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2021年12月1日水曜日

第58回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 88ページ

 第58回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 88ページ

 


B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係


 他の諸商品は、先の一商品にたいして等価形態という単なる受動的の役割を演ずるのである。これに反して一般的価値形態は、商品世界の共通の仕事としてのみ成立するのである。


一商品が一般的価値表現を得るのは、ただ、同時に他のすべての商品がその価値を同一等価で表現するからである。そして新たに現われるあらゆる商品種は、これを真似なければならない。


このことによって、こういうことがはっきりとしてくる、すなわち、諸商品の価値対象性も

それがこれら諸物の単なる「社会的存在」であるのであるから、その全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって、その価値形態は、社会的に妥当する形態でなければならないということである。


 亜麻布に等しいものの形態において、いまではあらゆる商品が、ただに質的に等しいあの、すなわち価値一般としてだけでなく、同時に量的に比較しうる価値の大いさとして現われる。


すべての商品が、その価値の大いさを同一材料で、亜麻布で写し出すのであるから、これらの価値の大いさは、交互に反映し合うのである。例えば茶 10 ポンド=亜麻布20エレ、更にコーヒー40ポンド=亜麻布20エレしたがって、茶10 ポンド=コーヒー40 ポンド というよ

うにである。あるいは一封度のコーヒーには、ただ一封度の茶におけるものの1/4 だけの価値実体、すなわち、労働が含まれているというようにである。


 商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。


亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的な社会的な蛹化(ようか)としてのはたらきをなす。

機織という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、すなわち、他のすべての労働との等一性の形態にあるのである。


一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのもの一般的な現象形態にするのである。


このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、たんに否定的に表示されるだけではない。


それ自身の肯定的性質が明白に現われるのである。それは、すべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働力の支出に、約元したものなのである。


 労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物として表示する一般的価値形態は、それ自身の組み立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。


このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示するのである。


二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

 相対的価値形態の発展程度に、等価形態の発展程度が応ずる。しかしながら、そしてこのことはよく銘記されなければならぬのであるが、等価形態の発展は相対的価値形態の発展の表現であり、結果であるにすぎない。


ある商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的な等価にする。相対的価値の拡大された形態、一商品の価値の他のすべての商品におけるこのような表現は、これらの商品に各種の特別な等価の形態を刻印する。


最後に、ある特別な商品種が一般的等価形態を得る。というのは、他のすべての商品が、これを自分たちの 統一的一般的な価値形態の材料にするからである。


 しかしながら、価値形態一般が発展すると同じ程度で、その二つの極たる相対的価値形態と等価形態の間の対立もまた発展する。


すでに第一の形態―亜麻布 20 エレ=上衣1着1がこの対立を含んでいる。しかしまだ固定してはいない。同じ方程式が順に読まれるか、逆に読まれるかにしたがって、亜麻布と上衣というような両商品極のおのおのが、同じというように、ある相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。90ページ1行目


2021年11月30日火曜日

第57回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 86ページ

 第57回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 86ページ

 


B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥

C一般的価値形態

1 価値形態の変化した性格



上衣1着=

茶 10ポンド=

コーヒ - 40 封度=|

小麦1クォーター =

金2オンス =             亜麻布 20 エレ

鉄 1/2トン=

A商品x量=-

その他の商品量=


1 価値形態の変化した性格

諸商品は、その価値をいまでは第一に、唯一の商品で示しているのであるから、単純に表わしていることになる。

また第二に、同一商品によって示しているのであるから、統一的に表わしていることになる。それら商品の価値形態は、単純で共同的であり、したがって一般的である。


第一および第二の形態は、二つとめ、一商品の価値を、その商品自身の使用価値、またはその商品体から区別したあるのとして表現するために、生じたものにすぎなかった。


第一の形態は、上衣1着=亜麻布20 エレ, 茶 10 ポンド=鉄1/2 トン 等々というような価値方程式を作り出した。上衣価値は亜麻布に等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というような風に表現される。


しかしながら、亜麻布に等しいのと鉄に等しいもの、このような上衣び茶の価値表現は、亜麻布と鉄とがちがっているのと同じょうにちがっている。


この形態が明瞭に実際に現われるのは、ただ、労働生産物が、偶然的な、そして時折りの交

換によって商品に転化されるような、そもそも端緒においてである。

第二の形態は、第一のそれより完全に、一商品の価値を、それ自身の使用価値から区別する。なぜかというに、例えば上衣の価値は、ここではその自然形態に、あらゆる可能な形態で、例えば亜麻布に等しいものとして、鉄に等しいもの、茶に等しいもの等として、すなわちただ上衣に等しいのでないだけで、他の一切のちのに等しいものとして、相対するからである。


他方において、ここには商品のあらゆる共通な価値表現は、ただちに出来なくされている。

なぜかというに、ここでは一商品ごとに価値表現を行なって、すべての他の商品は、ただ等価の形態で現われるにすぎないからである。


ある労働生産物、例えば家畜がもはや例外的にでなく、すでに習慣的に各種の他の商品と交換されるようになると、まず拡大された価値形態が、事実上出現するのである。


新たに得られた形態は、商品世界の諸価値を、同一なる、この世界から分離された商品種で表現する。例えば亜麻布で。そしてすべての商品の価値を、かくて、その亜麻布と等しいということで示すのである。


