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2021年11月11日木曜日

第42回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の2重性 第3節価値形態または交換価値

 第42回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の2重性 第3節価値形態または交換価値


80ページ


A・スミスは、一面では、この場合(どこでもというわけではないが)、商品の生産に支出される 労働の分量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同しており、したがって、等量の労働はつねに等しい価値をもつということを証明しようとしている。


他面では、彼は、商品価値に表わされる限りでの労働が、ただ、労働力の支出としてのみ通用するということにうすうす感づいているが、この支出を、ふたたび単に安楽、自由、および幸福の犠牲としてのみとらえ、正常な生命活動とはとらえていない。


いずれにせよ、彼は近代的賃銀労働者を眼前においているのである。 注九に引用したA・スミスの匿名の先行者は、はるかに適切に述べている。「ある人は、この使用対象 [生活必需品〕 の生産に一週間を費やした。


そして、それと交換に彼にある他の対象を与える人は、自分がなににちょうど等しい労働と時間とを費やすかを計算すること以上に、なにが現実に等価であるかを正しく評価する方法をもちえない。


このことが実際に意味しているのは、ある人が一定の時間にある対象に費やした労働と、別の人が同じ時間に別の対象に費やした労働との交換である」(『貨幣の利子一般、およびとくに公債の利子にかんする若干の考察』、三九ページ)。―第四版への注。


英語には、労働のこうした二つの異なる面を表わす二つの異なる言葉をもっているという長所がある。使用価値をつくり質的に規定されている労働は、labour にたいして work と呼ばれ、価値をつくり量的にのみはかられる労働は、work にたいして labour と呼ばれる。英訳版、一四ページ[1九七七年モスクワ版、五四ページ〕の注を見よ。|F・エンゲルス}


第三節 価値形態または交換価値

商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。


これが商品のありふれた自然形態である。とはいえ、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、自然形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現われ、言い換えれば、商品という形態をとるのである。


商品の価値対象性は、どうつかまえたらいいかわからないことによって、寡婦のクイックリーと区別される。商品体の感性的にがさがさした対象性とは正反対に、商品の価値対象性には、一原子の自然素材もはいり込まない。


だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくり回しても、それは、価値物としては、依然としてつかまえようがないものである。


とはいえ、商品が価値対象性をもつのは、ただ、それが人間的労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと、それゆえ、商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること、を思い出せば、それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるということも、おのずから明らかである。


実際、われわれは、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている諸商品の価値の足跡をさぐりあてた。いまや、われわれは、価値のこの現象形態に立ち返らなければならない。


*1 [シェイクスピア『ヘンリー四世』、第一部、第三幕、第三場での フォルスターフのせりふ参照。小田島訳、『シェイクスピア全集』V、白水社、六二ページ。中野訳、岩波文庫、第一部、一二五ページ]


2021年11月10日水曜日

第41回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の2重性(70ページから)

 第41回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の2重性(70ページから)




78ページ2行目

たとえば、一着の上着の生産に必要とされるすべての有用的労働の生産力が不変のままにとどまるならば、上着の価値の大きさは、上着自身の量が増えるにつれて増大する。


一着の上着が区労働日を表わすなら、二着の上着はな労働日を表わす、等々。しかし、一着の上着の生産に必要な労働が二倍に増加するか、あるいは半分に減少するものと仮定しよう。


まえの場合には、一着の上着は以前の二着の上着と同じ価値をもち、あとの場合には、二着の上着が以前の一着と同じ価値しかもたない。もっとも、どちらの場合でも、一着の上着は相変わらず一着の上着として役立ち、それに含まれている有用的労働も相変わらず同じ品質のものである。


ただ、その生産に支出された労働分量が変わったのである。


より大きい分量の使用価値は、それ自体としては、より大きい素材的富をなす。二着の上着は、一着の上着より大きい素材的富をなす。


二着の上着があれば、二人に着せることができるが、一着の上着では一人にしか着せられない、等々。とはいえ、素材的富の量の増大に対応して、同時にその価値の大きさが低下することもありうる。


このような対立的運動は、労働の二面的性格から生じる。生産力は、もちろんつねに、有用的具体的労働の生産力であり、実際、ただ、与えられた時間内における合目的的生産的活動の作用度だけを規定する。


だから、有用的労働は、その生産力の上昇または低下に正比例して、より豊かな生産物源泉ともなれば、より貧しい生産物源泉ともなる。


これに対して、回生産力の変動は、それ自体としては、価値に表わされる労働にはまったく影響しない。生産力は、労働の具体的有用的形態に属するから、労働の具体的有用的形態が捨象されるやいなや、生産力は、当然、もはや労働に影響を与えることはできなくなる。


だから、生産力がどんなに変動しても、同じ労働は同じ時間内には、つねに同じ価値の大きさを生み出す。ところが、同じ労働は同じ時間内に、異なった分量の使用価値を生産力が上がれば、より大きい量を、生産力が下がれば、より小さい量を――提供する。


したがって、労働の多産性を、それゆえ、労働によって提供される使用価値の総量

を、増大させる生産力の変動は、もしもそれがこの使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮させるならば、この増大した使用価値総量の価値の大きさを減少させる。


反対の場合には逆になる。

すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間的労働力の支出であり、同等な人間的労働または抽象的人間的労働というこの属性において、それは商品価値を形成する。


すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間的労働力の支出であり、具体的有用的労働というこの属性において、それは使用価値を生産する。(一六)


(一六) 第二版への注。「労働だけが、それによってすべての商品の価値が、あらゆる時代を通して、評価され、比較されうる究極の、真の尺度であること」を証明する ために、A・スミスは、次のように言う。「等しい量の労働は、あらゆる時代、あらゆる場所において、労働者自身にとって等しい価値をもっているに違いない。


労働者は、彼の健康、体力、および活動の正常状態のもとで、また彼の熟練と技能が通常の程度であれば、自分の安楽、自分の自由、および自分の幸福の同一部分をつねに犠牲にしなければならない」(『諸国民の富』、第一篇、第五章 [102|10五ページ。大内・松川訳、岩波文庫、C、一五五ー一五六ページ】)。


2021年11月8日月曜日

第40回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の2重性70ページから

 第40回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の2重性70ページから

76ページ


この還元が絶えず行なわれていることは、経験が示している。ある商品はもっとも複雑な労働の生産物であるかもしれないが、その価値は、その商品を単純労働の生産物に等置するのであり、したがって、それ自身、一定分量の単純労働を表わすにすぎない。


さまざまな種類の労働がその度量単位である単純労働に還元されるさまざまな比率は、生産者たちの背後で一つの社会的過程によって確定され、したがって生産者たちにとっては慣習によって与えられるかのように見える。


