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2021年12月5日日曜日

第61回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 94ページ

 第61回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 94ページ


1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態

第四節商品の物神的性格とその秘密



一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。これを分析して見ると、商品はきわめて気むずかしい物であって、形而上学的小理窟と神学的偏屈にみちたのであることがわかる。


商品を使用価値として見るかぎり、私がこれをいま、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるとか、あるいはこの属性は人間労働の生産物として得るるのであるとかいうような観点のあとに考察しても、これに少しの神秘的なところもない。


人間がその活動によって自然素材の形態を、彼に有用な仕方で変えるということは、真昼のように明らかなことである。


例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作るならば、変化する。それにちかかわらず、机が木であり、普通の感覚的な物であることに変わりない。


しかしながら、机が商品として現われるとなると、感覚的にして超感覚的な物に転化する。


机はもはやその脚で床の上に立つのみでなく、他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から狂想を展開する、それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである。


(二五) シナと机とは、他のすべての世界が静止しているように見えたときに踊りはじめたーpour encourager les autres、

(他の人々を元気づけるために)、ということが想い起こされる。


 だから、商品の神秘的性質はその使用価値から出てくるものではない。それは、同じように価値規定の内容から出てくるのでもない。


なぜかというに、第一に、有用な労働または生産的な活動がどんなにいろいろあるにしても、これが人間有機体の機能であり、かかる機能のおのおのが、その内容その形態の如何にかかわらず、本質的に人間の脳髄と神経と筋肉と感覚器官等の支出であるということは、生理学的真理であるからである。


第二に、価値の大いさの規定の基礎にある旨のは、すなわち、それらの支出の継続時間、または労働の量であるが、この量は、労働の質から紛うかたなく区別できるといってよい。


どんな状態においてる、生活手段の生産に用いられる労働時間は、発展段階のことなるにしたがって均等であるとはいえないが、人間の関心をもたざるをえないのである。最後に、人間がなんらかの仕方でお互いのために労働するようになると、その労働は、また社会的の形態をる得るのである。


(二六) 第二版への注。古代ゲルマン人においては、一モルゲンの土地の大いさは、一日の労働にしたがってはかられた。したがって、一モルゲンは、Tagwerk (Tagwanne〔日仕事の意])はdiurnalis), Mannwerk〔男仕事]、Mannskraft〔男力、Mannsmaad男草地]、Mannshauet〔男刈地]等々と呼ばれた。


ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン マウレル 『マルク、フ圃、村落および都市諸制度ならびに公権の歴史序説』ミュンヘン、一八五四年、一二九ページ以下参照。


それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか? 明らかにこの形態自身からである。


人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をとる。人間労働力支

力出のその継続時間によって示される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態をとるのである。


それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中にあるのである、すなわち、商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として、品 反映するということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をめ、彼らのほかに存する対象の社会的関係として、反映するということである。


 このQuidproquo〔とりちがえ]によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである。


このようにして、ある物の視神経にたいする光印象は、視神経自身の主観的刺激としてでなく、眼の外にある物の対象的形態として示される。しかしながら、視るということにおいては、実際に光がある物から、すなわち外的対象から、他のある物、すなわち眼にたいして投ぜられる。


2021年12月3日金曜日

第60回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 92ページ

 第60回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 92ページ


1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行

D 貨幣形態





貨幣として機能する。商品世界内で一般的等価の役割を演ずることが、この商品の特殊的に社会的な機能となり、したがって、その社会的独占となる。


この特別の地位を、第二形態で亜麻布の特別の等価たる役を演じ、また第三形態でその相対的価値を共通に亜麻布に表現する諸商品のうちで、一定の商品が、歴史的に占有したのである。


すなわち、金である。したがって、われわれが、第三形態において、商品金を商品亜麻布のかわりにおくならば、次のようになる。


D 貨幣形態

亜麻布 20ェレ=


上衣1着=

茶 10ポンド=

コーヒ40ポンド=

                   金2オンス

小麦1クォーター=

鉄1/2トン

A商品x量=


第一形態から第二形態へ、第二形態から第三形態への移行にさいしては、本質的な変化が生じている。これに反して、第四形態は、ただ亜麻布のかわりに、いまや金が一般的等価形態をつに至ったということ以外には、第三形態と少しのことなるところはない。金は第四形態で亜麻布が第三形態であったとおりのもの、すなわち一般的等価にとどまるのである。進歩があるのは次のことだけである、すなわち、直接的な一般的な交換可能性の形態、または一般的な等価形態が、いまや社会的習慣によって、終局的に商品金の特殊な自然形態と合生してしまったということである。


金が他の商品にたいして貨幣としてのみ相対するのは、金がすでに以前に、それらにたいして商品として相対したからである。


すべての他の商品と同じように、金も、個々の交換行為において個別的の等価としてであれ、他の商品等価と並んで特別の等価としてであれ、とにかく等価として機能した。


しだいに金は、あるいは比較的狭い、あるいは比較的広い範囲で一般的等価として機能した。金が、商品世界の価値表現で、この地位の独占を奪うことになってしまうと、それは貨幣商品となる。


