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2024年2月13日火曜日

〈資本論〉学習中断中で

 コトラでやリ直しますか







〈資本論〉入門 単行本 – 2011/9/25



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世界的なマルクス・ブームを巻き起こしているハーヴェイ教授の最も世界で読まれている入門書! グローバル経済を読み解く『資本論』の広大な世界へ! 【著者デヴィッド・ハーヴェイの言葉】 『資本論』は、内容豊かで多様な次元をもった書物である。これまでの「マルクス主義」という言葉に付随する先入観や偏見を排して、マルクス自身の観点に立ち返って読むことによって、皆さんとともに『資本論』の広大な世界への旅に出かけてみたい。それが、現在のグローバル経済を読み解くのに、きわめて有効であることを納得していただけるだろう。(序章より要約) 【各界からの評価】 ハーヴェイ教授は、経済学やマルクス研究に革命を起こし、世界の新たな世代の知識人に影響を与えている。今を生きるすべての人が、本書を読むべきだ。――ナオミ・クライン(作家・アクティヴィスト。著書『ショック・ドクトリン』) ハーヴェイ教授は、ラディカルな学者であり、彼の研究は、ジャーリズムにありがちな固定観念から自由であり、世界の現実への認識と慎重に考え抜かれた分析に満ちている。――リチャード・セネット(社会学者。著書『公共

2021年12月18日土曜日

第72回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 112ページ

 第72回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 112ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密

第二章交換過程 112ページ


(三八) プルードンは、まず彼の正義の理想、すなわち,justice éternelle“(永遠の正義)の理想を、商品生産に相応する法関係から作り出す。


ついでに述べておくが、このことによって、またすべての俗物たちに大変に慰安を与える証明できるのである、すなわち、商品生産の形態は、正義と同じように、永遠であるということである。


それから、逆に彼は、現実の商品生産とこれに相応する現実の法を、この理想にしたがって改造しようとする。


物質代謝の現実の法則を研究し、その基礎の上に一定の課題を解こうとするかわりに、物質代謝を .naturalité“(自然的素質)や,affinité(血縁)というような「永遠の理念」によって改造しようとする化学者について、人は何と考えるだろうか。ふし高利貸は、justice éternelle“(永遠 の 正義)やséquité éternelle“(永遠の公正)ゃ amutualité éternelle" (永遠の相互扶助)やその他 の avérités éternelles(永遠の真理)に反すると言えば、高利貸について教父たちが知っていたことより、何か少しでめ多く知ることになるだろうか? 教父たちも、高利貸は ggrice éternelle(永遠の恩寵) や foi éternelle(永遠の信仰)ゃ avolonté éternelle de dieu(神の永遠の意志)に反するといっていたのである。


 商品所有者をとくに商品から区別するめのは、商品にとっては、すべての他の商品体が、ただ自分の価値の現象形 形態と考えられるにすぎないという事情である。だから、生まれつきの平等主義者で皮肉屋である商品は、つねに、他のあらゆる商品と、自分はマリトルネス〔セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中。……訳者]よりもっと醜

い様子をしていても、心だけでなく、肉体換える用意をしている。


 商品に欠けているこの商品体の具体的なるものにたいする感覚を、商品所有者は、彼自身の五感ないし六感で補うのである。彼の商品は、彼にとってはなんら直接の使用価値ではない。


そうでなければ、彼はこれを市場にあっては行かない。商品は他人に対する使用価値をめっ

ているのである。彼にとっては、商品は直接には、交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値をふっているだけである。


それゆえに、彼はこれを、その使用価値が彼に満足を与える商品にたいして譲渡しようとする。すべての商品は、その所有者にたいしては非使用価値であり、その非所有者にたいしては使用価値である。


商品は、こうして全般的に持ち手を換えなければならない。しかし、この持ち手変更がその交換をなすのである。そしてこの交換が商品を価値として相互に関係させる。


さらにこれを価値として実現する。したがって、商品は、それが使用価値として実現されうる前に、価値として実現されなければならない。


(三九)「なぜかというに、すべての財貨の使用は二重であるからである。 |その一つは物自体に固有であり、他はそうではない。サンダルのように、はくことに用いられると同時に交換されうるのである。