簡単にするために、以下ではどんな種類の労働力をも直接に単純な労働力とみなすが、それは、還元の労をはぶくためにほかならない。

(14) ヘーゲル『法の哲学』、ベルリン、一八四〇年、二五Oページ、第一九〇節〔藤野渉・赤沢正敏訳、『世界の名著』的、中央公論社、四二三ー四二四ページ]、参照。

(15) 読者が注意しなければならないのは、ここでは、労働者がたとえば一労働日[一日の労働時間】について受け取る賃銀または価値のことを言っているのではなく、彼の一労働日が対象化されている商品価値のことを言っているということである。労賃というカテゴリーは、われわれの叙述のこの段階ではまだまったく存在しない。


* 「初版、フランス語版では「人間的労働力」となっている]


したがって、価値である上着およびリンネルにおいては、それらの使用価値の区別が捨象されているように、これらの価値に表わされている労働においては、裁縫労働および織布労働というそれらの有用的形態の区別が捨象されている。


使用価値である上着およびリンネルが目的を規定された生産的活動と布および糸との結合したものであり、これにたいして価値である上着およびリンネルは単なる同種の労働凝固体であるように、これらの価値に含まれている労働は、布および糸にたいするその生産的なふるまいによってではなく、ただ人間的労働力の支出としてのみ通用する。


裁縫労働と織布労働とが使用価値である上着およびリンネルの形成要素であるのは、まさにこれらの労働の異なる質によってである。裁縫労働と織布労働とが上着価値およびリンネル価値の実体であるのは、ただ、これらの労働の特殊な質が捨象され、両方の労働が等しい質、人間的労働という質をもっている限りでのことである。


だが、上着もリンネルも単に価値一般ではなく、一定の大きさをもつ価値であり、われわれの想定では、一着の上着は10エレのリンネルの二倍の価値がある。これらの価値の大きさのこの相違はどこから生じるのか? それは、リンネルが上着の半分の労働しか含んでおらずしたがって、上着を生産するにはリンネルを生産する時間の二倍にわたって労働力が支出されなければならない、ということから生じる。


したがって、商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ意義をもつとすれ

ば、価値の大きさとの関連では、それがもはやそれ以上の質をもたない人間的労働に還元されている

ので、ただ量的にのみ意義をもつ。まえの場合には、労働のどのようにしてと、なにをするかが問題となり、あとの場合には、労働のどれだけ多くが、すなわちその継続時間が問題となる。


一商品の価値の大きさは、その商品に含まれている労働の分量だけを表わすから、諸商品は、一定の比率においては、常に等しい大きさ価値でなければならない。


2021年11月7日日曜日

第39回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章商品 第2節商品に表される労働の2重制

 第39回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章商品 第2節商品に表される労働の2重制


74ページ1行目


分析にさいして人間精神が繰り返し見いだす唯一の要素である。土地、空気、および水が畑で穀物に変えられたり、あるいはまた、なにかある昆虫の分泌物が人間の手によって絹に変えられたり、あるいは、いくつかの金属片が組み立てられて時打ち懐中時計がつくられたりするとすれば、価値」(使用価値のことである。


もっとも、ヴェッリは、重農主義学派にたいするこの論争において、自分がどちらの種類の価値について語っているのか、自分でも よくわかっていない。)「および 富の再生産についても、事情は同じである」(ピエートロ・ヴェッリ『経済学にかんする諸考察』――初版は一七七一年――クストーディ編『イタリア古典経済学者』叢書、近代篇、第一五巻〔ミラノ、一八〇四年〕、二一、二二ページ)。


* 〔ペティ『租税貢納論』、ロンドン、一六六七年、四七ページ。大内 兵衛・松川 七郎訳、岩波文庫、一一九ページ]


そこで、こんどは、使用対象である限りでの商品から、商品価値に移ろう。

われわれの想定によれば、上着はリンネルの二倍の価値をもっている。もっとも、これは量的な区別にすぎず、この区別はさしあたりまだわれわれの問題ではない。


そこで、われわれは、一着の上着の価値が一〇ェレのリンネルの価値の二倍であれば、二〇エレのリンネルは一着の上着と同じ価値の大きさをもつということを思い出そう。


価値としては、上着とリンネルとは同じ実体をもつ物であリ。


同種の労働の客観的表現である。ところが、裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる労働である。とはいえ、ある社会状態においては、同じ人間が裁縫労働と織布労働とをかわるがわる行ない、したがって、この二つの異なる労働様式は同じ個人の労働の諸変形にすぎず、まだ異なる諸個人の特殊な固定的な職能にはなっていないことがある。


それは、ちょうど、わが裁縫師がきょう仕立てる上着とあす仕立てるズボンとが同じ個人的労働の変化を前提するにすぎないのとまったく同じである。さらに、一見してわかるように、われわれの資本主義社会においては、労働需要の方向が変化するにつれて、それに応じて、一定部分の人間的労働が、あるときは裁縫労働の形態で、あるときは織布労働の形態

で、かわるがわる供給されている。


労働のこの形態変換は、摩擦なしには行なわれないかもしれないが、ともかく行なわれなければならない。生産的活動の規定性、したがって労働の有用的性格を度外視すれば、労働に残るのは、それが人間的労働力の支出であるということである。


裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる生産的活動であるにもかかわらず、ともに、人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出であり、こうした意味で、ともに、人間的労働である。


それらは、人間的労働力を支出する二つの異なった形態にすぎない。確かに、人間的労働力そのものは、それがあれこれの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。しかし、商品の価値は、人間的労働自体を、人間的労働一般の支出を、表わしている。75ページ末


ところで、ブルジョア社会では、将軍なり銀行家なりは大きな役割を演じ、これにたいして人間自体はどくみすぼらしい役割を演じているが、この場合の人間的労働もそのとおりである。


それは、平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。確かに、単純な平均労働そのものは、国を異にし文化史上の時代を異にすれば、その性格を変えるが、現に存在する一つの社会では、与えられている。


より複雑な労働は、単純労働の何乗かされたもの、またはむしろ何倍かされたものとしての

み通用し、そのために、より小さい分量の複雑労働がより大きい分量の単純労働に等しいことになる。


2021年11月5日金曜日

第38回 資本論の学習 カール・マルクス 新日本出版  第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の二重制

 第38回 資本論の学習 カール・マルクス 新日本出版  第1篇商品と貨幣

第1章 商品 第2節商品に表れる労働の二重制



72ページ2行目

さまざまな種類の使用価値または商品体の総体のうちには、同じように多様な、属、種、科、亜種、変種を異にする有用的労働の総体――社会的分業――が現われている。社会的分業は商品生産の実存条件である。


もっとも、逆に、商品生産は社会的分業の実存条件ではない。古インド的共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物は商品になっていない。


あるいは、もっと手近な例をあげあれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されているのではない。


自立的な、互いに独立の、私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。


したがって、われわれは次のことを見てきた。ーどの商品の使用価値にも一定の合目的的な生産的活動または有用的労働が含まれている。


諸使用価値は、質的に異なる有用的労働がそれらに含まれていなければ、商品として相対することはできない。その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、自立した生産者たちの私事として互いに独立に営まれる有用的労働のこうした質的区別が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。