そして金がすでに貨幣商品となった瞬間に、やっと第四形態が第三形態と区別される。いい換えると一般的価値形態は貨幣形態に転化される。


すでに貨幣商品として機能する商品、例えば金における、一商品、例えば亜麻布の、単純な相対的価値表現は価格形態である。亜麻布の「価格形態」はしたがって、


亜麻布 20 エレ=金2オンス


または、もしニオンスの金の鋳貨名が、二ポンド・スターリングであるならば、

亜麻布 20 エレ=2 ポンド・スターリング

である。


貨幣形態という概念の困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態なるものの、すなわち、第三形態の理解に限られている。


第三形態は、関係を逆にして第二形態に、すなわち、拡大された価値形態に解消する。


そしてその構成的要素は第一形態である。すなわち 亜麻布 20 エレ =上衣1着または A商品 x量=B商品y量である。

したがって、単純なる商品形態は貨幣形態の萌芽である。93ページ末


2021年12月2日木曜日

第59回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 90ページ

 第59回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 90ページ


1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

三一般的価値形態から貨幣形態への移行


 あるときは相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。このばあいにおいては、なお両極的対立を固着せしめるのに骨が折れる。


 第二の形態では、依然としてまだ各商品種ごとに、その相対的価値を全体として拡大しうるのみである。言葉をかえていえば、各商品種自身は、すべての他の商品がこれにたいして等価形態にあるから、そしてそのかぎりにおいて、拡大せる相対的価値形態をやっているにすぎないのである。


このばあいにおいては、もはや価値方程式 ―亜麻布 20エレ=上衣1着または =茶 10ポンドまたは =小麦1クォーター等々ーの両項を移し替えると、その総性格は変更し、これを総体的価値形態から一般的価値形態に転換させてしまうほかはないことになる。


最後の形態である第三形態は、ついに商品世界にたいして一般的社会的な相対的価値形態を与える、それは、唯一の例外を除いて、この世界に属するすべての商品が一般的等価形態から排除されるからであり、またそのかぎりにおいてである。


ある商品、すなわち亜麻布は、したがって、他のすべての商品と直接的な交換可能性の形態に、あるいは直接的に社会的な形態にある。


というのは、他の一切の商品がこの形態をとっていないからであり、また、そのかぎりにおいてである。(二四)


(二四) 人は、一般的な直接的な交換可能性の形態について、その形態が対立的な商品形態であって、直接的な交換可能性でない形態から、一つの電極の陽性が の極の陰性にたいすると同じように、分離しえないものであることを、 事実上すこし見ようとしない。


したがって、すべての商品に、同時に直接的交換可能性の刻印を押しつけることができるという風に、妄想を描いているようである。

 ちょうどあらゆるカトリック信者を、教皇にすることができると思いこんでいる人があるように。商品生産に人間の自由と個人の独立の nec plus ultra(絶頂)を見る小市民にとっては、この形態に結びつけられている不都合を、ことに商品の直接に交換可能でないということを、除くことは、むろんきわめて願わしいことであろう。


この俗人的空想境の色どりを示しているのは、プルードン の社会主義である。それは、私が他の所で示したように、独創という功績すらもっていないないのであって、彼よりずっと以前にグレーやブレイその他の人々によって、はるかにうまく展開されたのである。


このことは、このようなこざかしさが、今日ある仲間で「科学」の名で流行するというようなことをさまたげないのである。プルードン学派ほどに、「科学」という言葉を乱用した学派はかってなかった。なぜかというに、


「ちょうど概念のない所へ


詞が猶予なく差し出ているのだ」[ゲーテ『ファウスト』第一部、一九九五、森林太郎訳による]から。


逆に、一般的等価という役割を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態から排除される。


亜麻布が、すなわち、一般的等価形態にあるなんらかのある商品が、同時に一般的相対的価値形態になるとすれば、その商品は、自分自身にたいして等価としてつかえるということにならなければなるまい。


そうすると、

われわれは、亜麻布 20 エレ=亜麻布 20エレ という式を得ることになる。これは内容のない繰り返しであって、そこには価値を価値の大いきや表現されてはいない。


一般的等価の相対的価値を表現するためには、われわれはむしろ第三形態を引っくり返さなければならない。


一般的等価は、他の商品と共同の相対的価値形態をやってはいないのであって、その価値は、すべての他の商品体の無限の序列の中に相対的に表現されるのである。


このようにして、いまでは拡大せる相対的の価値形態または第二形態は、等価商品の特殊的な相対的価値形態として現われる。


三一般的価値形態から貨幣形態への移行


一般的等価形態は価値一般の形態である。したがって、それは、どの商品にも与えられることができる。他方において一商品は、それが他のすべての商品によって等価として除外されるために、そしてそのかぎりにおいてのみ、一般的な等価形態(第三形態)にあるのである。