両者とらにサンダルの使用価値である。なぜかというに、サンダルを、自分であっていないのと、例えば、食物と交換する人でち、サンダルはサンダルとして利用するのであるからである。

しかしながら、その自然の使用方法で利用するのではない。なぜかというに、サンダルは、交換のためにあるのではないからである」(アリストテレス『国家論』第一巻、第九章〔山本光雄訳『政治学』岩波文庫版、五一ページ])。


他方において、商品は、それが価値として実現されうる前に、使用価値であることを立証しなければならない。なぜかというに、商品に支出された人間労働は、それが他人にたいして有用な形態で支出されるかぎりでのみ、かかる人間労働の性質を受け取るからである。


その労働が他人に有用であるか、したがって、その生産物が他人の欲望を充足させるかどうかは、だが、諸商品が交換されてはじめて証明しうることである。


あらゆる商品所有者は、その商品を、ただ彼の欲望を充足させる使用価値をあつ他の商品にたいして譲渡するだけである。


そのかぎりにおいて、交換は彼にとって個人的な過程であるにすぎない。他方において、彼はその商品を価値として、したがって、同一価値をめっている任意のあらゆる他の商品に実現しようとする。


ここでは彼自身の商品が他の商品の所有者にとって、使用価値をもっているかどうかは問題でない。そのかぎりにおいて、交換は彼にとっ換て、一般的に社会的な過程である。


だが、この同じ過程が、同時にすべての商品所有者にたいして、もっぱら個人的であって、同時にまたもっぱら一般的に社会的であるというようなことはありえない。


あっと詳細に見るならば、すべての商品所有者にたいして、あらゆる他人の商品は、彼の商品の特別な等価となっている。したがって彼の商品は、また他のすべての商品の一般的な等価となる。しかしながら、すべての商品所有者113ページ末


2021年12月16日木曜日

第71回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 111ページ

 第71回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 111ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密

第二章交換 過 程

父換過程


商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。したがって、われわれはその番人を、すなわち、商品所有者をさがさなければならない。


商品は物であって、したがって人間にたいして無抵抗である。し商品が従順でないようなばあいには、人間は暴力を用いることができる。


言葉を換えていえば、これを持って歩くことができる。これらの物を商品として相互に関係せしめるために、商品の番人は、お互いに人として相対しなければならぬ。彼らの意志がそれらの物の中にひそんでいる。


したがって、ある一人は、他人の同意をもってのみ、したがって各人は、ただ両者に共通な意志行為によってのみ、自身の商品を譲渡して他人の商品を取得する。


したがって、彼らは交互に私有財産所有者として、認め合わなければならぬ。契約という形態をとるこの法関係は、適法的なものとして進行するかどうかは別として、一つの意志関係である。この関係に経済的関係が反映されている。


この法関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。人々はここではただ相互に商品の代表者として、したがってまた商品所有者として存在している。


叙述の進行ととめに、われわれは、一般に、人々の経済的仮装は経済的諸関係の人格化にすぎず、この経済的諸関係の担い手として、彼らが相対しているということを見るであろう。


(三七) かの篤信をもってきこえた第一二世紀においては、これらの商品の中には、往々にしてきわめてなよやかなめの現われている。

だから、その頃のフランスのある詩人は、ランディ の市場にきている商品の中に、衣服類や靴や皮革や農具や鞣革やその他のほかに、 ,femmes folles de leur corps(燃えるようなからだをもった女たち)数えあげている。111ページ末


2021年12月15日水曜日

第70回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 142ページ

 第70回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 142ページ 


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密


(A) S・ベイリー『価値の性質、尺度、および諸原因に かんする 批判的論究』、一六五ページ以下鈴木訳

『リカード価値論の批判』、日本評論社、一五一ページ]。


(98)

