第51回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 74ページ
A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
二相対的価値形態
a相対的価値形態の内実
b相対的価値形態の量的規定性
三 等価形態
むしろただ一物の一定量として現われるだけである。
例えば、四Oェレの亜麻布は、一体何に「値する」のか? 二着の上衣に。というのは、上衣なる商品種は、ここでは等価の役割を演じているのであり、上衣という使用価値は、亜麻布にたいして価値体とされているのであるから、一定の価値量としての亜麻布を表現するには、一定量の上衣ということで充分である。
したがって、二着の上衣は、四〇ェレの亜麻布の価値の大いさを表現することはできるが、決して自分自身の価値の大いさを、すなわち、上の価値の大いさを表現することはできないのである。
等価が価値方程式においてつねに一物、すなわち一使用価値の単に一定量の形態をやっているにすぎないというこの事実を、皮相に理解したことは、ベイリーをその先行者や後続者
の多くととおに誤り導いて、価値表現においてただ量的な関係だけを見るようにしてしまった。
一商品の等価形態はむしろなんらの量的価値規定をや含んでいないのである。
等価形態の考察に際して目立つ第一の特性は、このことである、すなわち、使用価値がその反対物の現象形態、すなわち、価値の現象形態となるということである。
商品の自然形態が価値形態となる。しかしながら、注意すべきことは、この Quidproquo 【とりちがえ」は、商品B(上衣または小麦または鉄等々)にとっては、ただ他の適宜な商品A(亜麻布等々)が自分にたいしてとる価値関係の内部においてのみ、すなわち、この関連の内部においてのみ、起こるということなのである。
いかなる商品や、自分自身にたいして等価として関係することはなく、したがってまた、自分自身の自然の皮膚を、自分自身の価値の表現となすことは出来ないのであるから、このような商品は、他の商品を等価として、これに関係しなければならぬ。
いいかえれば、他の商品の自然の皮膚を、自分自身の価値形態にしなければならぬ。
このことを明らかにするために、商品体としての、すなわち、使用価値としての商品体に用いられるをつねとする。
度量衡の例を見よう。一つの砂糖塊は、物体であるから、重い。したがって重量をもっている。しかしながら、人は砂糖塊をなでてめさすっても、その重量を見つけることはできない。
そこでわれわれは、あらかじめ重量の定められている種々なる鉄片を取り出すのである。鉄の物体形態め、砂糖塊のそれも、それだけを見れば、とるに、重さの現象形態ではない。
だが、砂糖塊を重さとして表現するためには、われわれは、これを鉄との重量関係におく。この関係においては、鉄は、重さ以外の何ものを示さない一物体となっている。
したがって、鉄量は砂糖の重量尺度として用いられ、砂糖体にたいして単なる重量態容、すなわち、重さの現象形態を代表する。
鉄がこの役割を演ずるのは、ただこの関係の内部においてのみであって、この関係の内部で、砂糖は、あるいは重量を測ろうという他のどんな物体でも、鉄と相対するのである。
両物が重さをもっていなければ、これらの物は、この関係にはいりえないであろうし、したがって、一物は他物の重量の表現として役立つことはできないであろう。
われわれは、両者を秤皿に投ずるならば、実際にこれらの二物が重さとして同一なるのであり、したがって、一定の割合において同一重量のあのであるということを知るのである。
鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊にたいして、ただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上衣体は、亜麻布にたいして、ただ価値を代表するだけである。
だが、ここで比論は終わるのである。鉄は砂糖塊の重量表現で、両物体に共通なる自然属性、すなわち、それらの品 重さを代表したのであるが、他方の上衣は亜麻布の価値表現において両物の超自然的属性を、すなわち、それらのものの価値を、およそ純粋に社会的なるのを、代表しているのである。
一商品、例えば亜麻布の相対的価値形態は、その価値たることを、何かその物体と物体の属性とから全く区別されためのとして、例えば上衣に等しいあのとして、表現しているのであるが、この表現自身が、一つの社会関係を内にかくしていることを示唆している。
等価形態では逆になる。等価形態であるゆえんは、まさに、一商品体、例えば上衣があるがままのものとして価値を表現し、したがって自然のままのものとして、価値形態をもつているということのなかにあるのである。76ページ行目
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