そして、この除外が、終局的にある特殊な商品種に限定される瞬間から、初めて商品世界の統一的相対的価値形態が、客観的固定性と一般的に社会的な通用性とを得たのである。

そこでこの特殊なる商品種は、等価形態がその自然形態と社会的に合生するに至って、貨幣商品となり、または貨弊として機能する。92ページ1行目


2021年12月1日水曜日

第58回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 88ページ

 第58回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 88ページ

 


B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係


 他の諸商品は、先の一商品にたいして等価形態という単なる受動的の役割を演ずるのである。これに反して一般的価値形態は、商品世界の共通の仕事としてのみ成立するのである。


一商品が一般的価値表現を得るのは、ただ、同時に他のすべての商品がその価値を同一等価で表現するからである。そして新たに現われるあらゆる商品種は、これを真似なければならない。


このことによって、こういうことがはっきりとしてくる、すなわち、諸商品の価値対象性も

それがこれら諸物の単なる「社会的存在」であるのであるから、その全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって、その価値形態は、社会的に妥当する形態でなければならないということである。


 亜麻布に等しいものの形態において、いまではあらゆる商品が、ただに質的に等しいあの、すなわち価値一般としてだけでなく、同時に量的に比較しうる価値の大いさとして現われる。


すべての商品が、その価値の大いさを同一材料で、亜麻布で写し出すのであるから、これらの価値の大いさは、交互に反映し合うのである。例えば茶 10 ポンド=亜麻布20エレ、更にコーヒー40ポンド=亜麻布20エレしたがって、茶10 ポンド=コーヒー40 ポンド というよ

うにである。あるいは一封度のコーヒーには、ただ一封度の茶におけるものの1/4 だけの価値実体、すなわち、労働が含まれているというようにである。


 商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。


亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的な社会的な蛹化(ようか)としてのはたらきをなす。

機織という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、すなわち、他のすべての労働との等一性の形態にあるのである。


一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのもの一般的な現象形態にするのである。


このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、たんに否定的に表示されるだけではない。


それ自身の肯定的性質が明白に現われるのである。それは、すべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働力の支出に、約元したものなのである。


 労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物として表示する一般的価値形態は、それ自身の組み立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。


このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示するのである。


二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

 相対的価値形態の発展程度に、等価形態の発展程度が応ずる。しかしながら、そしてこのことはよく銘記されなければならぬのであるが、等価形態の発展は相対的価値形態の発展の表現であり、結果であるにすぎない。


ある商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的な等価にする。相対的価値の拡大された形態、一商品の価値の他のすべての商品におけるこのような表現は、これらの商品に各種の特別な等価の形態を刻印する。


最後に、ある特別な商品種が一般的等価形態を得る。というのは、他のすべての商品が、これを自分たちの 統一的一般的な価値形態の材料にするからである。


 しかしながら、価値形態一般が発展すると同じ程度で、その二つの極たる相対的価値形態と等価形態の間の対立もまた発展する。


すでに第一の形態―亜麻布 20 エレ=上衣1着1がこの対立を含んでいる。しかしまだ固定してはいない。同じ方程式が順に読まれるか、逆に読まれるかにしたがって、亜麻布と上衣というような両商品極のおのおのが、同じというように、ある相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。90ページ1行目


2021年11月30日火曜日

第57回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 86ページ

 第57回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 86ページ

 


B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格



上衣1着=

茶 10ポンド=

コーヒ - 40 封度=|

小麦1クォーター =

金2オンス =             亜麻布 20 エレ

鉄 1/2トン=

A商品x量=-

その他の商品量=


1 価値形態の変化した性格

諸商品は、その価値をいまでは第一に、唯一の商品で示しているのであるから、単純に表わしていることになる。

また第二に、同一商品によって示しているのであるから、統一的に表わしていることになる。それら商品の価値形態は、単純で共同的であり、したがって一般的である。


第一および第二の形態は、二つとめ、一商品の価値を、その商品自身の使用価値、またはその商品体から区別したあるのとして表現するために、生じたものにすぎなかった。


第一の形態は、上衣1着=亜麻布20 エレ, 茶 10 ポンド=鉄1/2 トン 等々というような価値方程式を作り出した。上衣価値は亜麻布に等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というような風に表現される。


しかしながら、亜麻布に等しいのと鉄に等しいもの、このような上衣び茶の価値表現は、亜麻布と鉄とがちがっているのと同じょうにちがっている。


この形態が明瞭に実際に現われるのは、ただ、労働生産物が、偶然的な、そして時折りの交

換によって商品に転化されるような、そもそも端緒においてである。

第二の形態は、第一のそれより完全に、一商品の価値を、それ自身の使用価値から区別する。なぜかというに、例えば上衣の価値は、ここではその自然形態に、あらゆる可能な形態で、例えば亜麻布に等しいものとして、鉄に等しいもの、茶に等しいもの等として、すなわちただ上衣に等しいのでないだけで、他の一切のちのに等しいものとして、相対するからである。