これまでまだどの化学者も、真珠やダイヤモンドのなかに交換価値を発見してはいない。ところが、批判のするどさをとくに自負するこの化学的実体の経済学的発見者たちは、物の使用価値はそれらの物的属性にはかかわりがないが、これにたいして、それらの価値は物としてのそれらに属するということを見いだすのである。


ここで彼らの見解を確証するのは、物の使用価値は人間にとって交換なしに、それゆえ物と人間との直接的関係において実現されるが、反対に物の価値はただ交換においてのみ、すなわち一つの社会的過程においてのみ、実現されるという奇妙な事情である。


ここで、あのお人よしのドッグベリーを思い出さない人があろうか。彼は夜番のシーコールに教えて語る。

「男ぶりのいいのは運の賜物だが、読み書きは自然にそなわるものだ」。


(三六)*

(六)『考察』の著者やS・ベイリーは、リカードウが交換価値を単に相対的なものから 絶対的なものに転化させたと言って、リカードウを責めている。逆である。彼は、これらの物、たとえばダイヤモンドや真珠が交換価値としてもっている外観的相対性を、その外観の背後に隠されている真の関係に、人間的労働の単なる表現としてのそれらの相対性に、還元したのである。


リカード学派のベイリーに対する反論が粗雑であり、適切でなかったとすれば、そのわけは、彼らがリカードウ自身のうちに、価値と価値形態または交換価値との内的連関についてなんの解明も見いださなかったからにほかならない。

* 〔シェイクスピア『から騒ぎ』、第三幕、第三場。小田島訳、『シェイクスピア全集』I、白水社、一七八ページ。ドッグベリーはこの劇に登場する警察官で、始終、言葉を誤用する.

140ページ末


2021年12月14日火曜日

第69回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 140ページ

 第69回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 140ページ 


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密



あったアテネおよびローマについては、正しくない、と。まず第一に奇妙なのは、中世と古典古代世界についてのこの世間周知の決まり文句をまだ知らないでいる人があるものと前提して、よろこんでいる人がいるということである。


中世がカトリックによって、古典古代世界が政治によって、生活していくことができなか

ったことだけは、はっきりしている。


それどころか、それらがその暮らしを立てた仕方・様式こそ、なぜ、

古典古代では政治が、中世ではカトリックが主役を演じたかを説明するのである。


さらには、たとえばローマ共和政の歴史をほとんど知らなくても、土地所有の歴史がその裏面史をなしていることくらいはわかる。


他面では、すでにドン・キホーテは、遍歴騎士道が社会のどのような経済的形態とも同じように調和すると妄信した誤りのために、ひどい目にあっているのである。


* [ヴォルテールによって批判の対象とされたライプニッツ『弁神論』に見られる予定調和論の「最善の世界」、「最善の仕組み」が念頭にあると思われる。


本書、第三篇、第五章、第二節中の訳注参照】


  商品世界にまつわりついている物神崇拝に、あるいは社会的労働諸規定の対象的外観に、一部の経済学者がどんなにはなはだしくあざむかれているかということは、とりわけ、交換価値の形成における自然の役割についての退屈でばかばかしい論争が示している。


交換価値は、ある物に支出された労働を表現する一定の社会的様式であるから、たとえば為替相場と同じように、それが自然素材を含むことはありえないのである

商品形態は、ブルジョア的生産のもっとも一般的なもっとも未発展な形態であるから――だからこそ、商品形態は、こんにちほど支配的な、それゆえ特徴的な様式でではないにしても、早くから登場するのだが――その物神的性格はまだ比較的にたやすく見抜けるように見える。


もっと具体的な形態の場合には、簡単であるという外見さえ消えうせる。重金主義の幻想はどこから来るのか?


 重金主義は、金銀を見ても、貨幣としての金銀は一つの社会的生産関係を、しかも奇妙な社会的属性を帯びた自然物という形態で、表示するのだということを見てとることができなかった。


また、お高くとまって重金主義を冷笑している近代の経済学は、それが資本を取り扱うやいなや、その物神崇拝は手に取るように明らかになるではないか?