ところで、上着にとっては、それが裁縫師によって着られるか、それとも裁縫師の顧客によって着られるかは、どうでもよいことである。どちらの場合でも、上着は使用価値として作用する。


同じように、上着とそれを生産する労働との関係は、裁縫労働が特殊な職業となり、社会的分業の自立的な一分肢となることによっては、それ自体として変わることはない。


人間は、衣服を着る必要に迫られたところでは、だれかある人が裁縫師になるまえに、すでに何千年にわたって裁縫労働を行なってきた。しかし、上着やリンネルのような天然自然には存在しない素材的常のあらゆる要素の定在は、特殊な自然素材を特殊な人間的欲求に適合させるある一つの特殊な合目的的な生産的活動によって、つねに媒介されなければならなかった。


だから、労働は、使用価値の形成者としては、有用的労働としては、あらゆる社会形態から独立した、人間の一実存条件であり、人間と自然との物質代謝を、それゆえ人間的生活を、媒介する永遠の自然必然性である。


使用価値である上着、リンネルなど、要するに商品体は、二つの要素の、すなわち自然素材と労働との、結合物である。


上着、リンネルなどに含まれているすべての異なった有用的労働の総和を取り去れば、人間の関与なしに天然に存在する物質的基体がつねに残る。


人間は、彼の生産において、自然そのものと同じようにふるまうことができるだけである。すなわち、素材の形態を変えることがでぬきるだけである。


それだけではない。形態を変えるこの労働そのものにおいても、人間は絶えず自然力に支えられている。


したがって、労働は、それによって生産される使用価値の、素材的富の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティが言っているように、労働は素材的富の父であり、土地はその母である。

(一三)「宇宙のすべての現象は、人間の手によって生み出されようと 自然学の一般的諸法則によって生み出されようと、事実上の創造ではなく、単に素材の変形であるにすぎない。結合と分離が、再生産という表象の分析にさいして人間性精神が繰り返し見出す唯一の要素である。74ページ1行目まで


2021年11月4日木曜日

第37回資本論の学習 私本論第1巻 第1分冊 カール・マルクス 新日本 

 第37回資本論の学習 資本論第1巻 第1分冊 カール・マルクス 新日本 

第1章商品第1篇商品と貨幣 

第1節商品の2つの要因ー使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)


第1篇商品と貨幣

70ページ

ある物は、商品であることなしに、有用であり人間的労働の生産物でありうる。自分の生産

物によって自分自身の欲求を満たす人は、確かに使用価値をつくり出すが、商品をつくり出しはしない。


商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。


しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は、封建領主のために年貢の穀物を生産し、僧侶のために十分の一税の穀物を生産した。


しかし、年貢穀物も十分の一税穀物も、それらが他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。


商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に、交換を通して移されなければならない。} 最後に、どんな物も、使用対象〔フランス語版では「有用物」〕であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働もまた無用であり、労働としては数えられず、したがってなんらの価値も形成しない。


(11a) 第四版への注。私が括弧内の文句を書き入れたのは、この文句がないために、生産者以外の人によって消費される生産物はすべて、マルクスによって商品とみなされるかのような誤解が非常にしばしば生じたからである。――F・エンゲルス。



(56)

第二節商品に表わされる労働の二重性

最初に、商品は、二面的なものとして、すなわち使用価値および交換価値として、われわれの前に現われた。


のちには、労働もまた、それが価値に表現される限りでは、使用価値の生みの母としての

労働に属するのと同じ特徴を、もはやもっていないということが示された。商品に含まれる労働のこの二面的性質は、私によってはじめて批判的に指摘されたものである。


この点は、経済学の理解にとって決定的な点であるから、ここで立ち入って説明しておこう。

(11) カール・マルクス『経済学批判』、一二、二三ページ [邦訳『全集』、第一三巻、二O、二一ページ】、そのほか各所。


二つの商品、たとえば一着の上着と一○エレのリンネルをとってみよう。前者は後者の二倍の価値をもつものとすれば、10エレの リンネル=W のとき、1着の上着I= 2 W である。


上着は、一つの特殊な欲求を満たす一つの使用価値である。それをつくり出すためには、一定の種類の生産的活動が必要である。


この活動は、その目的、作業様式、対象、手段、および結果によって規定されている。その有用性がこのようにその生産物の使用価値にーまたはその生産物が使用価値であるということに――表わされる労働を、われわれは簡単に有用的労働と呼ぶ。


この観点のもとでは、労働はつねにその有用効果との関連で考察される。


上着とリンネルとが質的に異なる使用価値であるのと同じように、それらの定在を媒介する労働も質的に異なるもの――裁縫労働と織布労働である。


もしもこれらの物が質的に異なる使用価値ではなく、したがって質的に異なる有用的労働の生産物でないとすれば、それらはおよそ商品として相対することができないであろう。


上着が上着と交換されることはなく、同じ使用価値が同じ使用価値と交換されることはない。72ページ行目


2021年11月3日水曜日

第36回資本論の学習 第1篇 商品と貨幣 新日本 68ページから70ページ1行目まで

 第36回資本論の学習 第1篇 商品と貨幣 新日本 68ページから70ページ1行目まで



(11) カール・マルクス『経済学批判』、六ページ[邦訳『全集』、第一三巻、一六ページ。そこでは冒頭が「交換価値としては」となっている]。


第1篇商品と貨幣

それゆえ、ある一つの商品の生産に必要とされる労働時間が不変であれば、その商品の価値の大きさは不変のままであろう。しかし、その労働時間は、労働の生産力が変動するたびに、それにつれて変動する。


労働の生産力は、いろいろな事情によって規定され、とりわけ、労働者の熟練の平均度、

科学とその技術学的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模とその作用能力によって、さらには自然諸関係によって、規定される。たとえば、同じ分量の労働でも、豊作のときには八ブッシェルの小麦に表わされ、凶作のときにはただ四ブッシェルの小麦に表わされるにすぎない。


同じ分量の労働でも、豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を供給する、等々。ダイャモンドは地殻にはめったに見られないので、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。


そのため、ダイヤモンドはわずかな体積で多くの労働を表わすことになる。ジェイコブは、金がかつてその全価値を支払われたことがあるかどうかを、疑っている。


このことは、ダイヤモンドにはいっそうよくあてはまる。エッシュヴェーゲによれば、一八二三年の時点で、ブラジルのダイヤモンド鉱山の過去八〇年間の総産出高は、ブラジルの砂糖農園またはコーヒー農園の一年半分の平均生産物の価格にも達していなかった。