他方において、ここには商品のあらゆる共通な価値表現は、ただちに出来なくされている。

なぜかというに、ここでは一商品ごとに価値表現を行なって、すべての他の商品は、ただ等価の形態で現われるにすぎないからである。


ある労働生産物、例えば家畜がもはや例外的にでなく、すでに習慣的に各種の他の商品と交換されるようになると、まず拡大された価値形態が、事実上出現するのである。


新たに得られた形態は、商品世界の諸価値を、同一なる、この世界から分離された商品種で表現する。例えば亜麻布で。そしてすべての商品の価値を、かくて、その亜麻布と等しいということで示すのである。


亜麻布に等しいものとして、あらゆる商品の価値は、いまやただそれ自身の使用価値から区別されるだけでなく、一切の使用価値から区別されるのである。


そしてまさにこのことによって、この商品とあらゆる商品とに共通なるあのとして表現される。


 したがって、この形態にいたって初めて現実に、商品を価値として相互に相関係させ、またはこれらを相互に交換価値として現われさせるようになる。


 先の二つの形態は、商品の価値を唯一の異種の商品をおってするばあいと、この商品とことなる多くの商品の序列をやってするばあいとの異いはあるが、いずれにして一商品ごとに表現するのである。


両場合ともに、価値形態を与えられるのは、個々の商品のいわば私事である。そして個々の商品は他の商品の協力なしに、このことをなすのである。88ページ1行目


2021年11月29日月曜日

第56回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 84ページ

 第56回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 84ページ

 


四 単純な価値形態の総体

B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥


偶然の事実であるからしれない。これに反して、第二の形態では直ちに、偶然の現象と本質的に区別され、かつこれを規定する背景が、露われている。


亜麻布の価値は、上衣で示されようと、コーヒーや鉄等々で示されようと、種々雑多な所有者に属する無数にちがった商品で示されようと、同じ大いさである。


二人の個人的な商品所有者の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大いさを規制するのでなく、逆に商品の価値の大いさが、その交換比率を規制するのであるということは、明瞭となっている。


ニ特別な等価形態


上衣、茶、小麦、鉄等々というような商品は、それぞれ亜麻布の価値表現においては、等価として、したがってまた価値体として働いている。


これらの商品のおのおのの特定なる自然形態は、いまでは多くの他の商品とならんで、一つの特別な等価形態である。同じように、各種の商品体に含まれている特定の具体的な有用な多種多様の労働種は、いまではそれと同じ数だけ、無差別の人間労働を、特別な実現形態または現象形態で示すことになっている。


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになって終わらないからである。


一つの価値方程式が、他のそれを、それからそれとつないでいく連鎖は、引きつづいてつねに、新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たに現われる商品種によって引き延ばされる。


第二に、それは崩壊しがちな雑多な種類

の価値表現の色とりどりの寄木細工をなしている。最後に、あらゆる商品の相対的価値は、この拡大された形態で表現されざるをえないのであるが、そうなると、あらゆる商品の相対的価値形態は、すべての他の商品の相対的価値形態とちがった無限の価値表現の序列である。


―拡大された相対的価値形態の欠陥は、これに相応する等価形態に反映する。すべての個々の商品種の自然形態は、ここでは無数の他の特別な等価形態とならんで、一つの特別な等価形態であるのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけであって、その中のおのおのは他を排除するのである。


これと同じように、すべての特別な商品等価に含まれている特定の具体的な有用労働種は、ただ人間労働の特別な、したがって十全でない現象形態である。


人間労働は、その完全な、または総体的な現象形態を、かの特別な現象形態の総体的広がりの中にあってはいるが、なんら統一的の現象形態をもたない。

だが、拡大された相対的価値形態は、ただ単純な相対的価値表現、または第一形態の諸方程式の総和から成っているだけである。例えば


亜麻布 20 エレ=上衣1着

亜麻布 20 エレー茶10度等々


これらの諸方程式のおのおのは、だが、両項を逆にしてる同じ方程式である、


上衣1着=亜麻布 20 エレ

茶 10 封度=亜麻布 20 エレ等々


 実際上、一人の男がその亜麻布を多くの他の商品と交換し、したがってその価値を、一連の他の商品の中に表現するとすれば、必然的に多くの他の商品所有者また、その商品を亜麻布と交換し、したがって、彼らの種々の商品の品 価値を同一の第三の商品、すなわち、亜麻布で表現しなければならぬ。


―かくて、もしわれわれが、亜麻布 20 エレ=上衣1着 =茶10 ぽんどまたは = その他というような序列を逆にするならば、すなわち、われわれが、

実際にはすでに序列の中に含まれていた逆関係を表現するならば、次のようになる。

85ページ末


2021年11月28日日曜日

第55回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 82ページ

 第55回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 82ページ

 

b 相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態

四 単純な価値形態の総体

B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態



一商品の個々の等価形態が対応している。だから、上衣は亜麻布の相対的価値表現においては、この個々の商品種たる亜麻布と関連して、等価形態、または直接的交換可能性の形態を有するのみである。


