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2021年12月8日水曜日

第64回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 100ページ

 第64回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 100ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密





労働生産物に商品の刻印を捺し、したがって、商品流通の前提となっている形態が、すでに社会生活の自然形態の固定性をもつようになってはじめて、人間は、彼らがむしろすでに不変であると考えている、


このような諸形態の歴史的性質についてでなく、それらの形態の内包しているものについて、考察をめぐらすようになる。


このようにして、価値の大いさの規定に導いたのは、商品価格の分析にほかならず、その価値性格の確定に導いたのは、商品が共同してなす貨幣表現にほかならなかったのである。


ところが、私的労働の社会的性格を、したがって私的労働者の社会的諸関係を明白にするかわりに、実際上蔽いかぶせてしまうの、まさに商品世界のこの完成した形態 ――貨幣形態―である。


私が、上衣、深靴等々は、抽象的人間的労働の一般的体現としての亜麻布に関係しているというとすれば、この表現の倒錯は、目を射るように明らかである。


しかし、もし上衣や深靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的等価としての亜麻布にあるいは事実上すこしことなるところはないのだが、金や銀に――関係せしめるとすれば、


彼らにとっては、その私的労働の社会的総労働にたいする関係は、正確にこの倒錯した形態で現われる。このような形態が、まさにブルジョア的経済学の諸範疇をなしているのである。


それは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、すなわち、商品生産の生産諸関係にたいして、社会的に妥当した、したがって客観的である思惟形態なのである。


それゆえに、商品生産にもとづく労働生産物を、はっきり見えないようにしている商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、われわれが身をさけて、他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる。

            (三九)

経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず、ロビンソンをかれの島に出現させよう。本来彼は控え目な男ではあったが、それでもとにかく彼は、各種の欲望を充足せしめなければならない。


したがってまた、各種の有用労働をなさなければならない。道具を作り、家具を製造し、騎馬を馴らし、漁りし、猟をしなければならない。祈繕その他のことはここでは語らない。というのは、われわれのロビンソンは、このことに楽しみを見出し、このような活動を休息と考えているからである。


彼の生産的な仕事がいろいろとあるにゃかかわらず、彼は、それらの仕事が同じ口ビンソンのちがった活動形態にすぎないことを知っている。


したがって、人間労働のちがった仕方であるにすぎないことを知っている。必要そのものが、彼の時間を、正確にそのちがった仕事の間に分配しなければならないようにする。


彼の総活動の中で、どの仕事が割合をより多く、どのそれがより少なく占めるかということは、目的とした有用効果の達成のために克服しなければならぬ困難の大小にかかっている。


経験が彼にこのことを教える。そして、時計、台帳、インクおよびペンを難破船から救い出したわがロビンソンは、よきイギリス人として、まおなく自分自身について記帳しはじめる。


彼の財産目録は、彼がやっている使用対象、彼の生産に必要な各種の作業、最後に、これら各種の生産物の一定量が、平均して彼に支出させる労働時間の明細表を含んでいる。


ロビンソンと彼の自分で作り出した富をなしている物との間の一切の関係は、ここではきわめて単純であり、明白であって、M・ヴィルト氏すら、特別に精神を緊張させることなくと、これを理解できるようである。


そしてそれにちかかわらず、この中には価値の一切の本質的な規定が含まれている。


(二九) 第二版への注。リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない。「彼は原始漁夫と原始猟師を、ただちに商品所有者にして魚と野獣とを交換させる、これらの交換価値に対象化されている労働時間に比例して。


このおり、彼は、原始漁夫と原始猟師とが、彼らの労働要具の計算のために、一八一七年ロン ドン の取引所で行なわれるような減価計算表を利用するという、時代錯誤に陥っている。

"オーウェン氏の平行四辺形』 は、彼がブルジョア的社会形態以外に識っている唯一の社会形態であるように見える」(カール・マルクス『批判』三八・三九ページ[ディーツ版『全集』第一三巻、四六ページ。邦訳、岩波文庫版、六九・七〇ページ。新潮社版『選集』第七巻、八六・八七ページ])。


いまわれわれは、ロビンソンの明るい島から陰鬱なヨーロッパの中世に移ろう。


ここでは独立人のかわりに、すべての人が非独立的であるのを見出す――農奴と領主、家臣と封主、俗人と僧侶という風に。人身的な隷属ということが、102ページ1行目


2021年12月7日火曜日

第63回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 98ページ

 第63回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 98ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密




置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし、彼らはこれをなすのである。したがって、価値のひたいの上には、それが何であるかということは書かれていない。価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字に転化するのである。


後になって、人間は、彼ら自身の社会的生産物の秘密を探るために、この象形文字の意味を解こうと試みる。


なぜかというに、使用対象の価値としての規定は、言語と同様に彼らの社会的な生産物であるからである。労働生産物が、価値であるかぎり、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現であるという、後の科学的発見は、人類の発展史上に時期を画するものである。