亜麻布に等しいものとして、あらゆる商品の価値は、いまやただそれ自身の使用価値から区別されるだけでなく、一切の使用価値から区別されるのである。


そしてまさにこのことによって、この商品とあらゆる商品とに共通なるあのとして表現される。


 したがって、この形態にいたって初めて現実に、商品を価値として相互に相関係させ、またはこれらを相互に交換価値として現われさせるようになる。


 先の二つの形態は、商品の価値を唯一の異種の商品をおってするばあいと、この商品とことなる多くの商品の序列をやってするばあいとの異いはあるが、いずれにして一商品ごとに表現するのである。


両場合ともに、価値形態を与えられるのは、個々の商品のいわば私事である。そして個々の商品は他の商品の協力なしに、このことをなすのである。88ページ1行目


2021年11月29日月曜日

第56回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 84ページ

 第56回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 84ページ

 


四 単純な価値形態の総体

B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態

 ニ特別な等価形態

三総体的または拡大された価値形態の欠陥


偶然の事実であるからしれない。これに反して、第二の形態では直ちに、偶然の現象と本質的に区別され、かつこれを規定する背景が、露われている。


亜麻布の価値は、上衣で示されようと、コーヒーや鉄等々で示されようと、種々雑多な所有者に属する無数にちがった商品で示されようと、同じ大いさである。


二人の個人的な商品所有者の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大いさを規制するのでなく、逆に商品の価値の大いさが、その交換比率を規制するのであるということは、明瞭となっている。


ニ特別な等価形態


上衣、茶、小麦、鉄等々というような商品は、それぞれ亜麻布の価値表現においては、等価として、したがってまた価値体として働いている。


これらの商品のおのおのの特定なる自然形態は、いまでは多くの他の商品とならんで、一つの特別な等価形態である。同じように、各種の商品体に含まれている特定の具体的な有用な多種多様の労働種は、いまではそれと同じ数だけ、無差別の人間労働を、特別な実現形態または現象形態で示すことになっている。


三総体的または拡大された価値形態の欠陥

第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになって終わらないからである。


一つの価値方程式が、他のそれを、それからそれとつないでいく連鎖は、引きつづいてつねに、新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たに現われる商品種によって引き延ばされる。


第二に、それは崩壊しがちな雑多な種類

の価値表現の色とりどりの寄木細工をなしている。最後に、あらゆる商品の相対的価値は、この拡大された形態で表現されざるをえないのであるが、そうなると、あらゆる商品の相対的価値形態は、すべての他の商品の相対的価値形態とちがった無限の価値表現の序列である。


―拡大された相対的価値形態の欠陥は、これに相応する等価形態に反映する。すべての個々の商品種の自然形態は、ここでは無数の他の特別な等価形態とならんで、一つの特別な等価形態であるのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけであって、その中のおのおのは他を排除するのである。


これと同じように、すべての特別な商品等価に含まれている特定の具体的な有用労働種は、ただ人間労働の特別な、したがって十全でない現象形態である。


人間労働は、その完全な、または総体的な現象形態を、かの特別な現象形態の総体的広がりの中にあってはいるが、なんら統一的の現象形態をもたない。

だが、拡大された相対的価値形態は、ただ単純な相対的価値表現、または第一形態の諸方程式の総和から成っているだけである。例えば


亜麻布 20 エレ=上衣1着

亜麻布 20 エレー茶10度等々


これらの諸方程式のおのおのは、だが、両項を逆にしてる同じ方程式である、


上衣1着=亜麻布 20 エレ

茶 10 封度=亜麻布 20 エレ等々


 実際上、一人の男がその亜麻布を多くの他の商品と交換し、したがってその価値を、一連の他の商品の中に表現するとすれば、必然的に多くの他の商品所有者また、その商品を亜麻布と交換し、したがって、彼らの種々の商品の品 価値を同一の第三の商品、すなわち、亜麻布で表現しなければならぬ。


―かくて、もしわれわれが、亜麻布 20 エレ=上衣1着 =茶10 ぽんどまたは = その他というような序列を逆にするならば、すなわち、われわれが、

実際にはすでに序列の中に含まれていた逆関係を表現するならば、次のようになる。

85ページ末


2021年11月28日日曜日

第55回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 82ページ

 第55回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 82ページ

 

b 相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態

四 単純な価値形態の総体

B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態



一商品の個々の等価形態が対応している。だから、上衣は亜麻布の相対的価値表現においては、この個々の商品種たる亜麻布と関連して、等価形態、または直接的交換可能性の形態を有するのみである。


だが、個々の価値形態はおのずから、より完全な形態に移行する。この単純な形態によっては、一商品Aの価値は、ただ一つの他の種の商品に表現されるのではあるが、この第二の商品が、どんな種類の色のか、上衣か、鉄か、小麦その他の何か、というようなことは、全くどうでよいのである。


したがって、この商品がある商品種と価値関係にはいるか、それとら他の商品種と価値関係にはいるかによって、それぞれ同一商品のちがった単純な価値表現が成立する。


それらの可能な価値表現の数は、ただそれぞれちがった商品種の数によって制限されるのみである。


したがって、その商品の個別的な価値表現は、そのそれぞれちがった単純な価値表現の、いくらでも延長されうる列に転化されるのである。


(二二a) 第二版への注。例えば、ホメロスにあっては、一物の価値は、それぞれちがった物の列として表現されている。


B 総体的または拡大せる価値形態

z量商品A=u量商品B または =v量商品C または =w量商品D または =x量商品 E または =その他(亜麻布 20 エレ=上衣1着 または =茶 10 封度 または =コーヒ 40 封度 または =小麦1クォーター または=金2オンス または =鉄 1/2 トン または =その他)