だが、個々の価値形態はおのずから、より完全な形態に移行する。この単純な形態によっては、一商品Aの価値は、ただ一つの他の種の商品に表現されるのではあるが、この第二の商品が、どんな種類の色のか、上衣か、鉄か、小麦その他の何か、というようなことは、全くどうでよいのである。


したがって、この商品がある商品種と価値関係にはいるか、それとら他の商品種と価値関係にはいるかによって、それぞれ同一商品のちがった単純な価値表現が成立する。


それらの可能な価値表現の数は、ただそれぞれちがった商品種の数によって制限されるのみである。


したがって、その商品の個別的な価値表現は、そのそれぞれちがった単純な価値表現の、いくらでも延長されうる列に転化されるのである。


(二二a) 第二版への注。例えば、ホメロスにあっては、一物の価値は、それぞれちがった物の列として表現されている。


B 総体的または拡大せる価値形態

z量商品A=u量商品B または =v量商品C または =w量商品D または =x量商品 E または =その他(亜麻布 20 エレ=上衣1着 または =茶 10 封度 または =コーヒ 40 封度 または =小麦1クォーター または=金2オンス または =鉄 1/2 トン または =その他)


1 拡大された相対的価値形態


一商品、例えば、亜麻布の価値は、いまでは商品世界の無数の他の成素に表現される。すべての他の商品体は亜麻布価値の反射鏡となる。


こうしてこの価値自身は、はじめて真実に無差別な人間労働の凝結物として現われる。


なぜかというに、価値を形成する労働は、いまや明瞭に、一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働として、表わされており、その労働がどんな自然形態をやっていようと、したがって、それが上衣に対象化せられようと、小麦や鉄または金等々に対象化せられようと、これを問わないからである。


したがって、いまや亜麻布は、その価値形態によって、もはやただ一つの個々の他の商品種と社会関係にあるだけでなく、商品世界と社会関係に立っているのである。


それは、商品としてこの世界の市民なのである。同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、その特別の形態にたいして、無関心であることになるわけである。


(二三) それゆえに、人は亜麻布の価値が上衣で示されるばあいには、亜麻布の上衣価値について語り、これを穀物で示すばあいには、その穀物価値について語ることになる、等々。上衣、穀物等々の使用価値に現われるのが、亜麻布の価値であるということを、すべてこのような表現は言っていることになる。


「あらゆる商品の価値は、〔なんらか他の商品との、……訳者]交換

におけるその比率を示すのであるから、われわれは価値について、その商品が比較される商品にしたがって、それぞれ穀物価値、 布価値. という風に語ることができるわけである。


したがってまた、それぞれちがった数千の価値種があり 商品のあるかぎり、これと同じ数の価値がある そしてすべての価値が、同じように真実であり、また同じように名目的である」(『価値の性質、尺度および原因にかんする批判的一論考、主としてリカード氏とその追随者たちの著作に関連して。


所信の形成と公表にかんする諸論の著者による』ロンドン、一八二五年、三九ページ[鈴木鴻一郎訳『リカアド価値論の批判』日本評論社、世界古典文庫、五四ページ])。S・ベイリーが、当時イギリスで大さわぎをひき起こしたこの匿名の著作の著者であるが、彼は、

このように同一商品価値の相対的表現の乱雑さを指摘することによって、価値の一切の概念規定を破壊したと妄信している。


だが、彼自身の偏狭固際に的かかわらず、リカードの理論の痛い所を探り当てていたということを、リカード学派の彼を攻撃した激昂が証明した。


例えば『ウェストミンスタ ・レヴュー』所載。亜麻布20 エレ =上衣1着という第一の形態においては、これら二つの商品は、一定の容積比率で交換されるということは、偶然の事実であるかもしれない。これに反して第2の形態では直ちに偶然の現象と本質的に区別され、且つこれを規定する背景があらわれている。84ページ2行目 


2021年11月26日金曜日

第54回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 80ページ

 第54回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 80ページ

二 相対的価値形態

a 相対的価値形態の内実 

b 相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態

四 単純な価値形態の総体



でいえば、ある商品の価値は、「交換価値」として現示されることによって、独立的に表現されている。この章のはじめに、普通に行なわれているようにべ商品は使用価値であり、また交換価値であるといったのであるが、このことは、正確にいえば誤りであった。


商品は使用価値または使用対象であり、また「価値」である。商品は、その価値が、そ

での自然形態とちがった独自の現象形態、すなわち交換価値という現象形態をとるととめに、ただちに本来の性質であるこのような二重性として示される。


そして商品は、この形態を、決して孤立して考察するばあいにやっているのでなく、つねに第二の異種の商品にたいする価値関係、または交換関係においてのみ、もっているのである。


