第39回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章商品 第2節商品に表される労働の2重制
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分析にさいして人間精神が繰り返し見いだす唯一の要素である。土地、空気、および水が畑で穀物に変えられたり、あるいはまた、なにかある昆虫の分泌物が人間の手によって絹に変えられたり、あるいは、いくつかの金属片が組み立てられて時打ち懐中時計がつくられたりするとすれば、価値」(使用価値のことである。
もっとも、ヴェッリは、重農主義学派にたいするこの論争において、自分がどちらの種類の価値について語っているのか、自分でも よくわかっていない。)「および 富の再生産についても、事情は同じである」(ピエートロ・ヴェッリ『経済学にかんする諸考察』――初版は一七七一年――クストーディ編『イタリア古典経済学者』叢書、近代篇、第一五巻〔ミラノ、一八〇四年〕、二一、二二ページ)。
* 〔ペティ『租税貢納論』、ロンドン、一六六七年、四七ページ。大内 兵衛・松川 七郎訳、岩波文庫、一一九ページ]
そこで、こんどは、使用対象である限りでの商品から、商品価値に移ろう。
われわれの想定によれば、上着はリンネルの二倍の価値をもっている。もっとも、これは量的な区別にすぎず、この区別はさしあたりまだわれわれの問題ではない。
そこで、われわれは、一着の上着の価値が一〇ェレのリンネルの価値の二倍であれば、二〇エレのリンネルは一着の上着と同じ価値の大きさをもつということを思い出そう。
価値としては、上着とリンネルとは同じ実体をもつ物であリ。
同種の労働の客観的表現である。ところが、裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる労働である。とはいえ、ある社会状態においては、同じ人間が裁縫労働と織布労働とをかわるがわる行ない、したがって、この二つの異なる労働様式は同じ個人の労働の諸変形にすぎず、まだ異なる諸個人の特殊な固定的な職能にはなっていないことがある。
それは、ちょうど、わが裁縫師がきょう仕立てる上着とあす仕立てるズボンとが同じ個人的労働の変化を前提するにすぎないのとまったく同じである。さらに、一見してわかるように、われわれの資本主義社会においては、労働需要の方向が変化するにつれて、それに応じて、一定部分の人間的労働が、あるときは裁縫労働の形態で、あるときは織布労働の形態
で、かわるがわる供給されている。
労働のこの形態変換は、摩擦なしには行なわれないかもしれないが、ともかく行なわれなければならない。生産的活動の規定性、したがって労働の有用的性格を度外視すれば、労働に残るのは、それが人間的労働力の支出であるということである。
裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる生産的活動であるにもかかわらず、ともに、人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出であり、こうした意味で、ともに、人間的労働である。
それらは、人間的労働力を支出する二つの異なった形態にすぎない。確かに、人間的労働力そのものは、それがあれこれの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。しかし、商品の価値は、人間的労働自体を、人間的労働一般の支出を、表わしている。75ページ末
ところで、ブルジョア社会では、将軍なり銀行家なりは大きな役割を演じ、これにたいして人間自体はどくみすぼらしい役割を演じているが、この場合の人間的労働もそのとおりである。
それは、平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。確かに、単純な平均労働そのものは、国を異にし文化史上の時代を異にすれば、その性格を変えるが、現に存在する一つの社会では、与えられている。
より複雑な労働は、単純労働の何乗かされたもの、またはむしろ何倍かされたものとしての
み通用し、そのために、より小さい分量の複雑労働がより大きい分量の単純労働に等しいことになる。
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