しかし、決して労働の社会的性格の対象的外観を逐い払うものではない。


この特別なる生産形態、すなわち、商品生産にたいしてのみ行なわれているもの、すなわち、相互に独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が、人間労働としてのその等一性にあり、そして労働生産物の価値性格の形態をとるということは、かの發見以前においても以後においても商品生産の諸関係の中に囚われているものにとっては、あたかや空気をその成素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続せしめるのを妨げぬと同じように、終局的なものに見えるのである。


(二七) 第二版への注。したがって、ガリアニが、価値は人々の間の関係である。ー„La Ricchezza è una ragione tra due per-sone"ー

といっているとすれば、彼はこう付け加えなければならなかったであろう、すなわち、物的外被の下にかくされた関係と(ガリアニ『貨幣について』二三一ページ、クストディ編『イタリア古典経済学叢書』近代篇、第三巻、ミラ 一八0三年)。


生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるのは、自分の生産物にたいしてどれだけ他人の生産物を得るか、したがって、生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。


このような割合は、ある程度習慣的な固定性

をもつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性質から生ずるように見える。したがって、例えば一トンの鉄と二ォンスの金とは、一封度の金と一封度の鉄が、その物理学的化学的属性を異にするにかかわらず同じ重さであるように、同じ価値であることになる。


事実、労働生産物の価値性格は、価値の大いさとしてのその働きによってはじめて固定する。この価値の大いさは、つねに交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。


彼ら自身の社会的運動は、彼らにとっては、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動を規制するのではなくして、その運動に規制される。


相互に独立して営まれるが、社会的分業の自然発生的構成分子として、あらゆる面において相互に依存している私的労働が、継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、私的労働の生産物の偶然的で、つねに動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる労働時間が、規制的な自然法則として強力的に貫かれること、


あたから家が人の頭上に崩れかかるばあいにおける重力の法則のようなものであるからであるが、このことを、経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。


労働時間によって価値の大いさが規定されるということは、したがって、相対的商品価値の現象的運動のもとにかくされた秘密である。


その発見は、労働生産物の価値の大いさが、単なる偶然的な規定であるという外観をのぞくが、しかし、少しもその事物的な形態をなくするものではない。


(二八)「周期的な革命によってのみ貫徹されうる法則を何と考えるべきであろうか? それはまさしく一つの自然法則であって、関与者たちの無意識にとづいているあのなのである」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、『独仏年誌』

(アーノルト ルーゲおよびカール マルクス編、パリ、一八四四年)、所載[ディーツ版『全集』第一巻、五一五ページ。邦訳、新潮社版『選集』第一巻、一六一ページ])。


人間生活の諸形態にかんする思索、したがってまたその科学的分析は、一般に現実の発展とは対立した途を進む。

このような思索は、post festum(後から)始まり、したがって、発展過程の完成した成果とともに始まる。労働生産物に商品の刻印を捺し、100ページ1行目


2021年12月6日月曜日

第62回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 96ページ

 第62回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 96ページ


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密


それは物理的な物の間における物理的な関係である。これに反して、商品形態とそれが表われる労働諸生産物の価値関係とは、それらの物理的性質やこれから発出する物的関係をやっては、絶対にどうすることや出来ないものである。


このばあい、人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。したがって、類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない。


ここでは人間の頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。


商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝と名づける。それは、労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着するものであって、したがって、商品生産から分離しえないあのである。


商品世界のこの物神的性格は、先に述べた分析がすでに示したように、商品を生産する労働の独特な社会的性格から生ずるのである。


使用対象が一般に商品となるのは、やっぱらそれが相互に相独立して営まれる私的労働の生産物[エンゲルス編、英訳『資本論』では、「私的個人または個人の集団の労個の生産物」となっている。……訳者」であるからである。


これらの私的労働の複合が社会的総労働をなす。生産者たちは、彼らの労働生産物の交換によって、はじめて社会的接触にはいるのであるから、彼らの私的労働の特殊的に社会的なる性格お、この交換の内部においてはじめて現われる。


いい換えると、私的労働は、事実上、交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者たちが置かれる諸関係によって、はじめて社会的総労働の構成分子たることを実証する。

したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのめのとして現われる。


すなわち、彼らの労働自身にする人々の直接に社会的な諸関係としてでなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係として現われるのである。


労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった使用対象性から分離された、社会的に等一なる価値対象性を得るのである。


労働生産物の有用物と価値物とへのこのような分裂は、交換がすでに充分な広さと重要さを得、それによって有用物が交換のために生産され、したがって事物の価値性格が、すでにその生産そのもののうちで考察されるようになるまでは、まだ実際に存在を目だたせるようにはならない。