1 拡大された相対的価値形態


一商品、例えば、亜麻布の価値は、いまでは商品世界の無数の他の成素に表現される。すべての他の商品体は亜麻布価値の反射鏡となる。


こうしてこの価値自身は、はじめて真実に無差別な人間労働の凝結物として現われる。


なぜかというに、価値を形成する労働は、いまや明瞭に、一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働として、表わされており、その労働がどんな自然形態をやっていようと、したがって、それが上衣に対象化せられようと、小麦や鉄または金等々に対象化せられようと、これを問わないからである。


したがって、いまや亜麻布は、その価値形態によって、もはやただ一つの個々の他の商品種と社会関係にあるだけでなく、商品世界と社会関係に立っているのである。


それは、商品としてこの世界の市民なのである。同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、その特別の形態にたいして、無関心であることになるわけである。


(二三) それゆえに、人は亜麻布の価値が上衣で示されるばあいには、亜麻布の上衣価値について語り、これを穀物で示すばあいには、その穀物価値について語ることになる、等々。上衣、穀物等々の使用価値に現われるのが、亜麻布の価値であるということを、すべてこのような表現は言っていることになる。


「あらゆる商品の価値は、〔なんらか他の商品との、……訳者]交換

におけるその比率を示すのであるから、われわれは価値について、その商品が比較される商品にしたがって、それぞれ穀物価値、 布価値. という風に語ることができるわけである。


したがってまた、それぞれちがった数千の価値種があり 商品のあるかぎり、これと同じ数の価値がある そしてすべての価値が、同じように真実であり、また同じように名目的である」(『価値の性質、尺度および原因にかんする批判的一論考、主としてリカード氏とその追随者たちの著作に関連して。


所信の形成と公表にかんする諸論の著者による』ロンドン、一八二五年、三九ページ[鈴木鴻一郎訳『リカアド価値論の批判』日本評論社、世界古典文庫、五四ページ])。S・ベイリーが、当時イギリスで大さわぎをひき起こしたこの匿名の著作の著者であるが、彼は、

このように同一商品価値の相対的表現の乱雑さを指摘することによって、価値の一切の概念規定を破壊したと妄信している。


だが、彼自身の偏狭固際に的かかわらず、リカードの理論の痛い所を探り当てていたということを、リカード学派の彼を攻撃した激昂が証明した。


例えば『ウェストミンスタ ・レヴュー』所載。亜麻布20 エレ =上衣1着という第一の形態においては、これら二つの商品は、一定の容積比率で交換されるということは、偶然の事実であるかもしれない。これに反して第2の形態では直ちに偶然の現象と本質的に区別され、且つこれを規定する背景があらわれている。84ページ2行目 


2021年11月26日金曜日

第54回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 80ページ

 第54回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 80ページ

二 相対的価値形態

a 相対的価値形態の内実 

b 相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態

四 単純な価値形態の総体



でいえば、ある商品の価値は、「交換価値」として現示されることによって、独立的に表現されている。この章のはじめに、普通に行なわれているようにべ商品は使用価値であり、また交換価値であるといったのであるが、このことは、正確にいえば誤りであった。


商品は使用価値または使用対象であり、また「価値」である。商品は、その価値が、そ

での自然形態とちがった独自の現象形態、すなわち交換価値という現象形態をとるととめに、ただちに本来の性質であるこのような二重性として示される。


そして商品は、この形態を、決して孤立して考察するばあいにやっているのでなく、つねに第二の異種の商品にたいする価値関係、または交換関係においてのみ、もっているのである。


だが、このことを知ってさえいれば、先の言い方は無害であって、簡略にするに役立つのである。われわれの分析の証明するところによれば、商品の価値形態、またはその価値表現は、商品価値の本性から出てくるので、逆に価値や価値の大いさが、交換価値としてのその表現様式から出てくるものではない。


だが、このことは、重商学派とフェリエやガニール等のような、その近代の蒸し返し屋たちの妄想であるととめに、またその対立者であるバスティアとその一派のような、近代自由貿易の外交員たちのそれでもある。


重商学派は重点を、価値表現の質的側面に、したがって、貨幣として完成された姿になる商品の等価形態に置いている―これに反して、近代自由貿易外交員たちは、その商品を、どんなにして売り払わなければならないので、重点を相対的価値形態の量的側面においている。


したがって、彼らにとっては商品の価値も価値の大いさも、交換関係を通した表現以外には存しないし、したがってただその日その日の時価表の中だけに存するのである。


スコットランド人のマクラウドは、ロンバート・ストリートのもうろうたる観念を、できるだけ博学にめかし立てることを仕事にしているが、迷信的な重商学派と啓蒙された自由貿易外交員との間をうまくまとめている。


(二二) 第二版への注。F・L・A・フェリエ(副関税検察官)、『商業にたいする関係から見た政府の考察』パリ、一八〇五年、およびシャルル・ガニイ『経済学体系』第二版、パリ、一八二一年。商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を、くわしく考察すると、その内部において、商品Aの自然形態は、ただ使用価値の姿としてのみ、商品Bの自然形態は、ただ価値形態また価値の姿としてのみはたらいていることが明らかになった。


それゆえに、商品の中に包みこまれている使用価値と価値の内的対立は、1つの外的対立によって、すなわち、1つの商品の関係によって示されている。この関係において、価値が表現さるべき一方の商品は、直接にただ使用価値としてのみ、これにたいして身をおって価値を表現する他方の商品は、直接にただ交換価値としてのみ、働いている。