ダイヤモンドの総産出高がはるかにより多くの労働を、それゆえ、より多くの価値を表わしていたにもかかわらず、そうだったのである。


もしももっと豊かな鉱山があれば..同じ労働分量はもっと多くのダイヤモンドに表わされ、ダイヤモンドの価値は下がるであろう。もしもほんのわずかの労働で石炭をダイヤモンドに変えることに成功すれば、ダイヤモンドの価値は煉瓦の価値以下になりうる。


一般的に言えば、労働の生産力が大きければ大きいほど、ある物品の生産に必要とされる労働時間はそれだけ小さく、それに結晶化される労働量はそれだけ小さく、その価値はそれだけ小さい。


逆に、労働の生産力が小さければ小さいほど、ある物品の生産に必要な労働時間はそれだけ大きく、その価値はそれだけ大きい。


すなわち、一商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の分量に正比例し、その労働の生産力に反比例して、変動する。


*1 [W・ジェイコブ『貴金属の生産および消費についての歴史的研究』、第二巻、ロンドン、一八三一年、

101ページ]

*2 [H・メリヴェイル『植民 および 植民地についての講義』、第一巻、ロンドン、一八四一年、五二ペー

ジ]

*3 [初版では次の句が続く。「われわれは いまや価値の実体を知っている。それは労働である。われわれは価値の大きさの尺度を知っている。それは労働時間である。価値にたいしてまさに交換価値の刻印を押す価値の形態は、まだこれから分析しなければならない。しかし、その前に、すでに見いだされた諸規定を、やや立ち入って展開しなければならない♪


ある物は、価値であることなしに、使用価値でありうる。人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合がそれである。たとえば、空気、処女地、自然の草原、原生林などがそうである。

70ページ1行目まで


2021年11月2日火曜日

第35回 資本論の学習 第1篇商品と貨幣 新日本66ページから68ページ1行目まで

 第35回 資本論の学習  2021年11月2日10月31日投開票 衆議院選挙選挙は与党が安定多数となる294議席自民251、公明32となり、立民は96 維新が41と躍進しました。

京王線で24歳の男が乗客に斬りつける事件がありました。仕事で失敗、失業中ということでした。16人に怪我をさせたそうです。


資本論は66ページから67ページを引用しています。


第1篇商品と貨幣

価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値にわれわれをつれもどすであろうが、やはり、価値は、さしあたり、この形態から独立に考察されなければならない。


したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間的労働が対象化または物質化されているからにほかならない。では、どのようにしてその価値の大きさは はかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち 労働の、分量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。


一商品の価値がその生産のあいだに支出された労働の分量によって規定されるとすれば、ある人が怠惰または不熟練であればあるほど、彼はその商品の完成にそれだけ多くの時間を必要とするのだから、彼の商品はそれだけ価値が大きいと思われるかもしれない。


しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間的労働であり、同じ人間的労働力の支出である。商品世界の諸価値に表わされる社会の総労働力は、確かに無数の個人的労働力から成り立っているけれども、ここでは同一の人間的労働力として通用する。


これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をも

ち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産に平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間だけを必要とする限り、他の労働力と同じ人間的労働力である。


社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。


たとえば、イギリスで蒸(九)気織機が導入されてからは、一定の分量の糸を織物に転化するためには、おそらく以前の半分の労働で足りたであろう。


イギリスの手織工はこの転化のために実際には以前と同じ労働時間を必要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、いまではもう半分の社会的労働時間を表わすにすぎず、それゆ

え、以前の価値の半分に低下したのである。


(54) したがって、ある使用価値の価値の大きさを規定するのは、社会的に必要な労働の分量、またはその使用価値の生産に社会的に必要な労働時間にほかならない。


 個々の商品は、ここでは一般に、それが属する商品種類の平均見本として通用する。それゆえ、等しい大きさの労働分量が含まれている、または同じ労働時間で生産されうる、諸商品は、同じ価値の大きさをもつのである。


一商品の価値と他のすべての商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間との比に等しい。「価値としては、すべての商品は、一定量の凝固した 労働時間にほかならない」。

(10)

(1)


(九) 第二版への注。「諸使用対象〔原文では「生活必需品〕が互いに交換される 場合のそれらの価値は、それらの生産に必ず必要とされ、普通に充用される労働の分量によって規定される」(『貨幣の利子一般、およびとくに公債の利子にかんする若干の考察』、ロンドン、三六、三七ページ)。注目に値する前世紀のこの匿名の著作には刊行年が記されていない。しかし、その内容からして、ジョージ二世治下、おそらく一七三九年か一七四〇年に刊行されたことは明らかである。

(10) 「およそ同じ種類の生産物は、本来ひとかたまりを なしていて、その価格は、一般的に、かつ特殊的事情を考慮することなく决定される。(ル・トローヌ前出八九三ページ

68ページ行目まで


2021年10月27日水曜日

第34回資本論の学習 第1篇商品と貨幣

第34回資本論の学習

第1篇商品と貨幣
この共通なものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。そもそも商品の物体的諸属性が問題になるのは、ただ、それらが商品を有用なものにし、したがって使用価値にする限りでのことである。

ところが、他方、諸商品の交換関係を明白に特徴づけるものは、まさに諸商品の使用価値の捨象である。この交換関係の内部では、一つの使用価値は――それが適当な比率で存在していさえすれば他のどの使用価値ともまったく同じものとして通用する。

あるいは、老バーボンが言うように、

「一つの種類の商品は、その交換価値が 同じ大きさならば、他の種類の商品と同じである。同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには、いかなる相違も区別も実存しない」。
使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、一原子の使用価値も含まない。

(八)「一つの種類の商品は、その交換価値が 同じ大きさならば、他の種類の商品と同じである。同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには、いかなる相違も区別も実存しない。 :100ポンド・スターリング
の価値がある鉛または鉄は、100ポンド・スターリングの価値がある銀および金と同じ大きさの価値をもっ」(N・バーボン、前出、五三ページ、七ページ 〔最初と最後の文は五三ページ、中間の文は七ページから引用されている)。

そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残っているのは、一つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。しかし、労働生産物もまたすでにわれわれの手で変えられている。

もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば、われわれは、労働生産物を使用価
値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性状はすべて消し去られている。

それはまた、もはや、指物労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格とともに、労働生産物に表わされている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまたこれらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、互いに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間的労働、すなわち抽象的人間的労働に還元されている。

そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。

これらの物が表わしているのは、もはやただ、それらの生産に人間的労働力が支出されており、人間的労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値―商品価値である。
(53) 諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現われた。そこで、労働諸生産物の使用価値を現実に捨象すれば、いままさに規定されたとおりのそれらの価値が得られる。

したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表わしている共通物とは、商品の価値である。研究の進行は、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値に我々を連れ戻すであろうが、やはり、価値は、さしあたり、この形態から独立に考察されなければならない‥66ページ2行目まで

2021年10月25日月曜日

第33回 資本論の学習 第1篇 商品と貨幣 第1章 第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値(価値の実体 価値の大きさ)p621行目~63末まで