この瞬間から、生産者たちの私的労働は、事実上、二重の社会的性格を得るのである。これらの私的労働は、一方においては特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そしてこのようにして総労働の、すなわち、社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ。


これらの私的労働は、他方において、生産者たち自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働種と交換されうるかぎりにおいて、したがって、これと等一なるあのとなるかぎりにおいてのみ、充足するのである。 toto coelo(全く)ちがった労働が等しくなるということは、それが現実に不等一であることから抽象されるばあいにのみ、それらの労働が、人間労働力の支出として、抽象的に人間的な労働としてあっている共通な性格に約元されることによってのみ、ありうるのである。


私的生産者の脳髄は、彼らの私的労働のこの二重な社会的性格を、ただ実際の交易の上で、生産物交換の中で現われる形態で、反映するのである。


すなわちーしたがって、彼らの私的労働の社会的に有用なる性格を、労働生産物が有用でなけ ればならず、しかも他人にたいしてそうでなければならぬという形態で―異種の労働の等一性の社会的性格を、これらの物質的にちがった物、すなわち労働生産物の共通な価値性格の形態で、反映するのである。


したがって、人間がその労働生産物を相互に価値として関係させるのは、これらの事物が、彼らにとって同種的な人間的労働の、単に物的な外被であると考えられるからではない。


逆である。彼らは、その各種の生産物を、相互に交換において価値として等しいと置くことによって、そのちがった労働を、相互に人間労働として等しいと置くのである。98ページ1行目


2021年12月5日日曜日

第61回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 94ページ

 第61回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 94ページ


1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密



一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。これを分析して見ると、商品はきわめて気むずかしい物であって、形而上学的小理窟と神学的偏屈にみちたのであることがわかる。


商品を使用価値として見るかぎり、私がこれをいま、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるとか、あるいはこの属性は人間労働の生産物として得るるのであるとかいうような観点のあとに考察しても、これに少しの神秘的なところもない。


人間がその活動によって自然素材の形態を、彼に有用な仕方で変えるということは、真昼のように明らかなことである。


例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作るならば、変化する。それにちかかわらず、机が木であり、普通の感覚的な物であることに変わりない。


しかしながら、机が商品として現われるとなると、感覚的にして超感覚的な物に転化する。


机はもはやその脚で床の上に立つのみでなく、他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から狂想を展開する、それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである。


(二五) シナと机とは、他のすべての世界が静止しているように見えたときに踊りはじめたーpour encourager les autres、

(他の人々を元気づけるために)、ということが想い起こされる。


 だから、商品の神秘的性質はその使用価値から出てくるものではない。それは、同じように価値規定の内容から出てくるのでもない。


なぜかというに、第一に、有用な労働または生産的な活動がどんなにいろいろあるにしても、これが人間有機体の機能であり、かかる機能のおのおのが、その内容その形態の如何にかかわらず、本質的に人間の脳髄と神経と筋肉と感覚器官等の支出であるということは、生理学的真理であるからである。


第二に、価値の大いさの規定の基礎にある旨のは、すなわち、それらの支出の継続時間、または労働の量であるが、この量は、労働の質から紛うかたなく区別できるといってよい。


どんな状態においてる、生活手段の生産に用いられる労働時間は、発展段階のことなるにしたがって均等であるとはいえないが、人間の関心をもたざるをえないのである。最後に、人間がなんらかの仕方でお互いのために労働するようになると、その労働は、また社会的の形態をる得るのである。


(二六) 第二版への注。古代ゲルマン人においては、一モルゲンの土地の大いさは、一日の労働にしたがってはかられた。したがって、一モルゲンは、Tagwerk (Tagwanne〔日仕事の意])はdiurnalis), Mannwerk〔男仕事]、Mannskraft〔男力、Mannsmaad男草地]、Mannshauet〔男刈地]等々と呼ばれた。


ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン マウレル 『マルク、フ圃、村落および都市諸制度ならびに公権の歴史序説』ミュンヘン、一八五四年、一二九ページ以下参照。


それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか? 明らかにこの形態自身からである。


人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をとる。人間労働力支

力出のその継続時間によって示される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態をとるのである。


それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中にあるのである、すなわち、商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として、品 反映するということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をめ、彼らのほかに存する対象の社会的関係として、反映するということである。


 このQuidproquo〔とりちがえ]によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである。


このようにして、ある物の視神経にたいする光印象は、視神経自身の主観的刺激としてでなく、眼の外にある物の対象的形態として示される。しかしながら、視るということにおいては、実際に光がある物から、すなわち外的対象から、他のある物、すなわち眼にたいして投ぜられる。


2021年12月3日金曜日

第60回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 92ページ

 第60回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 92ページ


1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態





貨幣として機能する。商品世界内で一般的等価の役割を演ずることが、この商品の特殊的に社会的な機能となり、したがって、その社会的独占となる。


この特別の地位を、第二形態で亜麻布の特別の等価たる役を演じ、また第三形態でその相対的価値を共通に亜麻布に表現する諸商品のうちで、一定の商品が、歴史的に占有したのである。