 地代は土地から生じるのであって、社会から生じるのではないという重農主義的幻想が消えてから、どれだけたったであろうか?


しかし、先回りしないために、ここでは商品形態そのものについてのもう一つの例で満足することにしよう。


諸商品がものを言えるとすれば、こう言うであろう。


われわれの使用価値は人間の関心を引くかもしれない。それは物としてのわれわれには属さない。


そうではなくて、われわれに物的に属 しているものは、われわれの価値である。商品物としてのわれわれ自身のつき合いがそのことを証明している。


われわれは、ただ交換価値としてのみ自分たち自身を互いに関連させ合うのだ、と。では、

経済学者が、この商品の魂をどのように伝えるかを聞いてみよう。


「価値」(交換価値) 「は物の属性 であり、富」(使用価値) 「は人間の属性 である。


価値は、この意味では、必然的に交換を含んでいるが、富はそうではない」。「富」(使用価値)「は人間の属性であり、価値は商品の属性である。人間や社会は富んでいる。


真珠やダイヤモンドには価値がある。 •真珠やダイヤモンドは、真珠やダイヤモンドとして価値をもつ」。

(三四)『経済学におけるある種の用語論争の考察。とくに価値および需要供給にかんして』、ロンドン、一八二一年一六ページ  142ページ1行目

たましい


2021年12月12日日曜日

第68回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 138ページ

 第68回DAS KAPITAL 資本論 カール・マルクス 資本論 社会科学研究所 資本論翻訳委員会訳1 新日本出版社 138ページ 岩波書店版 106ページ

(新日本版ではどうなっているか。読んでみたい)

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密




あるいは商品そのものの本性にとって外的なものとして、取り扱っている。その原因は、価値の大きさの分析にすっかり注意を奪われていたというだけではない。それはもっと深いところにある。


労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のもっとも抽象的な、しかしまたもっとも一般的な形態であり、ブルジョア的生産様式はこの形態によって一つの特殊な種類の社会的生産として、それゆえまた同時に歴史的なものとして、性格づけられている。


だから、人がこの生産様式を社会的生産の永遠の自然的形態と見誤るならば、人は必然的に、価値形態の独自性を、それゆえ商品形態の、すすんでは貨幣形態、資本形態等々の独自性を見落とすことになるのである。


だから、労働時間による価値の大きさの測定についてはまったく一致している経済学者たちのあいだに、貨幣、すなわち一般的等価物の完成した姿態、については、きわめて種々雑多な、まったく矛盾した諸見解が見られるのである。


このことは、たとえば、ありふれた貨幣の定義ではもはや間に合わない銀行業の取り扱いにさいしてはっきりと現われてくる。」

それゆえ、反対に、価値のうちに社会的な形態だけを見る、あるいはむしろ実体のない社会的形態の外観だけを見る復活した重商主義(ガニルなど)が生じた。


―ここできっぱりと断わっておくが、私が古典派経済学と言うのは、ブルジョア的生産諸関係の内的連関を探求するW・ペティ以来のすべての経済学をさし、これにたいして俗流経済学と言うのは、外* 見上の連関のなかだけをうろつき回り、


いわばもっとも粗雑な現象のもっともらしい解説とブルジョア的自家需要とのために、科学的経済学によってとうの昔に与えら に材料を絶えずあらためて反芻し、それ以外には、自分たち自身の最善の世界についてのブルジョア的生産当事者たちの平凡でひとりよがりの諸観念を*体系づけ、学問めかし、永遠の真理だと宣言するだけにとどまる経済学をさしている。


(三三)「経済学者たちは奇妙なやり方をする。彼らにとってはただ 二種類の制度 があるだけだ。人為的制度と自然的制度と。封建制の制度は人為的制度であり、ブルジョアジーの制度は自然的制度である。


彼らはこの点では、同じく二つの種類の宗教を区別する神学者たちに似ている。彼らのものでないどの宗教も人間のっくりものであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示なのである。