 第33回 資本論の学習 第1篇 商品と貨幣 第1章 第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値(価値の実体 価値の大きさ)p621行目~63末まで


それは、時と所とともに絶えず変動する関係である。それゆえ、交換価値(51)

は、なにか偶然的なもの、純粋に相対的なもののように見え、したがって、商品に内的な、内在的な、交換価値(固有価値)というものは、一つの形容矛盾"に見える。事態を、もっと詳しく考察してみよう。


(六)「価値とは、ある物と他の物とのあいだに、ある生産物の一定量と他の生産物の一定量とのあいだに、成立する交換関係である」(ル・トローヌ『社会的利益について』、[所収】デール編『重農主義学派』、パリ、一八四六年、八八九ページ)。


(七)「どんな物も内的な交換価値というものをもつことはできない」(N・バーボン、前出、六ページ)。あるいは、バトラーが言っているように、

「ある物の価値は、ちょうどそれがもたらすであろうだけのものである」。


*1 [「丸い三角形」のように、そのものの概念に矛盾する形容詞がつくこと]


*2 [一七世紀イギリスの諷刺詩人サミュエル・バトラーの詩『ヒューディブラス』、第二部、第一歌、四六五ー四六六行の言い換え]


ある特定の商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などと、要するにきわめてさまざまな比率で他の諸商品と交換される。


だから、小麦は、ただ一つの交換価値をもっているのではなく、いろいろな交換価値をもっている。


しかし、x量の靴墨もy量の絹もz量の金なども、どれも一クォーターの小麦の交換価値であるから、x量の靴、y量の絹、z量の金などは、互いに置き換えうる、または互いに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。


それゆえ、こういうことになる。第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。


しかし、第二に、交換価値は、一般にただ、それとは 区別されうる ある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。


* 〔イギリスの体積単位。一クォーターは八英ブッシェル。約二九二リットルにあたる]


さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。それらのものの交換比率がどうであろうとも、この比率は、つねに、ある与えられた分量の小麦がどれだけかの分量の鉄に等置される一つの等式、たとえば、1クオータの小麦=aツエントナーの鉄によつて表される。Iこの等式はなにを意味するか? 同じ大きさの一つの共通物が、二つの異なった物のなかに、すなわち一クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、実存するということである。


したがって、両者は、それ自体としては一方でもなければ他方でもないある第三のものに等しい。したがって、両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第三のものに還元されうるものでなければならない。


* [ドイツの質量単位。一ツェントナーは五Oキログラム]

簡単な幾何学上の一例がこのことを明らかにするであろう。およそ直線形の面積をはかり、比較するためには、それをいくつかの三角形に分解する。


三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現―底辺×高さ÷2 ーに還元される。これと同じように、諸商品の諸交換価値もある共通物に還元されて、諸交換価値は、この共通物の多量または少量を表わすことになる。




2021年10月24日日曜日

第32回 資本論の学習 第1章 商品 第1篇 商品と貨幣

 第32回 資本論の学習 第1章 商品 第1篇 商品と貨幣

前回から時間が経過しているので、新日本版で、はじめから出直します。ほとんどが引用となります。注意書きで詳しく解説されていることもあるので、学習のためには参考になるでしょう。



資本論 カール・マルクス  新日本出版社




第一篇商品と貨幣

第一章商品

第一節商品の二つの要因

-使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)


資本主義的生産様式が 支配している 諸社会の富は、「商品の巨大な集まり」(1)として現われ、個々の商品はその富の要素形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。


(1) カール・マルクス『経済学批判』、ベルリン、一八五九年、三ページ[邦訳『全集』、第一三巻、一三ページ】。


商品は、なによりもまず、その諸属性によってなんらかの種類の人間的欲求を満たす一つの物、一つの外的対象、である。これらの欲求の性質、すなわち欲求がたとえば胃袋から生じるか想像から生じるかということは、事態をなんら変えない。ここではまた、どのようにして物が人間的欲求を満たすか―直接に生活手段として、すなわち享受の対象としてか、それとも、回り道をして、生産手段としてか――ということも問題ではない。



(Ⅱ)「願望は欲求を含む。それは精神の食欲であり、肉体にとって空腹が自然的であるように、自然的である。

大多数(の物)は、精神の欲求を 満たす ところから、その価値をもつのである」(ニコラス・バーボン

『新貨幣をより軽く鋳造することに関する一論。ロック氏の諸考察に答えて』、ロンドン、一六九六年、二、三ページ)。


鉄、紙などのような有用物は、どれも、二重の観点から、質および量の観点から、考察されなければならない。このような物はどれも、多くの属性からなる一つの全体であり、それゆえ、さまざまなの面で有用でありうる。これらのさまざまな面と、それゆえ物のいろいろな使用の仕方とを発見することは、歴史的な行為である。有用物の量をはかる社会的尺度をみつけ出すこともそうである。諸商品尺度の相違は、一部は、はかられる対象の性質の相違から生じ、一部は、慣習から生じる。


(三)「諸物は一つの内的な値打ち」(これはバーボンにあっては使用価値を表わす独自な表現である)「をもっている。すなわち、諸物はあらゆる場所で同じ値打ちをもっている。たとえば、磁石が鉄を引きつけるというようにである」(バーボン、前出、六ページ)。鉄を引きつけるという磁石の属性は、それを通して磁石の両極性が発見されたとき、はじめて有用になった。

(四)

ある物の有用性は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体の諸属性によって制約されており、商品体なしには実存しない。それゆえ、鉄、小麦、ダイヤモンドなどのような商品体そのものが、使用価値または財である。商品体のこの性格は、その使用上の諸属性を取得するために人間が多くの労働を費やすか、少しの労働を費やすかにはかかわりがない。使用価値の考察にさいしては、一ダースの時計、一ェレのリンネル、一トンの鉄などのようなその量的規定性がつねに前提されている。諸商品の諸使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(五)。使用価値は、使用または消費においてのみ、実現される。使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態においては、それは同時に交換価値の素材的担い手をなしている。



(四)「どんな物の自然的·値打ち,も、人間生活の必要を満たしたり便宜に役立ったりするその適性にある」

(ジョン・ロック「利子引き下げ[……]の諸結果にかんする若干の考察』、一六九一年、所収『著作集』、ロンドン、一七七七年版、第二巻、二八ページ [田中正司・竹本洋訳『利子・貨幣論』、東京大学出版会、六四ページ)。 一七世紀においても、イギリスの著述家たちのあいだで、使用価値として Worth が、交換価値として Value が用いられているのを しばしば見受けるが、これは、直接的な物をゲルマン語で、反省された物をロマンス語で、表現することを好む国語の精神にまったく一致している。