すなわち、金である。したがって、われわれが、第三形態において、商品金を商品亜麻布のかわりにおくならば、次のようになる。


D 貨幣形態

亜麻布 20ェレ=


上衣1着=

茶 10ポンド=

コーヒ40ポンド=

                   金2オンス

小麦1クォーター=

鉄1/2トン

A商品x量=


第一形態から第二形態へ、第二形態から第三形態への移行にさいしては、本質的な変化が生じている。これに反して、第四形態は、ただ亜麻布のかわりに、いまや金が一般的等価形態をつに至ったということ以外には、第三形態と少しのことなるところはない。金は第四形態で亜麻布が第三形態であったとおりのもの、すなわち一般的等価にとどまるのである。進歩があるのは次のことだけである、すなわち、直接的な一般的な交換可能性の形態、または一般的な等価形態が、いまや社会的習慣によって、終局的に商品金の特殊な自然形態と合生してしまったということである。


金が他の商品にたいして貨幣としてのみ相対するのは、金がすでに以前に、それらにたいして商品として相対したからである。


すべての他の商品と同じように、金も、個々の交換行為において個別的の等価としてであれ、他の商品等価と並んで特別の等価としてであれ、とにかく等価として機能した。


しだいに金は、あるいは比較的狭い、あるいは比較的広い範囲で一般的等価として機能した。金が、商品世界の価値表現で、この地位の独占を奪うことになってしまうと、それは貨幣商品となる。


そして金がすでに貨幣商品となった瞬間に、やっと第四形態が第三形態と区別される。いい換えると一般的価値形態は貨幣形態に転化される。


すでに貨幣商品として機能する商品、例えば金における、一商品、例えば亜麻布の、単純な相対的価値表現は価格形態である。亜麻布の「価格形態」はしたがって、


亜麻布 20 エレ=金2オンス


または、もしニオンスの金の鋳貨名が、二ポンド・スターリングであるならば、

亜麻布 20 エレ=2 ポンド・スターリング

である。


貨幣形態という概念の困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態なるものの、すなわち、第三形態の理解に限られている。


第三形態は、関係を逆にして第二形態に、すなわち、拡大された価値形態に解消する。


そしてその構成的要素は第一形態である。すなわち 亜麻布 20 エレ =上衣1着または A商品 x量=B商品y量である。

したがって、単純なる商品形態は貨幣形態の萌芽である。93ページ末


2021年12月2日木曜日

第59回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 90ページ

 第59回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 90ページ


1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行


 あるときは相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。このばあいにおいては、なお両極的対立を固着せしめるのに骨が折れる。


 第二の形態では、依然としてまだ各商品種ごとに、その相対的価値を全体として拡大しうるのみである。言葉をかえていえば、各商品種自身は、すべての他の商品がこれにたいして等価形態にあるから、そしてそのかぎりにおいて、拡大せる相対的価値形態をやっているにすぎないのである。


このばあいにおいては、もはや価値方程式 ―亜麻布 20エレ=上衣1着または =茶 10ポンドまたは =小麦1クォーター等々ーの両項を移し替えると、その総性格は変更し、これを総体的価値形態から一般的価値形態に転換させてしまうほかはないことになる。


最後の形態である第三形態は、ついに商品世界にたいして一般的社会的な相対的価値形態を与える、それは、唯一の例外を除いて、この世界に属するすべての商品が一般的等価形態から排除されるからであり、またそのかぎりにおいてである。


ある商品、すなわち亜麻布は、したがって、他のすべての商品と直接的な交換可能性の形態に、あるいは直接的に社会的な形態にある。


というのは、他の一切の商品がこの形態をとっていないからであり、また、そのかぎりにおいてである。(二四)


(二四) 人は、一般的な直接的な交換可能性の形態について、その形態が対立的な商品形態であって、直接的な交換可能性でない形態から、一つの電極の陽性が の極の陰性にたいすると同じように、分離しえないものであることを、 事実上すこし見ようとしない。


したがって、すべての商品に、同時に直接的交換可能性の刻印を押しつけることができるという風に、妄想を描いているようである。

 ちょうどあらゆるカトリック信者を、教皇にすることができると思いこんでいる人があるように。商品生産に人間の自由と個人の独立の nec plus ultra(絶頂)を見る小市民にとっては、この形態に結びつけられている不都合を、ことに商品の直接に交換可能でないということを、除くことは、むろんきわめて願わしいことであろう。


この俗人的空想境の色どりを示しているのは、プルードン の社会主義である。それは、私が他の所で示したように、独創という功績すらもっていないないのであって、彼よりずっと以前にグレーやブレイその他の人々によって、はるかにうまく展開されたのである。