だが、このことを知ってさえいれば、先の言い方は無害であって、簡略にするに役立つのである。われわれの分析の証明するところによれば、商品の価値形態、またはその価値表現は、商品価値の本性から出てくるので、逆に価値や価値の大いさが、交換価値としてのその表現様式から出てくるものではない。


だが、このことは、重商学派とフェリエやガニール等のような、その近代の蒸し返し屋たちの妄想であるととめに、またその対立者であるバスティアとその一派のような、近代自由貿易の外交員たちのそれでもある。


重商学派は重点を、価値表現の質的側面に、したがって、貨幣として完成された姿になる商品の等価形態に置いている―これに反して、近代自由貿易外交員たちは、その商品を、どんなにして売り払わなければならないので、重点を相対的価値形態の量的側面においている。


したがって、彼らにとっては商品の価値も価値の大いさも、交換関係を通した表現以外には存しないし、したがってただその日その日の時価表の中だけに存するのである。


スコットランド人のマクラウドは、ロンバート・ストリートのもうろうたる観念を、できるだけ博学にめかし立てることを仕事にしているが、迷信的な重商学派と啓蒙された自由貿易外交員との間をうまくまとめている。


(二二) 第二版への注。F・L・A・フェリエ(副関税検察官)、『商業にたいする関係から見た政府の考察』パリ、一八〇五年、およびシャルル・ガニイ『経済学体系』第二版、パリ、一八二一年。商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を、くわしく考察すると、その内部において、商品Aの自然形態は、ただ使用価値の姿としてのみ、商品Bの自然形態は、ただ価値形態また価値の姿としてのみはたらいていることが明らかになった。


それゆえに、商品の中に包みこまれている使用価値と価値の内的対立は、1つの外的対立によって、すなわち、1つの商品の関係によって示されている。この関係において、価値が表現さるべき一方の商品は、直接にただ使用価値としてのみ、これにたいして身をおって価値を表現する他方の商品は、直接にただ交換価値としてのみ、働いている。


それゆえに、ある商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態である。


労働生産物は、どんな社会状態においてち使用対象である。しかし、ただある歴史的に規定された発展段階のみが、一つの使用物の生産に支出された労働を、そのおのの「対象的」属性として、すなわち、その価値として表わすのであって、この発展段階が、労働生産物を商品に転化するのである。


したがって、このことから、商品の単純なる価値形態は、同時に労働生産物の単純なる商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展や価値形態の発展と一致するという結果になる。


一見すれば、すぐ単純な価値形態の不充分さがわかる。この形態は、一連の変態をへて、やっと価格形態に成熟してくる萌芽形態なのである。


なんらかの一商品Bにおける表現は、商品Aの価値を、ただそれ自身の使用価値から区別するのみであって、したがって、この商品を、ただそれ自身とちがった個々の商品種の何かにたいする交換関係に置くのみであって、他の一切の商品との質的等一性と量的比率とを示すものではないのである。

ある商品の単純なる相対的価値形態には、1商品個々の商品の等価形態が対応している。 

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2021年11月25日木曜日

第53回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 78ページ

 第53回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 78ページ

二 相対的価値形態

a 相対的価値形態の内実 

b 相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態

四 単純な価値形態の総体



最初に分析した偉大なる探究者にさかのぼって見るとき、やっと解りやすくなる。それはアリストテレスである。


 商品の貨幣形態が、単純なる価値形態、すなわち、なんらか任意の他の商品における一商品の価値の表現のさらに発展した姿にすぎないということを、アリストテレスは最初に明言している。というのは彼はこう述べているからである。


「しとね5個=家1軒」(,, Knival Tèvre avril okias")ということは


「しとね5個=貨幣一定額」(,, Knival mévre avri. Scou ai nèvre Knivan)

ということと「少しゃ区別はない」と。


彼はさらにこういうことを看取している。この価値表現をひそませている価値関係は、それ自身として、家がしとねに質的に等しいとおかれるということと、これらの感覚的にちがった物が、このような本質の等一性なくしては、通約しうる大いきとして相互に関係しえないであろうということとを、条件にしているというのである。


彼はこう述べている、「交換は等一性なくしては存しえない。だが、等一性は通約し得べき性質なくしては存しえない」(goûtaorns uſ oions oursetpias")と。


しかし、彼はここで立ちどまって、価値形態を、それ以上分析することをやめている。「しかしながら、このように種類のちがった物が通約できるということ」、すなわち、質的に同一であるということは「真実には不可能である」(Tſ utv ov &Angeig &&varov*) 。


この等置は、物の真の性質に無関係なのでしかありえない、したがって、ただ「実際的必要にたいする緊急措置」でしかありえないと。


アリストテレスは、このようにして、どこで彼のそれ以上の分析が失敗しているかということについてすら、すなわち、価値概念の欠如についてすら、述べているわけである。


等一なるのは何か? すなわち、しとねの価値表現において、家がしとねに対していいあらわしている共通の実体は何か?そんなものは「真実には存しえない」と、アリストテレスは述べている。