(五) ブルジョア社会では、各人は 商品の買い手として百科全書的な 商品知識をもっているという“擬制」が支配的に行なわれている。


*1 〔長さの古い単位。地域によって異なりプロイセンでは六六.六九センチメートル】

#2 [ラテン語から派生した言語で、イタリア語、スペイン語、フランス語など]


交換価値は、さしあたり、一つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち比率として現れる p621行目



2021年8月7日土曜日

第31回資本論の学習 マルクス「資本論」第1巻 向坂逸郎役 岩波書店 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第1節商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)

 第31回資本論の学習  マルクス「資本論」第1巻 向坂逸郎役  岩波書店  第1篇商品と貨幣

第1章 商品  第1節商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)


資本のの学習8月になって初めての投稿となりました。オリンピックが始まったのでついついオリンピックを見てしまい時間が過ぎていきました。


今回鈴木ということで第一編の商品と貨幣46ページの1行目から48ページ1行目までとしました 。


商品として時計、麻布、鉄また靴墨、絹、金、小麦、 ダイヤモンドなどが出てきます。まだ表面的なところで、資本主義市場で取り扱われている現状を出しているところです。 



貨幣をより軽く改鋳することにかんする論策。 ロック氏の「考察」に答えて』ロンドン、一六九六年、二・三ページ)。

鉄、紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の観点から考察さるべきるのである。このようなすべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したがって、いろいろな方面に役に立つことができる。


物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、歴史的行動である。有用なる物の 量をはかる社会的尺度を見出すことあまたそうである。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには伝習から生ずる。


(三)「物は内的な特性(vertue これはバーボンにおいては使用価値の特別な名称である)をふっている。物の特性はどこに行ってら同一である。例えば、磁石は、どこにいって$鉄を引きつける」(同上、六ページ)。磁石の鉄を引きつける属性は、がその性質を利用して磁極性を発見するにいたって初めて有用となった。


一つの物の有用性〔すなわち、いかなる種類かの人間の欲望を充足させる物の属性。ーカウツキー版]は、この物を使用価値にする。しかしながら、この有用性は空中に浮かんでいるものではない。それは、商品体の属性によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。だから、商品体自身が、鉄、小麦、ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨である。


このような商品体の性格は、その有効属性を取得することが、人間にとって多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものか、ということによってきまるのではない。使用価値を考察するに際しては、つねに、一ダースの時計、一ェレの亜麻布、一トンの鉄等々というように、それらの確定した量が前提とされる。


商品の使用価値は特別の学科である商品学の材料となる。使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれがこれから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時に―交換価値の素材的な担い手をなしている。


(四)「あらゆる物の自然価値(natural worth)とは、必要なる欲望を充足させ、あるいは人間生活の快適さに役立つ、物の適性の ことである」(ジョン・ロック『利子低下の諸結果にかんする若干の考察』一六九一年、『著作集』版、ロンドン、一七七七年、


第二巻、二八ページ)。第一七世紀において、まだしばしばイギリスの著述家の間に,Worth“ を使用価値の意味に、,Value"を交換価値の意味に、用いるのが見られる。全く、直接的の事物をゲルマン系語で、反省的事物を口ーマン系語で言い表わすことを愛する言語の精神にもとづくのである。


(五) ブルジョア社会においては、すべての人は商品の買い手〔アドラツキー版には売り手。ェンゲルス版・カウツキー版・英語版・フランス語版およびディーツ版『全集』ではすべて買い手となっている。……訳者]として、百科辞典的商品知識をのっているという法的擬制(fictio juris)が、当然のことになっている。

.


交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される。比.率として、すなわち、時とところとにしたがっ、絶えず変化する(偶然の、||カウツキー版]関係として、現われる。


したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値(valeur intrinseque)というようなのは、一つの背理(contradictio in adjecto) のように思われる。われわれはこのことをもっと詳細に考察しよう。

(六)「価値は一つの物と他の物との間、


一定の生産物の量と他のそれの量との間に成立する交換関係である」(ルトゥローヌ

『社会的利益について』、『重農学派』デール版、パリ 一八四六年、八八九ページ)。


(七) 「どんな物でも内的価値というようなものをあつことはできない」(N・バー ボン『新貨幣をより軽く改鋳することに かんする論策』六ペ ー ジ)、またはバットラのいうように、

「物の価値なるものはそれがちょうど持ち来すだけのものである。」


一定の商品、一クォーターの小麦は、例えば、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値を持っている。48ページ1行目



2021年7月18日日曜日

第30回「資本論」の学習

 第30回「資本論」の学習



第一篇 商品と貨幣 

 第一章商品 

第一節商品の二要素使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)


第1章商品 

第一篇 

  資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個寿の商品はこの富の成素形 態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。 

(一)(こカール・マルクス『経済学批判』ベルリン、一八五九年、ーニページ「ディーッ版『全集』第二二巻、一五ページ。邦訳、武 田隆夫等共訳、岩波文庫版、ーニページ。新潮社版『選集』第七巻、五七ページ〕。

 

商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その属性によって人間のなんらかの種類の欲望を充足させるーつの 物である。これらの欲望の性質は、それが例えば胃の肺から出てこようと想像によるものであろうと、ことの本質を 少しも変化させない。ここではまた、事物が、直接に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるい は迂路をへて生産手段としてであれ、いかに人間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。 



(二)「願望を持つということは欲望を含んでいる。それは精神の食欲である。そして体に対する飢餓と同じように自然的のものである。・・・大多数(の物)な価値を有するのは、それが精神の欲望を充足させるからである」(ニコラス・バーボン


2021年7月5日月曜日

第29回『資本論』の学習 序文 P36 1行目~ 415行目

 第29回『資本論』の学習 序文 P36 1行目~ 415行目



この増大は少しも、労働する人々の状態にはかかわりありません。私が描いた、そしてそれを正確な報告に基づいていると信じているこの増大は、全く所有階級に限られております。」(That is the state of the case as regards the wealth of this country. I must say for one, I should look almost with apprehension and with pain upon this

intoxicating augmentation of wealth and power, if it were my belief that it was confined to classes who are in

easy circumstances. This takes no cognizance at all of the condition of the labouring population. The augmenta-tion I have described and which is founded, I think, upon accurate returns, is an augmentation entirely confined

to classes of property.“)


かくして、グラッドストーンはここではこういっている。もしそういう風であるとすれば、自分にとって遺憾である。しかし、その通りである。すなわち、この目を奪うような権力と富の増大は、全く所有階級にかぎられている。そしてこの半官的なハンサードについていえば、マルクスはさらにこう述べている。「ここに後から拙劣にまとめ上げたハンサードの版では、グラッドストーン氏は、いうまでなくイギリスの大蔵大臣の言葉として、困るような個所を誤魔化すほどに、分別のある人であった。むろんこのことは伝来のイギリスの議会の習慣であって、決してベーベルに対するラスケル君の発明なのではなかった」と。