それゆえに、ある商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態である。


労働生産物は、どんな社会状態においてち使用対象である。しかし、ただある歴史的に規定された発展段階のみが、一つの使用物の生産に支出された労働を、そのおのの「対象的」属性として、すなわち、その価値として表わすのであって、この発展段階が、労働生産物を商品に転化するのである。


したがって、このことから、商品の単純なる価値形態は、同時に労働生産物の単純なる商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展や価値形態の発展と一致するという結果になる。


一見すれば、すぐ単純な価値形態の不充分さがわかる。この形態は、一連の変態をへて、やっと価格形態に成熟してくる萌芽形態なのである。


なんらかの一商品Bにおける表現は、商品Aの価値を、ただそれ自身の使用価値から区別するのみであって、したがって、この商品を、ただそれ自身とちがった個々の商品種の何かにたいする交換関係に置くのみであって、他の一切の商品との質的等一性と量的比率とを示すものではないのである。

ある商品の単純なる相対的価値形態には、1商品個々の商品の等価形態が対応している。 

82ページ1行目


2021年11月25日木曜日

第53回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 78ページ

 第53回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 78ページ

二 相対的価値形態

a 相対的価値形態の内実 

b 相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態

四 単純な価値形態の総体



最初に分析した偉大なる探究者にさかのぼって見るとき、やっと解りやすくなる。それはアリストテレスである。


 商品の貨幣形態が、単純なる価値形態、すなわち、なんらか任意の他の商品における一商品の価値の表現のさらに発展した姿にすぎないということを、アリストテレスは最初に明言している。というのは彼はこう述べているからである。


「しとね5個=家1軒」(,, Knival Tèvre avril okias")ということは


「しとね5個=貨幣一定額」(,, Knival mévre avri. Scou ai nèvre Knivan)

ということと「少しゃ区別はない」と。


彼はさらにこういうことを看取している。この価値表現をひそませている価値関係は、それ自身として、家がしとねに質的に等しいとおかれるということと、これらの感覚的にちがった物が、このような本質の等一性なくしては、通約しうる大いきとして相互に関係しえないであろうということとを、条件にしているというのである。


彼はこう述べている、「交換は等一性なくしては存しえない。だが、等一性は通約し得べき性質なくしては存しえない」(goûtaorns uſ oions oursetpias")と。


しかし、彼はここで立ちどまって、価値形態を、それ以上分析することをやめている。「しかしながら、このように種類のちがった物が通約できるということ」、すなわち、質的に同一であるということは「真実には不可能である」(Tſ utv ov &Angeig &&varov*) 。


この等置は、物の真の性質に無関係なのでしかありえない、したがって、ただ「実際的必要にたいする緊急措置」でしかありえないと。


アリストテレスは、このようにして、どこで彼のそれ以上の分析が失敗しているかということについてすら、すなわち、価値概念の欠如についてすら、述べているわけである。


等一なるのは何か? すなわち、しとねの価値表現において、家がしとねに対していいあらわしている共通の実体は何か?そんなものは「真実には存しえない」と、アリストテレスは述べている。


なぜか? 家はしとねにたいしてある等一物をいいあらわしている、家が、しとねと家という二つの物で現実に同一なるめのをいいあらわしているかぎりにおいて。そしてこれが人間労働なのである。


しかしながら、商品価値の形態においては、すべての労働が等一なる人間労働として、したがって等一的に作用しているあのとして表現されているということを、アリストテレスは、価値形態自身から読み取ることができなかった。


というのは、ギリシア社会は奴隷労働にもとづいており、したがって、人間とその労働力の不等を自然的基礎としていたのであるからである。


価値表現の秘密、すなわち一切の労働が等しく、また等しいと置かれるということは、一

切の労働が人間労働一般であるから、そしてまたそうあるかぎりにおいてのみ、言えることであって、だから、人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。


しかしながら、このことは、商品形態が労働生産物の一般的形態であり、したがってまた商品所有者としての人間相互の関係が、支配的な社会的関係であるような社会になって、はじめて可能である。


アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において、等一関係を発見しているということに輝いている。ただ彼の生活していた社会の歴史的限界が、妨げになって、一体「真実には」この等一関係は、どこにあるかを見出させなかったのである。


四単純な価値形態の総体


ある商品の単純な価値形態は、その商品の他のある異種商品にたいする価値関係に、またはこの商品との交換関係に含まれている。


商品Aの価値は、質的には商品Bの商品Aとの直接的な交換可能性によって表現されている。


この価値は量的には、商品Bの一定量が商品Aの一定量と交換されうるということによって、表現されている。他の言葉でいえば、ある商品の価値は「交換価値」として現示されることによって独立的に表現されている。


2021年11月24日水曜日

第52回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 76ページ

 第52回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 76ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実 

b相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態


たとば上衣が、あるがままのものとして価値を表現し、したがって、自然のままのものとして、価値形態をもっているということの中にあるのである。


このことは、もちろんただ亜麻布商品が、等価としての上衣商品にたいして関係させられ

た価値関係の内部においてだけ、妥当することなのである。


しかし、一物の属性は、他物に対するその関係から発生するのではなくて、むしろこのような関係においてただ実証されるだけのものであるから、上衣らその等価形態を、すなわち、直接的な交換可能性というその属性を、同じように天然にもっているかのように、それはちょうど、重いとか温いとかいう属性と同じもののように見える。