 そういうわけで、かつてはとにかく歴史があったが、もうそれは 存在しないのだ」(カール・マルクス『哲学の貧困。プルードン氏の「貧困の 哲学」にたいする返答』、一八四七年、一二三ページ[邦訳『全集』、第四巻、一四三ー一四四ページ)。ここで実にこっけいなのはバスティア氏で、彼は、古代のギリシア人やローマ人はただ略奪だけで生活していたと思い込んでいる


しかし、何世紀にもわたって略奪で生活していくからには、そこには略奪されるべきものが

絶えず存在しなければならない。言い換えれば、略奪の対象が引き続き再生産されていなければならない。


とすれば、ギリシア人やローマ人も一つの生産過程を、したがって一つの経済をもっていて、それが彼らの世界の物質的基礎をなしていたことは、ブルジョア経済がこんにちの世界の物質的基礎をなしていることとまったく同じであるように思われる。


それとも、バスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式は略奪体制の上に立っているとでも考えているのだろうか?


 そうだとすると、彼はあぶない地盤の上にいることになる。


アリストテレスのような大思想家でさえ奴隷労働の評価で誤ったのに、バスティアのようなちっぽけな経済学者がどうして賃労働の評価をまともにやれるはずがあろうか?


―この機会に、私の著書『経済学批判』(一八五九年)が出たときに、アメリカのあるドイツ語新聞から 私に加えられた異論を 簡単にしりぞけておこう。


この新聞によれば、私の見解、すなわち、一定の生産様式といつでもこれに照応している生産諸関係、要するに、「社会の経済的構造は、法的かつ 政治的上部構造が その上に立ち、一定の社会的意識形態がそれに照応するところの 実在的土台である」ということ、「物質的生活の 生産様式が、社会的、政治的、および精神的生活過程一般を制約する」という私の見解 およそこうした見解は、物質的利害が支配的であるこんにちの世界については確かに正しいが、カトリックが支配的であった中世についてや、政治が支配的であった一四〇ページ一行目


2021年12月11日土曜日

第67回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 106ページ

 第67回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 106ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密


価値をもち、あるいは二つの相ことなる価値をすらっているとすれば、これらの物は、 これをただ自分がつくられてくる労働のそれ(価値)から得るほかにありえない」(リカ ー ド

I ド『経済学および課税の原理』第三版、ロンドン、一八二一年、三三四ペー ジ〔邦訳、小泉信三訳、岩波文庫版、下巻、一九ページ]。〔デステュトラシ『観念学概要』第四・第五部、パリ、一八二六年、三五・三六ページ、参照])。


われわれはリカードが、デステュットにたいして、彼自身のより深い意味を押しつけていることだけを示唆しておく。


デステュットは、事実、一方では富をなす一切の物が「これを作り出した労働を代表する」

と言っているが、他方では、それらの物が、その「二つのちがった価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得ると言っている。


彼は、これをもって、俗流経済学の浅薄さに堕ちている。俗流経済学は、一商品(この場合労働)の価値を前提して、これによって後で他の商品の価値を規定しようとするのである。 


リカードは彼をこう読んでいる、すなわち、使用価値においても交換価値においても、労働(労働の価値ではない)が示されていると。


しかし彼自身は、同じく二重に表示される労働の二重性を区別していない。したがって、彼は、「価値と富、その属性の相違」という章全体にわたって、苦心してJ・B・セイ程度の男の通俗性と闘わなければならない。


したがって、最後にまた彼は、デステュットが、彼自身と価値源泉としての労働にっいて一致するが、また他方で価値概念についてセイと調和することを、大変に驚いている。


(三二) 古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、 この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでちいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。


その理由は、価値の大ぃさの分析が、その注意を吸いつくしているということにだけあるのではない それはちっと深いところにある。


労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のちっと抽象的な、だがまたもっと一般的な形態であって、この生産様式は、 これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。


したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性を看過することになる。


それゆえに、労働時間による価値の大いさ の秤定について全く一致する経済学者に、貨弊、 すなわち一般的等価の完成体についての、あっとめ混乱した、そしてもっとめ矛盾した観念を見ることにな のである。


このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取扱いにあらわれる。

ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、ちはや間に合わなくなる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としか見ないような新装の重商主義(ガニイ等々)が、 ここに発生した。


――これを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるぬのは、W・ペティ以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学と反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探究するあのである。


俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつき廻るだけで、いわばちっとお粗け

ずりの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学によってとっくに与えられている材料を、絶えず繰りかえして反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が、彼ら自身の最良の世界にっいてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理窟づけ、しかもこれを永遠の真理として宣言する、ということに限られているのである。


(三三) 「経済学者たちは一種独特のやり方をするのだ。彼らにとっては、制度に二種類があるだけである。人工的なそれと自然的なそれである。


封建体制の制度は人工的のそれであり、ブルジョアジー の制度は自然的である。彼らはこの点では神学者に似ている。彼らも同じように二種の宗教をたてる。


彼らの宗教でない宗教は、すべて人間の作ったのであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示である。―かくて、歴史はそのようにつづいたのであるが、もはや歴史は終わった」(カー マルクス『哲学の貧困。プルードン氏の貧困の哲学』に答えて』一八四七年、一二三ページィーツ版『全集』第四巻、一三九ページ。邦訳、山村喬訳『哲学の貧困』岩波文庫版、一三二一一三三ページ。新潮社版『選集』第三巻、九三一九四ページ])。古代ギリシア人も口ー マ人も掠奪だけで生きていたと思っているバスティア氏は、まことにおかしい考え方だ。


しかし、もし数世紀を通じて掠奪で生きられるとすれば、絶えず何か掠奪さるべきるのが、そこになければならない いいかえれば、掠奪の対象が継続的に再生産されなければならない。

したがって、ギリシア人もローマ人も、一つの生産過程を含っていたようであ

る。したがって、ブルジ ア経済が今日の世界の物質的基礎をなしているのと全く同じように、彼らの世界の物質的基礎をなしていた経済、 もっていたようである。


それとちバスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式が、一つの掠奪体制によるものであるとでも考えているのだろうか? こうなると、彼の立っている土台があぶないことになる。


アリストテレスほどの巨人思想家が、奴隷労働の評価において過っているとすれば、バスティアのような体儒(こびと)経済学者が、どうして賃金労働の評価において正しいことをいえようか?


|私はこの機会を摑んで、私の著書『経済学批判』(一八五九年)の刊行に際して、一ドイツ語

アメリカ新聞によってなされた抗議を厳しておきたい。


この新聞は、こういうのである、私の見解、すなわち、一定の生産様式とこれにつねに相応する生産諸関係、簡単にいえば「社会の経済的構造が、法律的政治的上部構造のよって立ち

かっこれに対して108ページ1行目


2021年12月10日金曜日

第66回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 104ページ

 第66回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 104ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密



正しい比例をとるようにように規制する。他方において、労働時間は、同時に生産者の共同労働にたいする、したがってまた共同生産物の個人的に費消さるべき部分にたいする、個人的参加分の尺度として役立つ。


人々のその労働とその労働生産物とにたいする社会的な連結は、このばあい生産において分配においての簡単明瞭であることに変わりない。


商品生産者の一般的に社会的な生産関係は、彼らの生産物に商品として、したがって価値として相対し、また、この物的な形態の中に、彼らの私的労働が相互に等一の人間労働として相連結するということにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽象的人間の礼拝をもって、とくにそのブルジョア的発展たるプロテスタンティズム、理神論等において、やっとや適応した宗教形態となっている。


古代アジア的な、古代的等々の生産様式においては、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての存在は、一つの副次的な役割を演ずる。


だが、この役割は、その共同体が没落の段階にすすむほど、重要となってくる。本来の商業

民族は、ェピクロスの神々のように、あるいはポーランド社会の小穴の中のユダヤ人のように、古代世界の合間合間にのみ、存在している。


かの古代の社会的生産有機体は、ブルジョア的なそれにくらべると、特別にずっと単純であ

り明瞭である。しかし、それは個々の人間が、他の人間との自然的な種族結合の臍の緒をまだ切り取っていない、その未成熟にもとづくか、あるいは直接的な支配関係または隷属関係にとづいているのである。