なぜか? 家はしとねにたいしてある等一物をいいあらわしている、家が、しとねと家という二つの物で現実に同一なるめのをいいあらわしているかぎりにおいて。そしてこれが人間労働なのである。


しかしながら、商品価値の形態においては、すべての労働が等一なる人間労働として、したがって等一的に作用しているあのとして表現されているということを、アリストテレスは、価値形態自身から読み取ることができなかった。


というのは、ギリシア社会は奴隷労働にもとづいており、したがって、人間とその労働力の不等を自然的基礎としていたのであるからである。


価値表現の秘密、すなわち一切の労働が等しく、また等しいと置かれるということは、一

切の労働が人間労働一般であるから、そしてまたそうあるかぎりにおいてのみ、言えることであって、だから、人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。


しかしながら、このことは、商品形態が労働生産物の一般的形態であり、したがってまた商品所有者としての人間相互の関係が、支配的な社会的関係であるような社会になって、はじめて可能である。


アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において、等一関係を発見しているということに輝いている。ただ彼の生活していた社会の歴史的限界が、妨げになって、一体「真実には」この等一関係は、どこにあるかを見出させなかったのである。


四単純な価値形態の総体


ある商品の単純な価値形態は、その商品の他のある異種商品にたいする価値関係に、またはこの商品との交換関係に含まれている。


商品Aの価値は、質的には商品Bの商品Aとの直接的な交換可能性によって表現されている。


この価値は量的には、商品Bの一定量が商品Aの一定量と交換されうるということによって、表現されている。他の言葉でいえば、ある商品の価値は「交換価値」として現示されることによって独立的に表現されている。


2021年11月24日水曜日

第52回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 76ページ

 第52回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 76ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実 

b相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態


たとば上衣が、あるがままのものとして価値を表現し、したがって、自然のままのものとして、価値形態をもっているということの中にあるのである。


このことは、もちろんただ亜麻布商品が、等価としての上衣商品にたいして関係させられ

た価値関係の内部においてだけ、妥当することなのである。


しかし、一物の属性は、他物に対するその関係から発生するのではなくて、むしろこのような関係においてただ実証されるだけのものであるから、上衣らその等価形態を、すなわち、直接的な交換可能性というその属性を、同じように天然にもっているかのように、それはちょうど、重いとか温いとかいう属性と同じもののように見える。


このことから等価形態の謎が生まれるのであって、それは、この形態が完成した形で貨幣となって、経済学者に相対するようになると、はじめてブルジョア的に粗雑な彼の目を驚か

すようになる。


そうなると彼は、金や銀の神秘的な性格を明らかにしようとして、これらのものを光り輝くことのもつとも少ない商品にすっかえて、いつもたのしげに、すべて下賤な商品で、その時々に商品等価の役割を演じたものの目録を、述べ立てるのである。


彼は、亜麻布 20 エレ =上衣1着 というようになもっとも簡単な価値表現が、すでに等価形態の謎を解くように与えられていることを、想像してみないのである。

(二一)

このような反省規定は、総じて奇妙なところがあるものである。この人間が、例えば王であるのは ただ他の人にたいして臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている。


等価のつとめをしている商品の物体は、つねに抽象的に人間的な労働の体現として働いており、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。


したがって、この具体的労働は、抽象的に人間的な労働の表現となる。例えば、上衣が、抽象的に人間的な労働の単なる実現となっているとすれば、実際に上衣に実現されている裁縫が、抽象的に人間的な労働の単なる実現形態として働いているわけになる。


亜麻布の価値表現においては、裁縫の有用性は、裁縫が衣服をつくり、したがってまた人をめつくる「ドイツには「着物は人をつくる」という諺がある。……訳者]ということにあるのでなく、次のような一つの物体をつくるところにあるのである。


すなわちこの物体に対して、人は、それが価値であるという風に、したがって、亜麻布価値に対象化されている労働から少し区別されない、


労働の凝結物であるというように、みなしてしまうのである。このような一つの価値鏡を作るために、裁縫自身は、人間労働であるというその抽象的な属性以外には、何るのを反映してはならない。

裁縫の形態でも、機織の形態でも、人間労働力は支出されるのである。したがって、両者は、人間労働の一般的な属性をもっている。


そしてこのために一定のばあいには、例えば、価値生産においては、ただこの観点からだけ考察すればいいのである。


すべてこれらのことは、神秘的なことではない。しかし、商品の価値表現においては、事柄は、歪められる。


例えば、機織が機織としての具体的な形態においてではなく、人間労働としてのその一般的な属性において、亜麻布価値を形成するということを表現するために、機織にたいして、裁縫が、すなわち、亜麻布等価物を作り出す具体的労働が、抽象的に人間的な労働のみうべき実現形態として、対置されるのである。