このことから等価形態の謎が生まれるのであって、それは、この形態が完成した形で貨幣となって、経済学者に相対するようになると、はじめてブルジョア的に粗雑な彼の目を驚か

すようになる。


そうなると彼は、金や銀の神秘的な性格を明らかにしようとして、これらのものを光り輝くことのもつとも少ない商品にすっかえて、いつもたのしげに、すべて下賤な商品で、その時々に商品等価の役割を演じたものの目録を、述べ立てるのである。


彼は、亜麻布 20 エレ =上衣1着 というようになもっとも簡単な価値表現が、すでに等価形態の謎を解くように与えられていることを、想像してみないのである。

(二一)

このような反省規定は、総じて奇妙なところがあるものである。この人間が、例えば王であるのは ただ他の人にたいして臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている。


等価のつとめをしている商品の物体は、つねに抽象的に人間的な労働の体現として働いており、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。


したがって、この具体的労働は、抽象的に人間的な労働の表現となる。例えば、上衣が、抽象的に人間的な労働の単なる実現となっているとすれば、実際に上衣に実現されている裁縫が、抽象的に人間的な労働の単なる実現形態として働いているわけになる。


亜麻布の価値表現においては、裁縫の有用性は、裁縫が衣服をつくり、したがってまた人をめつくる「ドイツには「着物は人をつくる」という諺がある。……訳者]ということにあるのでなく、次のような一つの物体をつくるところにあるのである。


すなわちこの物体に対して、人は、それが価値であるという風に、したがって、亜麻布価値に対象化されている労働から少し区別されない、


労働の凝結物であるというように、みなしてしまうのである。このような一つの価値鏡を作るために、裁縫自身は、人間労働であるというその抽象的な属性以外には、何るのを反映してはならない。

裁縫の形態でも、機織の形態でも、人間労働力は支出されるのである。したがって、両者は、人間労働の一般的な属性をもっている。


そしてこのために一定のばあいには、例えば、価値生産においては、ただこの観点からだけ考察すればいいのである。


すべてこれらのことは、神秘的なことではない。しかし、商品の価値表現においては、事柄は、歪められる。


例えば、機織が機織としての具体的な形態においてではなく、人間労働としてのその一般的な属性において、亜麻布価値を形成するということを表現するために、機織にたいして、裁縫が、すなわち、亜麻布等価物を作り出す具体的労働が、抽象的に人間的な労働のみうべき実現形態として、対置されるのである。


それゆえに、具体的労働がその反対物、すなわち、抽象的に人間的な労働の現象形態となるということは、等価形態の第二の特性である。


しかしながら、この具体的労働、すなわち裁縫は、無差別な人間労働の単なる表現として働くことによって、他の 労働、すなわち、亜麻布にひそんでいる労働と等一性の形態をもちしたがって、他の一切の商品生産労働と同じように私的労働ではあるが、しかし直接に社会的な形態における労働である。


まさにこのために、この労働は、直接に他の商品と交換しうる一つの生産物に表わされている。


このように、私的労働がその反対物の形態、すなわち、直接に社会的な形態における労働となるということは、等価形態の第三の特性である。


最後に述べた等価形態の二つの特性は、価値形態、ならびにきわめて多くの思惟形態、社会形態および自然形態を、最初に分析した偉大なる探究者に遡って見る時、最も分かりやすくなる。78ページ1行目


2021年11月23日火曜日

第51回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 74ページ

 第51回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 74ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実 

b相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態



むしろただ一物の一定量として現われるだけである。

例えば、四Oェレの亜麻布は、一体何に「値する」のか? 二着の上衣に。というのは、上衣なる商品種は、ここでは等価の役割を演じているのであり、上衣という使用価値は、亜麻布にたいして価値体とされているのであるから、一定の価値量としての亜麻布を表現するには、一定量の上衣ということで充分である。


したがって、二着の上衣は、四〇ェレの亜麻布の価値の大いさを表現することはできるが、決して自分自身の価値の大いさを、すなわち、上の価値の大いさを表現することはできないのである。


等価が価値方程式においてつねに一物、すなわち一使用価値の単に一定量の形態をやっているにすぎないというこの事実を、皮相に理解したことは、ベイリーをその先行者や後続者

の多くととおに誤り導いて、価値表現においてただ量的な関係だけを見るようにしてしまった。


一商品の等価形態はむしろなんらの量的価値規定をや含んでいないのである。


等価形態の考察に際して目立つ第一の特性は、このことである、すなわち、使用価値がその反対物の現象形態、すなわち、価値の現象形態となるということである。


商品の自然形態が価値形態となる。しかしながら、注意すべきことは、この Quidproquo 【とりちがえ」は、商品B(上衣または小麦または鉄等々)にとっては、ただ他の適宜な商品A(亜麻布等々)が自分にたいしてとる価値関係の内部においてのみ、すなわち、この関連の内部においてのみ、起こるということなのである。


いかなる商品や、自分自身にたいして等価として関係することはなく、したがってまた、自分自身の自然の皮膚を、自分自身の価値の表現となすことは出来ないのであるから、このような商品は、他の商品を等価として、これに関係しなければならぬ。


いいかえれば、他の商品の自然の皮膚を、自分自身の価値形態にしなければならぬ。


このことを明らかにするために、商品体としての、すなわち、使用価値としての商品体に用いられるをつねとする。


度量衡の例を見よう。一つの砂糖塊は、物体であるから、重い。したがって重量をもっている。しかしながら、人は砂糖塊をなでてめさすっても、その重量を見つけることはできない。