これらの諸関係は、労働の生産諸力の発展段階が低いということ、これに応じて、人間の物質的な生活をつくり出す過程の内部における諸関係、したがって相互間と自然とにたいする諸関係が、狭隘であるということによって、条件づけられている。


このような実際の狭隘さは、思想的には古い自然宗教や民族宗教に反映されている。現実世界の宗教的反映は、一般に、実際的な日常勤労生活の諸関係が、人間にたいして、相互間のおよび自然との間の合理的な関係を毎日明瞭に示すようになってはじめて、消滅しうるのである。


社会的生活過程、すなわち、物質的生産過程の態容は、それが自由に社会をなしている人間の生産物として、彼らの意識的な計画的な規制のあとに立つようになってはじめて、その神秘的なおおいをぬぎすてるのである。


だが、このためには、社会の物質的基礎が、いいかえると一連の物質的存立条件が、必要とされる。これらの諸条件自体は、また永い苦悩にみちた発展史の自然発生的な産物である。

(三)

さて経済学は不完全ではあるが価値と価値の大いさを分析したし、またこれらの形態にかくされている内容を発見したのではあるが、それはまだ一度の、なぜにこの内容が、かの形態をとり、したがって、なぜに労働が価値において、また労働の継続時間による労働の秤量が、労働生産物の価値の大いさの中に、示されるのか? という疑問をすら提起しなかった。


生產過程が人々を支配し、人間はまだ生産過程を支配していない社会形成体に属するということが、その額に書き記されている諸法式は、人間のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じように、自明の自然必然性と考えられている。


したがって、社会的生産有機体の先ブルジョア的形態は、あたかも先キリスト教的宗教が、教父たちによってなされたと同じ取扱いを、経済学によって受けている。


(三一)リカードの価値の大いさ の分析ーそしてこれは最良のものである に不充分なところがあることについては、本書の第三および第四巻で述べる。しかしながら、価値そのものについていえば、古典派経済学はいずこにおいても、明白にそして明瞭な意識をあって、価値に示されている労働を、その生産物の使用価値に示されている同じ労働から、区別することをしていない。


古典派経済学は、もちろん事実上区別はしている。というのは、それは労働を一方では量的に、他方では質的に考察しているからである。しかしながら、古典派経済学には労働の単に量的な相違が、その質的な同一性または等一性を前提しており、したがって、その抽象的に人間的な労働への整約を前提とするということは、思いもよらぬのである。

リカードは、例えば、デステュット・ドゥ ・トラシ が こう述べるとき、これと同見解であると宣言している、すなわち「われわれの肉体的および精神的の能力のみが、われわれの本源的な富であることは確かであるから、これら能力の使用、すなわち一定種の労働はわれわれの本源的な財宝である。


われわれが富と名づけるかの一切の物を作るのが、つねにこの使用なのである。……その上

に、労働が作り出したかの一切の物は、労働を表わしているにすぎないこと。確かである。そしてちしこれらの物が、一つの価値をもち、106ページ1行目


2021年12月9日木曜日

第65回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 102ページ

 第65回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 102ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密




とが、物質的生産の社会的諸関係にめ、その上に築かれている生活部面にも、特徴となっている。しかしながら、与えられた社会的基礎をなしているのは、まさしく人身的隷属関係であるのであるから、労働と生産物とは、その実在性とちがった幻想的な態容をとる必要はない。


それらのものは、奉仕として、また現物貢納として、社会の営為の中にはいる。労働の自然形態と、そして商品生産の基礎におけるようにその一般性ではなく、その特殊性とが、ここでは労働の直接に社会的な形態である。


俗役労働は、商品を生産する労働と同じように時間によってはかられる。だが各農奴は、彼がその主人の仕事のために支出するのが、彼の個人的労働力の一定量であるということをっている。