それゆえに、具体的労働がその反対物、すなわち、抽象的に人間的な労働の現象形態となるということは、等価形態の第二の特性である。


しかしながら、この具体的労働、すなわち裁縫は、無差別な人間労働の単なる表現として働くことによって、他の 労働、すなわち、亜麻布にひそんでいる労働と等一性の形態をもちしたがって、他の一切の商品生産労働と同じように私的労働ではあるが、しかし直接に社会的な形態における労働である。


まさにこのために、この労働は、直接に他の商品と交換しうる一つの生産物に表わされている。


このように、私的労働がその反対物の形態、すなわち、直接に社会的な形態における労働となるということは、等価形態の第三の特性である。


最後に述べた等価形態の二つの特性は、価値形態、ならびにきわめて多くの思惟形態、社会形態および自然形態を、最初に分析した偉大なる探究者に遡って見る時、最も分かりやすくなる。78ページ1行目


2021年11月23日火曜日

第51回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 74ページ

 第51回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 74ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実 

b相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態



むしろただ一物の一定量として現われるだけである。

例えば、四Oェレの亜麻布は、一体何に「値する」のか? 二着の上衣に。というのは、上衣なる商品種は、ここでは等価の役割を演じているのであり、上衣という使用価値は、亜麻布にたいして価値体とされているのであるから、一定の価値量としての亜麻布を表現するには、一定量の上衣ということで充分である。


したがって、二着の上衣は、四〇ェレの亜麻布の価値の大いさを表現することはできるが、決して自分自身の価値の大いさを、すなわち、上の価値の大いさを表現することはできないのである。


等価が価値方程式においてつねに一物、すなわち一使用価値の単に一定量の形態をやっているにすぎないというこの事実を、皮相に理解したことは、ベイリーをその先行者や後続者

の多くととおに誤り導いて、価値表現においてただ量的な関係だけを見るようにしてしまった。


一商品の等価形態はむしろなんらの量的価値規定をや含んでいないのである。


等価形態の考察に際して目立つ第一の特性は、このことである、すなわち、使用価値がその反対物の現象形態、すなわち、価値の現象形態となるということである。


商品の自然形態が価値形態となる。しかしながら、注意すべきことは、この Quidproquo 【とりちがえ」は、商品B(上衣または小麦または鉄等々)にとっては、ただ他の適宜な商品A(亜麻布等々)が自分にたいしてとる価値関係の内部においてのみ、すなわち、この関連の内部においてのみ、起こるということなのである。


いかなる商品や、自分自身にたいして等価として関係することはなく、したがってまた、自分自身の自然の皮膚を、自分自身の価値の表現となすことは出来ないのであるから、このような商品は、他の商品を等価として、これに関係しなければならぬ。


いいかえれば、他の商品の自然の皮膚を、自分自身の価値形態にしなければならぬ。


このことを明らかにするために、商品体としての、すなわち、使用価値としての商品体に用いられるをつねとする。


度量衡の例を見よう。一つの砂糖塊は、物体であるから、重い。したがって重量をもっている。しかしながら、人は砂糖塊をなでてめさすっても、その重量を見つけることはできない。


そこでわれわれは、あらかじめ重量の定められている種々なる鉄片を取り出すのである。鉄の物体形態め、砂糖塊のそれも、それだけを見れば、とるに、重さの現象形態ではない。


だが、砂糖塊を重さとして表現するためには、われわれは、これを鉄との重量関係におく。この関係においては、鉄は、重さ以外の何ものを示さない一物体となっている。


したがって、鉄量は砂糖の重量尺度として用いられ、砂糖体にたいして単なる重量態容、すなわち、重さの現象形態を代表する。

鉄がこの役割を演ずるのは、ただこの関係の内部においてのみであって、この関係の内部で、砂糖は、あるいは重量を測ろうという他のどんな物体でも、鉄と相対するのである。


両物が重さをもっていなければ、これらの物は、この関係にはいりえないであろうし、したがって、一物は他物の重量の表現として役立つことはできないであろう。


われわれは、両者を秤皿に投ずるならば、実際にこれらの二物が重さとして同一なるのであり、したがって、一定の割合において同一重量のあのであるということを知るのである。


鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊にたいして、ただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上衣体は、亜麻布にたいして、ただ価値を代表するだけである。


だが、ここで比論は終わるのである。鉄は砂糖塊の重量表現で、両物体に共通なる自然属性、すなわち、それらの品 重さを代表したのであるが、他方の上衣は亜麻布の価値表現において両物の超自然的属性を、すなわち、それらのものの価値を、およそ純粋に社会的なるのを、代表しているのである。


一商品、例えば亜麻布の相対的価値形態は、その価値たることを、何かその物体と物体の属性とから全く区別されためのとして、例えば上衣に等しいあのとして、表現しているのであるが、この表現自身が、一つの社会関係を内にかくしていることを示唆している。


等価形態では逆になる。等価形態であるゆえんは、まさに、一商品体、例えば上衣があるがままのものとして価値を表現し、したがって自然のままのものとして、価値形態をもつているということのなかにあるのである。76ページ行目



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