを研究する重要性を意識する必要があることを悟る。このような歴史の哲学的な意味を求めようとする姿勢はカント以来のドイツでの学問的状況と符合するものであった。ヘーゲルの歴史意識は晩年に至るまで成長を続けて年と共に完成されていく。ヘーゲルにおいての歴史は過去の人物や事件の意義を考察し、歴史の底流に流れる法則性を考察する歴史哲学へと高められていく[23]。
1788年、ヘーゲルは18歳でギムナジウムを卒業し、シュトゥットガルトを去ることになる[24]
テュービンゲン大学時代 (1788–93)[編集]
イマニエル・カント
カント哲学の完成[編集]
1780年代は世界史上の激動期であった。1788年、カントが『実践理性批判』を公刊、理性に基づく道徳の格率とその体系を明示し、意志の自由と人格の尊厳を主軸とした道徳理論を鼎立した。また、1790年には『判断力批判』を公刊、美と生物の合目的性を論じた。カント哲学が完成を見せ、時代はドイツの近代的思惟の成熟期へと向かっていた[25]。ヘーゲルはカント哲学に強い影響を受け、青年時代はカント哲学を実践的かつ社会的な方法で完成させようと試みていく。実践の試みよりもむしろ、その問題点の解決が重要であると認めたのは、1800年になってからのことである。当初はカント哲学とキリスト教の両立問題に関心を集中させていた。
詳細は「イマヌエル・カント」を参照
0 件のコメント:
コメントを投稿