そこでわれわれは、あらかじめ重量の定められている種々なる鉄片を取り出すのである。鉄の物体形態め、砂糖塊のそれも、それだけを見れば、とるに、重さの現象形態ではない。


だが、砂糖塊を重さとして表現するためには、われわれは、これを鉄との重量関係におく。この関係においては、鉄は、重さ以外の何ものを示さない一物体となっている。


したがって、鉄量は砂糖の重量尺度として用いられ、砂糖体にたいして単なる重量態容、すなわち、重さの現象形態を代表する。

鉄がこの役割を演ずるのは、ただこの関係の内部においてのみであって、この関係の内部で、砂糖は、あるいは重量を測ろうという他のどんな物体でも、鉄と相対するのである。


両物が重さをもっていなければ、これらの物は、この関係にはいりえないであろうし、したがって、一物は他物の重量の表現として役立つことはできないであろう。


われわれは、両者を秤皿に投ずるならば、実際にこれらの二物が重さとして同一なるのであり、したがって、一定の割合において同一重量のあのであるということを知るのである。


鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊にたいして、ただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上衣体は、亜麻布にたいして、ただ価値を代表するだけである。


だが、ここで比論は終わるのである。鉄は砂糖塊の重量表現で、両物体に共通なる自然属性、すなわち、それらの品 重さを代表したのであるが、他方の上衣は亜麻布の価値表現において両物の超自然的属性を、すなわち、それらのものの価値を、およそ純粋に社会的なるのを、代表しているのである。


一商品、例えば亜麻布の相対的価値形態は、その価値たることを、何かその物体と物体の属性とから全く区別されためのとして、例えば上衣に等しいあのとして、表現しているのであるが、この表現自身が、一つの社会関係を内にかくしていることを示唆している。


等価形態では逆になる。等価形態であるゆえんは、まさに、一商品体、例えば上衣があるがままのものとして価値を表現し、したがって自然のままのものとして、価値形態をもつているということのなかにあるのである。76ページ行目



2021年11月20日土曜日

第50回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 72ページ

 第50回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 72ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実 

b相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態



Ⅳ 亜麻布と上衣の生産にそれぞれ必要な労働時間、したがって、それらの価値は、同時に同一の方向に変化するとしても、ちがった程度に変化するばあい、または反対の方向に変化するばあい等々がある。


一商品の相対的価値にたいする、この種のあらゆる可能な組み合わせの影響は、簡単にI、Ⅱ、Ⅲのばあいの応用によって明らかとなる。


このようにして価値の大いさの現実の変化は、その相対的な表現において、あるいは相対的価値の大いさにおいて、曖昧さを残さず反映されるわけでめ、剰すところなく反映されるわけでもない。


 一商品の相対的価値は、その価値が不変であって変化しうる。その相対的価値は、その価値が変化して、不変でありうる。そして最後に、その価値 の大いさとその価値の大いさの相対的表現とにおける同時的変化は、決して相互に一致するわけのものではないのである。


(10) 第二版への注。価値の大いさとその相対的表現との間のこの不一致は、俗学的経済学によってもちまえの鋭敏さで、利用しつくされている。


例えば、「かりに、Aが低落するのは、その間にAにたいして支出される労働は減少しないとしてる、その交換されるBが上騰するからであるということを承認するとしたらどうか、そうなったら、諸君の一般的な価値原理は崩壊するであろう。


・・・もし、Aの価値は相対的にBにたいして上騰し、Bの価値は相対的にAにたいして低下するということを承認するならば、リカ ードが、一商品の価値はつねにこれに体現されている労働の量によって規定されるという、彼の大命題を樹立した基礎は、ゆらぐ。


なぜかというに、もしAの費用における変化が、それが交換されるBにたいする比率において、それ自身の価値を変化させるだけでなく、Bの生産に要する労働量においてなんらの変化が起こらなかったにもかかわらず、相対的にAの価値にたいするBの価値をも変化させるとするならば、一商品にたいして支出される労働量が、その価値を規制するということを主張する教義は、崩壊するだけでなく、一商品の生産費がその価値を規制するという教義も、亡びることになるからである」(J・ブロードハースト『経済学にかんする論策』ロンドン、 一八四二年、一一・一四ページ)。


ブロードハースト氏は、これと同じように、こう。言うことができたのだ。


こころみ に 10/20, 10/50, 10/100 等々という数的比率を考えて見るといい。10なる数に変わりはない。だがしかし、その比、その分母たる 20, 50, 100 にたいする相対的な大い

さは、不断に減少している。


だから、10というような整数の大いさが、例えば、これに含まれている1 の倍数によって「規制」されるという大原理は、崩壊してしまう、と。


三 等価形態(新日本95ページ)


われわれはこういうことを知った、すなわち、商品A(亜麻布)が、その価値を異種の商品B(上衣)という使用価値に表現することによって、Aなる商品は、Bなる商品自身にたいして独特な価値形態、すなわち、等価の形態を押しつけるということである。


亜麻布商品は、それ自身の価値たることをば、次のことによって現わしてくる、すなわち、

自分にたいして上衣が、その肉体形態とことなった価値形態をとることなくして、等しいものとして置かれるということである。


このようにして、亜麻布は自分自身価値であることを、実際には、上衣が直接に自分と交換しうるものであるということをつうじて、表現するのである。


一商品の等価形態は、それゆえに、この商品の他の商品にたいする直接的な交換可能性の形態である。


 もし上衣というような一商品種が、亜麻布のような他の商品種にたいして、等価として用いられるとしても、したがって、上衣が亜麻布と直接に交換しうる形態にあるという独特の属性を得るとしてる、これによって、決して上衣と亜麻布とが交換されうる割合、与えられているというわけではない。