このことは、このようなこざかしさが、今日ある仲間で「科学」の名で流行するというようなことをさまたげないのである。プルードン学派ほどに、「科学」という言葉を乱用した学派はかってなかった。なぜかというに、


「ちょうど概念のない所へ


詞が猶予なく差し出ているのだ」[ゲーテ『ファウスト』第一部、一九九五、森林太郎訳による]から。


逆に、一般的等価という役割を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態から排除される。


亜麻布が、すなわち、一般的等価形態にあるなんらかのある商品が、同時に一般的相対的価値形態になるとすれば、その商品は、自分自身にたいして等価としてつかえるということにならなければなるまい。


そうすると、

われわれは、亜麻布 20 エレ=亜麻布 20エレ という式を得ることになる。これは内容のない繰り返しであって、そこには価値を価値の大いきや表現されてはいない。


一般的等価の相対的価値を表現するためには、われわれはむしろ第三形態を引っくり返さなければならない。


一般的等価は、他の商品と共同の相対的価値形態をやってはいないのであって、その価値は、すべての他の商品体の無限の序列の中に相対的に表現されるのである。


このようにして、いまでは拡大せる相対的の価値形態または第二形態は、等価商品の特殊的な相対的価値形態として現われる。


三一般的価値形態から貨幣形態への移行


一般的等価形態は価値一般の形態である。したがって、それは、どの商品にも与えられることができる。他方において一商品は、それが他のすべての商品によって等価として除外されるために、そしてそのかぎりにおいてのみ、一般的な等価形態(第三形態)にあるのである。


そして、この除外が、終局的にある特殊な商品種に限定される瞬間から、初めて商品世界の統一的相対的価値形態が、客観的固定性と一般的に社会的な通用性とを得たのである。

そこでこの特殊なる商品種は、等価形態がその自然形態と社会的に合生するに至って、貨幣商品となり、または貨弊として機能する。92ページ1行目


2021年12月1日水曜日

第58回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 88ページ

 第58回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 88ページ

 


B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係


 他の諸商品は、先の一商品にたいして等価形態という単なる受動的の役割を演ずるのである。これに反して一般的価値形態は、商品世界の共通の仕事としてのみ成立するのである。


一商品が一般的価値表現を得るのは、ただ、同時に他のすべての商品がその価値を同一等価で表現するからである。そして新たに現われるあらゆる商品種は、これを真似なければならない。


このことによって、こういうことがはっきりとしてくる、すなわち、諸商品の価値対象性も

それがこれら諸物の単なる「社会的存在」であるのであるから、その全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって、その価値形態は、社会的に妥当する形態でなければならないということである。


 亜麻布に等しいものの形態において、いまではあらゆる商品が、ただに質的に等しいあの、すなわち価値一般としてだけでなく、同時に量的に比較しうる価値の大いさとして現われる。


すべての商品が、その価値の大いさを同一材料で、亜麻布で写し出すのであるから、これらの価値の大いさは、交互に反映し合うのである。例えば茶 10 ポンド=亜麻布20エレ、更にコーヒー40ポンド=亜麻布20エレしたがって、茶10 ポンド=コーヒー40 ポンド というよ

うにである。あるいは一封度のコーヒーには、ただ一封度の茶におけるものの1/4 だけの価値実体、すなわち、労働が含まれているというようにである。


 商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。


亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的な社会的な蛹化(ようか)としてのはたらきをなす。

機織という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、すなわち、他のすべての労働との等一性の形態にあるのである。


一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのもの一般的な現象形態にするのである。


このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、たんに否定的に表示されるだけではない。


それ自身の肯定的性質が明白に現われるのである。それは、すべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働力の支出に、約元したものなのである。


 労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物として表示する一般的価値形態は、それ自身の組み立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。


このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示するのである。


二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

 相対的価値形態の発展程度に、等価形態の発展程度が応ずる。しかしながら、そしてこのことはよく銘記されなければならぬのであるが、等価形態の発展は相対的価値形態の発展の表現であり、結果であるにすぎない。


ある商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的な等価にする。相対的価値の拡大された形態、一商品の価値の他のすべての商品におけるこのような表現は、これらの商品に各種の特別な等価の形態を刻印する。


最後に、ある特別な商品種が一般的等価形態を得る。というのは、他のすべての商品が、これを自分たちの 統一的一般的な価値形態の材料にするからである。


 しかしながら、価値形態一般が発展すると同じ程度で、その二つの極たる相対的価値形態と等価形態の間の対立もまた発展する。


すでに第一の形態―亜麻布 20 エレ=上衣1着1がこの対立を含んでいる。しかしまだ固定してはいない。同じ方程式が順に読まれるか、逆に読まれるかにしたがって、亜麻布と上衣というような両商品極のおのおのが、同じというように、ある相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。90ページ1行目