かの匿名君はますます憤激する。彼の回答『コンコルディア』の七月四日号では、二流の資料を傍に押しやりながら、彼は、はじらいつつ、こういうことをほのめかす。すなわち、議会演説を速記録によって引用するのが「慣習」である。しかし『タイムズ』の報道(その中に「偽作して付け加えられた」文句がある)とハンサードのそれ(その中にはか

の文句はない)は、「実質的には完全に一致している」。そして同じく『タイムズ』の報道ち、「創立の辞のかの悪評の個所と正反対のこと」を含んでいると。この場合、この匿名君は用心深く、この報道がこのうわべで「正反対のこと」


とともに、まさに「かの悪評の個所」を明らかに含んでいることについては、黙っている! いろいろとやってはみるが、匿名君は、彼の動きのとれなくなっていること、そして新しい道辞よりほかに彼を救うもののないことを感じている。したがって、彼はいままさに立証されたその「厚顔な虚偽」にふくらんでいる論文に、教訓にみちた罵声をまぜこむ。例えばこんな風に、「悪意」「不正直」「偽作の報道」「かの偽作引用」「厚顔なる虚偽」「全く偽造された引用」「このような偽作」「全く恥ずべき」等々。こういう風に出るとともに、他方、彼は、争点を他の領域にうつすことを必要と考える。そこで、「第二の論文で、われわれ(この偽りをいわない匿名君)はグラッドストーンの言葉の内容に、どんな意味を読みとるべきかを論ずる」と約束する。彼のきめてにもならぬ意見が、何か事柄そのものを、少し

でも左右するかのように! この第二の論文は『コンコルディア』の七月一一日号に載っている。

 

 マルクスはいま一度『人民国家』八月七日号でこれに回答した。今度は問題の個所の報道を『モーニング・スタI』と『モーニング・アドヴァタイザー』の一八六三年四月一七日号からとって来たのであった。 この両者によればグラッドストーンは、こう述べている。自分は心を痛め…ながら、この目を奪うような富と権力の増大を眺めるであろう。おしそれが現実に富裕なる諸階級(classes in easy circumstances) に限られていると考えれば。しかして、この増大は財産をやっている諸階級に限られている (entirely confined to classes possessed of property)と。だから、この報道めいわゆる「偽作して付け加えられた」文句を言葉どおりに示している。さらに彼は、いま一度『タイムズ』とハンサードの原文を比較して、こう確証している、すなわち、すぐ次の朝発行された三つの、相互に独立し同文に

なっている新聞報道によって、実際に語られたことが確認された文句は、人のよく知る「慣習」によって校訂されたハンサードの報道に載っていないということ、グラッドストーンはマルクスの文章にあるこの文句を「後ですばやく盗み去った」ということである。そしてマルクスは最後に、自分はこの匿名君とこれ以上やりとりする暇がないということを宣言している。(p38 1行目まで)


 この匿名君も、こで満足したと見えて、少なくともマルクスは『コンコルディア』のその

版後の諸号を受け取らなかった。これをるって事件は死滅し、埋葬されたように見えた。むろん、その後一両度はケンブリッジ大学に関係ある人々から、マルクスが『資本論』の中で犯したという言うに耐えない文献的犯罪について、ひそやかな噂がわれわれに伝わってきた。しかしながら、いろいろと調査されたにもかかわらず、よりはっきりしたことは全然きかれなかった。そのとき、一八八三年一一月二九日、マルクスの死後八ヶ月になったとき、『タイムズ』に一つの書簡があらわれた。ケンブリッジのトゥリニティ・カレッジ発信になっていた。そしてセドリ・テイラーと署名されていた。この書簡の中で、思いがけない機会に、この馴合いの共同行為に出る人物が、ケンブリッジの耳語にかんしてだけでなく、『コンルディア』の匿名君についても、ついにわれわれに説明を与えてくれた。


 トゥリニティ・カレッジの人物はこういっている。「きわめて奇妙に思われるのは、明白にグラッドストーンの演説からの引用を(創立の)辞の中に口授した悪意の暴露を、…ブ レンターノ教授(当時ブレスラウ、現にシュトラスブルク)のほかに誰やらなかったということである。この引用を弁護しようとした……カール・マルクス氏は、ブレンターノのたくみに行なった攻撃が、彼を急速におしつめていった断末魔で、厚かましくもこう主張した。すなわち、グラッドストーン氏は一八六三年四月一七日付『タイムズ』の彼の演説の報道に、それがハンサードに表われる前に拙い手細工を加えた。もちろんイギリスの一大蔵大臣にとって困る個所を不手際に取り除くためであるというのである。ブレンター ノが詳細にわたる原文の比較によって、『タイムズ』の報道とハンサードのそれは、狡猾に脈絡を切り離した引用でグラッドストーンの文句に押し込まれた意味を一切取り除けば、一致するものであることを立証したとき、マルクスは、暇がないという口実で退却した!」

 

すなわち、これがお化けの正体であった! そして「コンコルディア』におけるブレンターノ氏の匿名の征戦は、ケンブリッジの生産共同組合的幻想に、このように輝かしく反映したのであった! 彼はこのようにうまく陣をしき、そして彼は「たくみに行なった攻撃」で、このように見事にその剣をふりまわした、このドイツ工場主連盟の聖ジョージは。すると悪竜のマルクスは、彼の足もとで「たちまちのたうちまわって」息絶える!だが、このアリオスト的戦闘描写は、全部、わが聖ジョージの遁辞を蔽うのに役立つにすぎない。ここではちはや

「偽作して付け加えること」や「偽造」については問題でなくなって、「狡猾に脈絡を切り離した引用」(craftily iso-lated quotation) が問題となっている。問題全体がすりかえられてしまった。そして聖ジョージとそのケンブリッジの小姓とは、なぜそうなったかをきわめて正確に知った。


 "エリナ・マルクスは、『タイムズ』が掲載を断わったので、一八八四年二月の月刊誌『現代』で答えた。そこで彼女は、論争を問題となっている次の一点に帰着せしめた。すなわち、マルクスはその文句を「偽作して付け加えた」かどうか? ということである。これに対して、セドリ・テイラー氏はこう答えた。「一定の文句がグラッドストーン氏の演説中にあったかどうかという問題は」、自分の見解によれば、マルクスとブレンターノとの間の論戦においては、「この引用がグラッドストーンの真意を再現する意図であったか歪める意図であったかの問題に比較すると、きわめて副次的な重要さのものである」。次いで、彼は『タイムズ』の報道が「実際に文句の中に一つの矛盾を含んでいる」ということを肯定する。だが、だが、その他の関連は、自由主義的 = グラッドストーン的意義において解明すれば正しく、それはグラッドストーン氏が言おうとしたことを示していると(『現代』一八八四年三月)。このさいもっとも奇異に感じられるのは、ケンブリッジのわが小人が、いまや、演説を匿名ブ レンターノによれば「慣習」であるというハンサードによって引用しないで、この同じプ レンターノによって、「必然的に拙い細工」と言われる『タイムズ』



の報道によることを固執するということである。運命的な文句はむろんハンサードには載っていないのである!