この割合は、亜麻布の価値の大いさが与えられているから、上衣の価値の大いさにかかっている。


上衣が等価として表現され、亜麻布が相対的価値として表現されるか、それと逆に亜麻布が等価として表現され、上衣が相対的価値として表現されるか、そのいずれにしても、上衣の価値の大いさが、その生産に必要な労働時間によって、したがって、その価値形態からは独立して決定されているということには、変わりはない。


しかし、上衣なる商品種が、価値表現において等価の地位をとることになると、その価値の大いさは、価値の大いさとしての表現をもたなくなる。


その価値の大いさは、価値方程式において、むしろただ一物のいち定量として現れるだけである。


2021年11月19日金曜日

第49回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 70ページ

 第49回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 70ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実 

b相対的価値形態の量的規定性



大谷翔平がMVPを獲得しました。7度目か8度目の賞です。将棋では藤井聡太が来年5冠目の挑戦をっするそうです。相手は渡辺名人です。今年、渡辺名人からタイトル1つ取っている。ので勝つ可能性は高そうです。



の使用対象である。この与えられた商品量は、人間労働の一定量を含んでいる。したがって、価値形態は、ただに価値一般を表現するだけでなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大いさを。表現しなければならぬ。


商品Aの商品Bにたいする価値関係、亜麻布の上衣にたいする価値関係においては、したがって、上衣なる商品種は、ただに価値体一般として亜麻布に質的に等しいと置かれるだけでなく、一定の亜麻布量、例えば二Oェレの亜麻布にたいして、価値体または等価の一定量、例えば一着の上衣が等しいと置かれるのである。


「亜麻布 20 エレ=上着1着 または亜麻布二Oェレは上衣一着に値する」という方程式は、一着の上衣の中にまさに二Oェレの亜麻布の中におけると同じだけの量の価値実体がかくされているということ、両商品量は、したがって、同じだけの労働が加えられている、または同一大いさの労働時間がかけられているということを前提とする。


しかしながら、二Oェレの亜麻布または一着の上衣の生産に必要なる労働時間は、機織または裁縫の生産力における一切の変化ととろに変化する。


そこで、価値の大いさの相対的表現に及ぼすこのような変化の影響が、やっと詳細に研究さ

れなければならぬ。


I 亜麻布の価値は変化するが(一九)、上衣価値は不変であるとするばあい。亜麻布の生産に必要な労働時間が、例えば亜麻栽培地の豊度の減退の結果、二倍となったとすれば、その価値は二倍となる。


亜麻布20 エレ=上着1着のかわりに、われわれは 亜麻布 20 エレ=上着2着という式をもつことになる。というのは、一着の上衣は、いまでは二0エレの亜麻布の半ばだけの分量の労働時間を含むにすぎないのであるからである。


これに反して、亜麻布の生産に必要な労働時間が半分だけ、例えば織台改良の結果、減少するとすれば、亜麻布価値は半分だけ低下する。


したがってこんどは 亜麻布 20 エレ=上着1/2着となる。商品Aの相対的価値、すなわち、その商品Bに表現された価値は、このようにして、商品Bの価値を同一としてる、商品Aの価値に正比例して上脱したり、低下したりするのである。


(一九)「価値」(” Wert“)という表現は、ここでは、すでに以前に時々あちこちでやったように、量的に規定された価値、すなわち、価値の大いさという意味に用いられている。


Ⅱ 亜麻布の価値は不変であって、上衣価値が変化するばあい。この事情のあとでは上衣の生産に必要な労働時間が、例えば羊毛せんせつが不便となったために、二倍となったとすれば、われわれは 亜麻布 20エレ= 上着1着 という式のかわりに、いまでは 亜麻布 20 エレ=上着1/2 という式を得る。これに反して、上衣の価値が半分に低下したとすれば、亜麻布 20 エレ= 上着2着 という式を得ることになる。


したがって商品Aの価値を不変としても、 商品Bで表現されるその相対的価値は、Bの価値変化と反比例で、低下したり上騰したりするのである。


IおよびⅡの項における各種のばあいを比較すると、次のような結果が生ずる、すなわち、相対的価値の同一なる量的変化が、全く相反した原因から発生しうるということである。このようにして、亜麻布 20 エレ=上着1着 という式から、(一)亜麻布 20 エレ=上着 2 着という方程式が出てくる。


それは亜麻布の価値が二倍となったのか、または、上衣の価値が半ばに低下したのかによるのである。さらに、(二)亜麻布 20 エレ=上着1/2着という方程式出てくる。


それは亜麻布の価値が半分に低下したのか、または上衣の価値が二倍にのぼったからである。


Ⅲ 亜麻布と上衣の生産に必要な労働量は、同時に同一方向に同一割合で変化することもある。このばあいには、 その価値がどんなに変化しても、依然として亜 麻布20 エレ= 上着1着 である。


この価値変化を発見するには、これらの二つの商品を、価値不変なる第三の商品と比較しさえすればよいのである。


一切の商品の価値が、同時に同一割合で上騰または低下するならば、その相対的価値は不変にとどまるであろう。


こんどは、この実際の価値変化は、同一労働時間に、以前より大きな商品量か、小さな商品量かが、同じように供給されるということから明らかとなるであろう。

71ページ末


2021年11月18日木曜日

第48回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳  岩波書店の学習 68ページ A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 二相対的価値形態 a相対的価値形態の内実  b相対的価値形態の量的規定性