僧侶にたいして納むべき十分の一税は、僧侶の祝福よりずっとはっきりしている。したがって、人々がここで相対して着ている仮装をどう観るにしても、彼らの労働における人々の社会的関係は、いずれにして彼ら自身の人的の関係として現われ、物の、すなわち、労働生産物の社会的関係に扮装してはいない。


共同的な、すなわち直接に社会的となっている労働を考察するために、われわれはその自然発生的な形態、すなわち、すべての文化民族の歴史の入口で、われわれが出会うような形態に帰る必要はない。


あっと身近な例をあげると、自家の欲望のために穀物や家畜や撚糸や亜麻布や衣服等を生産している、農家の田園的家父長的な産業がある。これら各種の物は、家族にとって、その家族労働のそれぞれの生産物である。


しかしそれがお互いに商品として相対するのではない。これらの生産物を作り出す各種の労働、すなわち、農耕、牧畜、紡績、機織、裁縫等々は、それぞれの自然形態のままで社会的な機能をなしている。


というのは、それらは、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的な分業をやって行なわれている家族の機能であるからである。


性別や年齢別、ならびに季節の変化ととやに変化する労働の自然諸条件が、家族間における労働の分配と個々の家族員の労働時間とを規制する。


しかしながら、継続時間によって測定される個人的労働力の支出は、ここでは、初めから労働自身の社会的規定として現われる。


というのは個人的労働力は、本来家族の共同の労働力の器官としてのみ作用するからである。

(三0) 第二版への注。「自然発生的な共有財産制の形態が、特殊的にスラヴ人的の形態であるとか、さらには、ロシア以外にはない形態であるなどというような主張は、最近拡がっている笑うべき偏見である。


それは、ローマ人、ゲルマン人、ケルト人に立証されうる原始形態であるが、これについては、いろいろな見本でいっぱいの見本帳が、インド人の間に、部分的には崩壊しているが、な依然として存している。


アジア的な、とくにインドの共有財産形態のより正確な研究は、各種の自然発生的共有財産制の形態から、いかにその崩壊の種々の形態が出てくるかということを証明するであろう。


こうして例えば、ローマ人やゲルマン人の私有財産制の各種の原型を、インド共有財産制の種々なる形態から導き出すことができるのである」(カール・マルクス『批判』10ページ[ディーツ版『全集』第一三巻、二一ページ。邦訳、岩波文庫版、三一ページ。新潮社版『選集』第七巻、六三ページ])。


最後にわれわれは、目先きを変えて、自由な人間の一つの協力体を考えてみよう。人々は、共同の生産手段をもって労働し、彼らの多くの個人的労働力を、意識して一つの社会的労働力として支出する。


ロビンソンの労働の一切の規定がここで繰り返される。ただ、個人的であるかわりに社会的であることがちがっている。


口ビンソンのすべて生産物は、もっぱら彼の個人的な生産物であった。したがってまた、直接に彼のための使用対象であった。この協力体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部は、再び生産手段として用いられる。


それは依然として社会的である。しかしながら、他の部分は生活手段として、協力体の成員によって費消される。


したがって、この部分は彼らの間に分配されなければならぬ。この分配の様式は、社会的生産有機体自身の特別な様式とともに、またこれに相応する生産者の歴史的発展の高さとともに、変化するであろう。


ただ商品生産と比較するために、各生産者の生活手段にたいする分け前は、その労働時間によって規定されると前提する。


したがって、労働時間は二重の役割を演ずるであろう。労働時間の社会的に計画的な分配は、各種の労働機能が各種の欲望にたいして正しい比例をとる103ページ末


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『資本論』の学習第234回第3巻資本主義的生産の総過程第1部第5篇利子と企業者利得地への利潤の分割。 利子付き資本第25 章 信用と空資本

  5 資本論第3巻第5篇・第25章「信用と空資本」は、資本主義が高度に発展した段階で現れる** 金融の仕組みと“見かけの資本”**を分析する重要な章です。少し抽象的ですが、現代の株式市場 やバブル経済を理解する鍵にもなります。 ■ 全体のテーマ この章の核心はシンプルに言うと:...

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