 エリーナ・マルクスにとっては、『現代』の同じ号で、この議論のたわいもなさを示すのには骨は折れなかった。テイラー氏が一八七二年の論争を読んでいたとすれば、彼はいまや「偽作」したということになる。ただに「付け加えて」偽作しただけでなく、「はぶき去って」偽作したのだ。あるいは彼は論争を読まなかったのかもしれない。そうだとすれば、彼はだまっている義務があった。いずれにしても、彼がマルクスは「偽作して付け加えた」という彼の友人ブレンターノの訴えをば、一瞬といえども支持することをなしえなかったということは、確定的となった。ところが反対に、マルクスはいまや偽作して付け加えたのではなく、重要な文句をかくしてしまったというのである。しかし、この同じ文句は創立の辞の五ページに、「偽作して付け加えた」といわれる文句の数行前に引用してある。そしてグラッドストーンの演説中の「矛盾」についていえば、『資本論』六一八ページ (第三版六七二ページ)注一〇五[ディーツ版、六八二ページ。向坂訳、八一九一八二〇ページで「一八六三年と一八六四年のグラッドストーンの予算演説中にひっきりなしにあるまぎれもない矛盾」について述べているのは、ほかならぬマルクスではないか!ただ彼はセドリ・テイラー風に、これを自由主義的の快い結末に解消しようと企てないだけである。こうして、E・マルクスの回答中の結論は、要約してこういっている、「逆だ。マルクスは何か引用に値するものを包みかくしるしなければ僅かのことでや偽作して付け加えるようなことをしたのでもなかった。しかし彼は、グラッドストーンの演説の一句で、疑いもなく語られたのではあるが、どういうわけかーハンサードから何処かに出て行ってしまったのを、再編し、忘却を免れしめたのである」と。

 セドリ・テイラー氏も、こうしてこれで満足した。二〇年かかって二大国の間に続けられた大学教授的全紛争の結末は、こうであった。すなわち、もはや人はマルクスの文献上の良心に触れることをあえてしなかったこと、しかしてそれ以後、セドリ・テイラー氏は、おそらくブレンダーノ氏の文献的争開記事に、ブレンタノ氏は同様にハンサードの教皇的不過誤性に、信を置かないであろうということ、これである。


                ロンドンにて

                一八九〇年六月二五日

                  F・エンゲルス









2021年7月3日土曜日

第28回 「資本論」の学習 序文 第4版2 34ページ1行目から

 





第28回 「資本論」の学習    序文  第4班2  34ページ1行目から 


* この版では、弓カッコに入れ、F・Eという印を附してある。 -ディーツ版編集者。

かれこれする内に、英語版を刊行しようとすると、多数の引用文を完全に改訂するということが必要となった。この英語版には、マルクスの末娘であるエリナが、引用された個所全部を原本と比較する仕事を引き受けてくれた。

だから、イギリスの資料によるきわめて多い引用文を、英語版ではドイツ語から逆に翻訳するということをせずに英語の原文そのものを出すということになった。したがって、この原歳を第四版で参考にするということが、私の責務となった。そのばあい、時としてすこし不正確な個所が見出された。参照ジが間違えてあった。あるいは帳面から写す時に書き間違えた場合もあり、あるいは三つの版の間にかさなった誤植もあった。引用符を間違ってつたり、脱落があったりした。これは抜萃帳からたくさん引用するばあいに避けがたいことである。そこここに少数ではあるが、不適当な訳語があった。いくつかの個所は、ふるいパリ時代の帳面(一八四三―四五年)から引用されている。かの地ではマルクスはな希英語を解せず、イギリスの経済学書をフランス語訳で読んだ。そのために、このばあい重

訳になっていて、語調に軽い変化がある。例えばステュアート、ユア等のばあいである。――これらのばあいには、いまなら英語の原文を利用したはずである。そしてそのほかに、これに類する多少の不正確さや粗漏がある。いま第四版をそれ以前の版と比較すると、この巻でこのような厄介な訂正をしたのではあったが、すこしも目立った変更はなされていないと確信する。ただ一つの引用文だけは発見できなかった。それはリチャード・ジョーンズからの引用である(第四版、五六二ページ、注四七〔ディーツ版、六二五ページ。向坂訳、七五○|七五一ページ])。 マルクスは、おそらくこの書の表題を書きちがえているのであろう。他の一切の引用文は完全なる立証力をもっているか、あるいは立証力を現在の正確な形で強めている。


 しかし、ここで私は一つの旧い物語に帰らなければならない。

すなわち、私はマルクスの引用の正しさが疑われたただ一つのばあいを知っている。しかしながら、この件はマルクスの死後まで作用を及ぼしたのであるから、ここでこのことに触れないですますわけにはいかない。

ドイツの工場主連盟の機関誌であるベルリンの『コンコルディア』の一八七二年三月七日号に、「マルクスはいかに引用しているか」という匿名の論文があらわれた。この論文で、道徳的憤激と非儀礼的表現をあふれるほどに注いで、一八六三年四月一六日のグラッドストーンの予算演説からの引用(一八六四年の国際労働者協会の創立の辞ディーツ版『全集』第一六巻、三ー一三ページ。新潮社版『選集』第九巻、一七三ページ]および繰り返して『資本論』第一巻、第四版六一七ページ、第三版六七〇一六七一ページ[ディーツ版、六八〇一六八一ページ。向坂訳、八一六一八一八ページ])が偽作だと主張された。「この目を奪うような富と権力の増大は……全く所有階級に限られております」という文章は、

一語といえどちハンサードの(半官的)速記録には載っていない。「しかして、この文章はグラッドストーンの演説のどこにもない。演説で言われているのは、まさにその反対のことである。(以下肉太の文字で) マルクスはこの文章を付け加えて、形式的に実質的にも偽作した!」

『コンコルディア』のこの号が、マルクスに次の五月に送られてきたので、彼はこの匿名者にたいして六月一日の『人民国家』紙上で答えた。彼は、どの新聞報道によって引用したかを思い出せなかったので、同じ意味の引用文をまず二種のイギリスの刊行物中から証明し、ついで『タイムズ』の報道を引用することにとどめた。これによればグラッドストーンはこう述べている。「この国の富にかんしていえば、事情はこうなっております。私は私自身としては、こう申し述べなければなりません。この目を奪うような富と権力の増大は、現実に富裕なる階級にのみ限られていると信ずるのでありますが、これにたいして、私は、心痛と苦悩ともいうべきものをもって見なければなりません。p361行目



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『資本論』の学習第234回第3巻資本主義的生産の総過程第1部第5篇利子と企業者利得地への利潤の分割。 利子付き資本第25 章 信用と空資本

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