2021年11月30日火曜日

第57回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 86ページ

 第57回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 86ページ

 


B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格



上衣1着=

茶 10ポンド=

コーヒ - 40 封度=|

小麦1クォーター =

金2オンス =             亜麻布 20 エレ

鉄 1/2トン=

A商品x量=-

その他の商品量=


1 価値形態の変化した性格

諸商品は、その価値をいまでは第一に、唯一の商品で示しているのであるから、単純に表わしていることになる。

また第二に、同一商品によって示しているのであるから、統一的に表わしていることになる。それら商品の価値形態は、単純で共同的であり、したがって一般的である。


第一および第二の形態は、二つとめ、一商品の価値を、その商品自身の使用価値、またはその商品体から区別したあるのとして表現するために、生じたものにすぎなかった。


第一の形態は、上衣1着=亜麻布20 エレ, 茶 10 ポンド=鉄1/2 トン 等々というような価値方程式を作り出した。上衣価値は亜麻布に等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というような風に表現される。


しかしながら、亜麻布に等しいのと鉄に等しいもの、このような上衣び茶の価値表現は、亜麻布と鉄とがちがっているのと同じょうにちがっている。


この形態が明瞭に実際に現われるのは、ただ、労働生産物が、偶然的な、そして時折りの交

換によって商品に転化されるような、そもそも端緒においてである。

第二の形態は、第一のそれより完全に、一商品の価値を、それ自身の使用価値から区別する。なぜかというに、例えば上衣の価値は、ここではその自然形態に、あらゆる可能な形態で、例えば亜麻布に等しいものとして、鉄に等しいもの、茶に等しいもの等として、すなわちただ上衣に等しいのでないだけで、他の一切のちのに等しいものとして、相対するからである。


他方において、ここには商品のあらゆる共通な価値表現は、ただちに出来なくされている。

なぜかというに、ここでは一商品ごとに価値表現を行なって、すべての他の商品は、ただ等価の形態で現われるにすぎないからである。


ある労働生産物、例えば家畜がもはや例外的にでなく、すでに習慣的に各種の他の商品と交換されるようになると、まず拡大された価値形態が、事実上出現するのである。


新たに得られた形態は、商品世界の諸価値を、同一なる、この世界から分離された商品種で表現する。例えば亜麻布で。そしてすべての商品の価値を、かくて、その亜麻布と等しいということで示すのである。


亜麻布に等しいものとして、あらゆる商品の価値は、いまやただそれ自身の使用価値から区別されるだけでなく、一切の使用価値から区別されるのである。


そしてまさにこのことによって、この商品とあらゆる商品とに共通なるあのとして表現される。


 したがって、この形態にいたって初めて現実に、商品を価値として相互に相関係させ、またはこれらを相互に交換価値として現われさせるようになる。


 先の二つの形態は、商品の価値を唯一の異種の商品をおってするばあいと、この商品とことなる多くの商品の序列をやってするばあいとの異いはあるが、いずれにして一商品ごとに表現するのである。


両場合ともに、価値形態を与えられるのは、個々の商品のいわば私事である。そして個々の商品は他の商品の協力なしに、このことをなすのである。88ページ1行目


2021年11月29日月曜日

第56回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 84ページ

 第56回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 84ページ

 


四 単純な価値形態の総体

B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥


偶然の事実であるからしれない。これに反して、第二の形態では直ちに、偶然の現象と本質的に区別され、かつこれを規定する背景が、露われている。


亜麻布の価値は、上衣で示されようと、コーヒーや鉄等々で示されようと、種々雑多な所有者に属する無数にちがった商品で示されようと、同じ大いさである。


二人の個人的な商品所有者の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大いさを規制するのでなく、逆に商品の価値の大いさが、その交換比率を規制するのであるということは、明瞭となっている。


ニ特別な等価形態


上衣、茶、小麦、鉄等々というような商品は、それぞれ亜麻布の価値表現においては、等価として、したがってまた価値体として働いている。


これらの商品のおのおのの特定なる自然形態は、いまでは多くの他の商品とならんで、一つの特別な等価形態である。同じように、各種の商品体に含まれている特定の具体的な有用な多種多様の労働種は、いまではそれと同じ数だけ、無差別の人間労働を、特別な実現形態または現象形態で示すことになっている。


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになって終わらないからである。


一つの価値方程式が、他のそれを、それからそれとつないでいく連鎖は、引きつづいてつねに、新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たに現われる商品種によって引き延ばされる。


第二に、それは崩壊しがちな雑多な種類

の価値表現の色とりどりの寄木細工をなしている。最後に、あらゆる商品の相対的価値は、この拡大された形態で表現されざるをえないのであるが、そうなると、あらゆる商品の相対的価値形態は、すべての他の商品の相対的価値形態とちがった無限の価値表現の序列である。