 第48回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 

岩波書店の学習 68ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実 

b相対的価値形態の量的規定性


 日本の政治状況を簡単に、衆議院議員選挙が10月31日投開票で行われました。組閣も終わり、岸田政権が始動しています。「新しい異本主義」を政策の柱とすることになりました。分配を是正して、中間層増やすようです。

 安倍政権は格差を拡大して、貧困を深刻化してしまいました。どのように方向転換するのか見てみたいと思います。

 とりあえずは、『賃金を上げる」政策で・『賃上げ企業には税制で優遇する」ということです。介護・医療者の賃金是正も言われていて。年間1%以上は賃上げしたいようです。どのような結果がでるのかとても楽しみです。



68ページ

上衣の生産においては、事実上裁縫の形態で人間労働力が支出された。したがって、人間労働は上衣の中に堆積されている。


この側面から見れば、上衣は「価値の保持者」である。もちろん、この上衣の属性そのものは、どんなに糸目がすいていても、のぞいて見えるわけではないが。


そして亜麻布の価値関係においては、上衣はただこの側面からのみ、したがって、体現された価値としてのみ、価値体としてのみ取り上げられている。


上衣がどんなにすまし顔で現われて、亜麻布は、彼の中に血のつながりのある美わしい価値ごころを認めている。だが、上衣は彼女にたいして、同時に価値が彼女のために上衣の形態をとることなくしては、価値を表わすことはできないのである。


こうして、個人Aは個人Bに対して、Aにとって、陛下が同時にBの肉体の姿をとり、したってなお容貌や毛髪やその他多くのものが、その都度の国君ととめに変わるということなくしては、陛下として相対するわけにはいかない。


上衣が亜麻布の等価をなす価値関係においては、このように、上衣形態は、価値形態とされる。亜麻布なる商品の価値は、したがって、上衣なる商品の肉体で表現される。


一商品の価値は他の商品の使用価値で表現されるのである。使用価値としては、亜麻布は上衣とは感覚的にちがった物である。


価値としては、それは「上衣に等しいあの」であって、したがって、上衣に見えるのである。このようにして、亜麻布は、その自然形態とはちがった価値形態を得る。


その価値たることが、上衣との同一性に現われること、ちょうどキリスト者の羊的性質が、その神の仔羊との同一性に現われるようなものである。


商品価値の分析が以前に告げたような一切のことを、亜麻布は他の商品、上衣と交わるようになるやいなや、自身で、申し述べることがわかる。


ただ、亜麻布は、その思いを自分だに通ずる言葉、すなわち商品の言葉でもらすだけである。


人間労働の抽象的な属性で労働が亜麻布自身の価値を形成することをいうために、亜麻布は、上衣が、亜麻布に等しいとされ、したがって価値であるかぎりにおいて、亜麻布と同一の労働から成っているという風に言うのである。


亜麻布の森厳なる価値対象性が、そのゴワゴワした布の肉体とちがっているというために、亜麻布は、価値が上衣に見え、したがって、亜麻布自身が価値物としては、卵が他の卵に等しいと同じように、上衣に等しいという風に言うのである。


ついでに述べておくと、商品の言葉め、ヘブライ語のほかに、なお多くの多少正確さのちがったいろいろの方言をやっている。ドイツ語の Wertsein“「価値あり」という言葉は、例えば、口!マン語の動詞 valere,valer, valoir上から順次にイタリア語、スペイン語、フランス語。……訳者]ほどにはっきりと、商品Bを商品Aと等置することが、商品A自身の価値表現であるということを表現しない。


パリは確かにミサに値する!(Paris vaut bien une messe !)[アンリ四世はパリを支配下において王位につくために、新教から旧教に改宗した。


そのとき右の言葉を発したといわれている。……訳者]。したがって、価値関係を通して、商品Bの自然形態は、商品Aの価値形態となる。


あるいは商品Bの肉体は、商品(一八)Aの価値かがみとなる。


商品Aが商品Bを価値体として、すなわち、人間労働の体化物として、これに関係すること

により、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料とするのである。


商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値に表現されて、相対的価値の形態を得るのである。

(一八) このことは、商品と同じようにいくらか人間に色あてはまる。人間は、鏡をぬって生まれてくるものでも、フィヒテ流の哲学者として、我は我であるといって生まれてくるものでもないのであるから、まず他の人間の中に、自分を照らし出すのである。


ペーテルという人間は、パウルという人間にたいして、自身に等しいものとして相関係することによって、初めて、自分自身に人間として相関係する。


しかしながら、このようにしてペーテルにとっては、パゥルなるおのの全身が、そのパウ

ル的肉体性のままで、人間という種の現象形態と考えられるのである。


b 相対的価値形態の量的規定性

価値の表現せらるべきあらゆる商品は、一五シェッフェルの小麦、一〇〇封度のコーヒー等というように、一定量の使用対策である。



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『資本論』の学習第234回第3巻資本主義的生産の総過程第1部第5篇利子と企業者利得地への利潤の分割。 利子付き資本第25 章 信用と空資本

  5 資本論第3巻第5篇・第25章「信用と空資本」は、資本主義が高度に発展した段階で現れる** 金融の仕組みと“見かけの資本”**を分析する重要な章です。少し抽象的ですが、現代の株式市場 やバブル経済を理解する鍵にもなります。 ■ 全体のテーマ この章の核心はシンプルに言うと:...

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