第53回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 78ページ
二 相対的価値形態
a 相対的価値形態の内実
b 相対的価値形態の量的規定性
三 等価形態
四 単純な価値形態の総体
最初に分析した偉大なる探究者にさかのぼって見るとき、やっと解りやすくなる。それはアリストテレスである。
商品の貨幣形態が、単純なる価値形態、すなわち、なんらか任意の他の商品における一商品の価値の表現のさらに発展した姿にすぎないということを、アリストテレスは最初に明言している。というのは彼はこう述べているからである。
「しとね5個=家1軒」(,, Knival Tèvre avril okias")ということは
「しとね5個=貨幣一定額」(,, Knival mévre avri. Scou ai nèvre Knivan)
ということと「少しゃ区別はない」と。
彼はさらにこういうことを看取している。この価値表現をひそませている価値関係は、それ自身として、家がしとねに質的に等しいとおかれるということと、これらの感覚的にちがった物が、このような本質の等一性なくしては、通約しうる大いきとして相互に関係しえないであろうということとを、条件にしているというのである。
彼はこう述べている、「交換は等一性なくしては存しえない。だが、等一性は通約し得べき性質なくしては存しえない」(goûtaorns uſ oions oursetpias")と。
しかし、彼はここで立ちどまって、価値形態を、それ以上分析することをやめている。「しかしながら、このように種類のちがった物が通約できるということ」、すなわち、質的に同一であるということは「真実には不可能である」(Tſ utv ov &Angeig &&varov*) 。
この等置は、物の真の性質に無関係なのでしかありえない、したがって、ただ「実際的必要にたいする緊急措置」でしかありえないと。
アリストテレスは、このようにして、どこで彼のそれ以上の分析が失敗しているかということについてすら、すなわち、価値概念の欠如についてすら、述べているわけである。
等一なるのは何か? すなわち、しとねの価値表現において、家がしとねに対していいあらわしている共通の実体は何か?そんなものは「真実には存しえない」と、アリストテレスは述べている。
なぜか? 家はしとねにたいしてある等一物をいいあらわしている、家が、しとねと家という二つの物で現実に同一なるめのをいいあらわしているかぎりにおいて。そしてこれが人間労働なのである。
しかしながら、商品価値の形態においては、すべての労働が等一なる人間労働として、したがって等一的に作用しているあのとして表現されているということを、アリストテレスは、価値形態自身から読み取ることができなかった。
というのは、ギリシア社会は奴隷労働にもとづいており、したがって、人間とその労働力の不等を自然的基礎としていたのであるからである。
価値表現の秘密、すなわち一切の労働が等しく、また等しいと置かれるということは、一
切の労働が人間労働一般であるから、そしてまたそうあるかぎりにおいてのみ、言えることであって、だから、人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。
しかしながら、このことは、商品形態が労働生産物の一般的形態であり、したがってまた商品所有者としての人間相互の関係が、支配的な社会的関係であるような社会になって、はじめて可能である。
アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において、等一関係を発見しているということに輝いている。ただ彼の生活していた社会の歴史的限界が、妨げになって、一体「真実には」この等一関係は、どこにあるかを見出させなかったのである。
四単純な価値形態の総体
ある商品の単純な価値形態は、その商品の他のある異種商品にたいする価値関係に、またはこの商品との交換関係に含まれている。
商品Aの価値は、質的には商品Bの商品Aとの直接的な交換可能性によって表現されている。
この価値は量的には、商品Bの一定量が商品Aの一定量と交換されうるということによって、表現されている。他の言葉でいえば、ある商品の価値は「交換価値」として現示されることによって独立的に表現されている。
0 件のコメント:
コメントを投稿