―拡大された相対的価値形態の欠陥は、これに相応する等価形態に反映する。すべての個々の商品種の自然形態は、ここでは無数の他の特別な等価形態とならんで、一つの特別な等価形態であるのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけであって、その中のおのおのは他を排除するのである。


これと同じように、すべての特別な商品等価に含まれている特定の具体的な有用労働種は、ただ人間労働の特別な、したがって十全でない現象形態である。


人間労働は、その完全な、または総体的な現象形態を、かの特別な現象形態の総体的広がりの中にあってはいるが、なんら統一的の現象形態をもたない。

だが、拡大された相対的価値形態は、ただ単純な相対的価値表現、または第一形態の諸方程式の総和から成っているだけである。例えば


亜麻布 20 エレ=上衣1着

亜麻布 20 エレー茶10度等々


これらの諸方程式のおのおのは、だが、両項を逆にしてる同じ方程式である、


上衣1着=亜麻布 20 エレ

茶 10 封度=亜麻布 20 エレ等々


 実際上、一人の男がその亜麻布を多くの他の商品と交換し、したがってその価値を、一連の他の商品の中に表現するとすれば、必然的に多くの他の商品所有者また、その商品を亜麻布と交換し、したがって、彼らの種々の商品の品 価値を同一の第三の商品、すなわち、亜麻布で表現しなければならぬ。


―かくて、もしわれわれが、亜麻布 20 エレ=上衣1着 =茶10 ぽんどまたは = その他というような序列を逆にするならば、すなわち、われわれが、

実際にはすでに序列の中に含まれていた逆関係を表現するならば、次のようになる。

85ページ末


2021年11月28日日曜日

第55回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 82ページ

 第55回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 82ページ

 

b 相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態

四 単純な価値形態の総体

B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態



一商品の個々の等価形態が対応している。だから、上衣は亜麻布の相対的価値表現においては、この個々の商品種たる亜麻布と関連して、等価形態、または直接的交換可能性の形態を有するのみである。


だが、個々の価値形態はおのずから、より完全な形態に移行する。この単純な形態によっては、一商品Aの価値は、ただ一つの他の種の商品に表現されるのではあるが、この第二の商品が、どんな種類の色のか、上衣か、鉄か、小麦その他の何か、というようなことは、全くどうでよいのである。


したがって、この商品がある商品種と価値関係にはいるか、それとら他の商品種と価値関係にはいるかによって、それぞれ同一商品のちがった単純な価値表現が成立する。


それらの可能な価値表現の数は、ただそれぞれちがった商品種の数によって制限されるのみである。


したがって、その商品の個別的な価値表現は、そのそれぞれちがった単純な価値表現の、いくらでも延長されうる列に転化されるのである。


(二二a) 第二版への注。例えば、ホメロスにあっては、一物の価値は、それぞれちがった物の列として表現されている。


B 総体的または拡大せる価値形態

z量商品A=u量商品B または =v量商品C または =w量商品D または =x量商品 E または =その他(亜麻布 20 エレ=上衣1着 または =茶 10 封度 または =コーヒ 40 封度 または =小麦1クォーター または=金2オンス または =鉄 1/2 トン または =その他)


1 拡大された相対的価値形態


一商品、例えば、亜麻布の価値は、いまでは商品世界の無数の他の成素に表現される。すべての他の商品体は亜麻布価値の反射鏡となる。


こうしてこの価値自身は、はじめて真実に無差別な人間労働の凝結物として現われる。


なぜかというに、価値を形成する労働は、いまや明瞭に、一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働として、表わされており、その労働がどんな自然形態をやっていようと、したがって、それが上衣に対象化せられようと、小麦や鉄または金等々に対象化せられようと、これを問わないからである。


したがって、いまや亜麻布は、その価値形態によって、もはやただ一つの個々の他の商品種と社会関係にあるだけでなく、商品世界と社会関係に立っているのである。


それは、商品としてこの世界の市民なのである。同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、その特別の形態にたいして、無関心であることになるわけである。


(二三) それゆえに、人は亜麻布の価値が上衣で示されるばあいには、亜麻布の上衣価値について語り、これを穀物で示すばあいには、その穀物価値について語ることになる、等々。上衣、穀物等々の使用価値に現われるのが、亜麻布の価値であるということを、すべてこのような表現は言っていることになる。


「あらゆる商品の価値は、〔なんらか他の商品との、……訳者]交換

におけるその比率を示すのであるから、われわれは価値について、その商品が比較される商品にしたがって、それぞれ穀物価値、 布価値. という風に語ることができるわけである。


したがってまた、それぞれちがった数千の価値種があり 商品のあるかぎり、これと同じ数の価値がある そしてすべての価値が、同じように真実であり、また同じように名目的である」(『価値の性質、尺度および原因にかんする批判的一論考、主としてリカード氏とその追随者たちの著作に関連して。


所信の形成と公表にかんする諸論の著者による』ロンドン、一八二五年、三九ページ[鈴木鴻一郎訳『リカアド価値論の批判』日本評論社、世界古典文庫、五四ページ])。S・ベイリーが、当時イギリスで大さわぎをひき起こしたこの匿名の著作の著者であるが、彼は、

このように同一商品価値の相対的表現の乱雑さを指摘することによって、価値の一切の概念規定を破壊したと妄信している。


だが、彼自身の偏狭固際に的かかわらず、リカードの理論の痛い所を探り当てていたということを、リカード学派の彼を攻撃した激昂が証明した。


例えば『ウェストミンスタ ・レヴュー』所載。亜麻布20 エレ =上衣1着という第一の形態においては、これら二つの商品は、一定の容積比率で交換されるということは、偶然の事実であるかもしれない。これに反して第2の形態では直ちに偶然の現象と本質的に区別され、且つこれを規定する背景があらわれている。84ページ2行目 


2021年11月26日金曜日

第54回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 80ページ

 第54回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 80ページ

二 相対的価値形態

a 相対的価値形態の内実 

b 相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態

四 単純な価値形態の総体



でいえば、ある商品の価値は、「交換価値」として現示されることによって、独立的に表現されている。この章のはじめに、普通に行なわれているようにべ商品は使用価値であり、また交換価値であるといったのであるが、このことは、正確にいえば誤りであった。


商品は使用価値または使用対象であり、また「価値」である。商品は、その価値が、そ

での自然形態とちがった独自の現象形態、すなわち交換価値という現象形態をとるととめに、ただちに本来の性質であるこのような二重性として示される。


そして商品は、この形態を、決して孤立して考察するばあいにやっているのでなく、つねに第二の異種の商品にたいする価値関係、または交換関係においてのみ、もっているのである。


だが、このことを知ってさえいれば、先の言い方は無害であって、簡略にするに役立つのである。われわれの分析の証明するところによれば、商品の価値形態、またはその価値表現は、商品価値の本性から出てくるので、逆に価値や価値の大いさが、交換価値としてのその表現様式から出てくるものではない。


だが、このことは、重商学派とフェリエやガニール等のような、その近代の蒸し返し屋たちの妄想であるととめに、またその対立者であるバスティアとその一派のような、近代自由貿易の外交員たちのそれでもある。


重商学派は重点を、価値表現の質的側面に、したがって、貨幣として完成された姿になる商品の等価形態に置いている―これに反して、近代自由貿易外交員たちは、その商品を、どんなにして売り払わなければならないので、重点を相対的価値形態の量的側面においている。


したがって、彼らにとっては商品の価値も価値の大いさも、交換関係を通した表現以外には存しないし、したがってただその日その日の時価表の中だけに存するのである。


スコットランド人のマクラウドは、ロンバート・ストリートのもうろうたる観念を、できるだけ博学にめかし立てることを仕事にしているが、迷信的な重商学派と啓蒙された自由貿易外交員との間をうまくまとめている。


(二二) 第二版への注。F・L・A・フェリエ(副関税検察官)、『商業にたいする関係から見た政府の考察』パリ、一八〇五年、およびシャルル・ガニイ『経済学体系』第二版、パリ、一八二一年。商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を、くわしく考察すると、その内部において、商品Aの自然形態は、ただ使用価値の姿としてのみ、商品Bの自然形態は、ただ価値形態また価値の姿としてのみはたらいていることが明らかになった。


それゆえに、商品の中に包みこまれている使用価値と価値の内的対立は、1つの外的対立によって、すなわち、1つの商品の関係によって示されている。この関係において、価値が表現さるべき一方の商品は、直接にただ使用価値としてのみ、これにたいして身をおって価値を表現する他方の商品は、直接にただ交換価値としてのみ、働いている。


それゆえに、ある商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態である。


労働生産物は、どんな社会状態においてち使用対象である。しかし、ただある歴史的に規定された発展段階のみが、一つの使用物の生産に支出された労働を、そのおのの「対象的」属性として、すなわち、その価値として表わすのであって、この発展段階が、労働生産物を商品に転化するのである。


したがって、このことから、商品の単純なる価値形態は、同時に労働生産物の単純なる商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展や価値形態の発展と一致するという結果になる。


一見すれば、すぐ単純な価値形態の不充分さがわかる。この形態は、一連の変態をへて、やっと価格形態に成熟してくる萌芽形態なのである。


なんらかの一商品Bにおける表現は、商品Aの価値を、ただそれ自身の使用価値から区別するのみであって、したがって、この商品を、ただそれ自身とちがった個々の商品種の何かにたいする交換関係に置くのみであって、他の一切の商品との質的等一性と量的比率とを示すものではないのである。

ある商品の単純なる相対的価値形態には、1商品個々の商品の等価形態が対応している。 

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