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2021年11月28日日曜日

第55回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 82ページ

 第55回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 82ページ

 

b 相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態

四 単純な価値形態の総体

B 総体的または拡大せる価値形態

1 拡大された相対的価値形態



一商品の個々の等価形態が対応している。だから、上衣は亜麻布の相対的価値表現においては、この個々の商品種たる亜麻布と関連して、等価形態、または直接的交換可能性の形態を有するのみである。


だが、個々の価値形態はおのずから、より完全な形態に移行する。この単純な形態によっては、一商品Aの価値は、ただ一つの他の種の商品に表現されるのではあるが、この第二の商品が、どんな種類の色のか、上衣か、鉄か、小麦その他の何か、というようなことは、全くどうでよいのである。


したがって、この商品がある商品種と価値関係にはいるか、それとら他の商品種と価値関係にはいるかによって、それぞれ同一商品のちがった単純な価値表現が成立する。


それらの可能な価値表現の数は、ただそれぞれちがった商品種の数によって制限されるのみである。


したがって、その商品の個別的な価値表現は、そのそれぞれちがった単純な価値表現の、いくらでも延長されうる列に転化されるのである。


(二二a) 第二版への注。例えば、ホメロスにあっては、一物の価値は、それぞれちがった物の列として表現されている。


B 総体的または拡大せる価値形態

z量商品A=u量商品B または =v量商品C または =w量商品D または =x量商品 E または =その他(亜麻布 20 エレ=上衣1着 または =茶 10 封度 または =コーヒ 40 封度 または =小麦1クォーター または=金2オンス または =鉄 1/2 トン または =その他)


1 拡大された相対的価値形態


一商品、例えば、亜麻布の価値は、いまでは商品世界の無数の他の成素に表現される。すべての他の商品体は亜麻布価値の反射鏡となる。


こうしてこの価値自身は、はじめて真実に無差別な人間労働の凝結物として現われる。


なぜかというに、価値を形成する労働は、いまや明瞭に、一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働として、表わされており、その労働がどんな自然形態をやっていようと、したがって、それが上衣に対象化せられようと、小麦や鉄または金等々に対象化せられようと、これを問わないからである。


したがって、いまや亜麻布は、その価値形態によって、もはやただ一つの個々の他の商品種と社会関係にあるだけでなく、商品世界と社会関係に立っているのである。


それは、商品としてこの世界の市民なのである。同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、その特別の形態にたいして、無関心であることになるわけである。


(二三) それゆえに、人は亜麻布の価値が上衣で示されるばあいには、亜麻布の上衣価値について語り、これを穀物で示すばあいには、その穀物価値について語ることになる、等々。上衣、穀物等々の使用価値に現われるのが、亜麻布の価値であるということを、すべてこのような表現は言っていることになる。


「あらゆる商品の価値は、〔なんらか他の商品との、……訳者]交換

におけるその比率を示すのであるから、われわれは価値について、その商品が比較される商品にしたがって、それぞれ穀物価値、 布価値. という風に語ることができるわけである。


したがってまた、それぞれちがった数千の価値種があり 商品のあるかぎり、これと同じ数の価値がある そしてすべての価値が、同じように真実であり、また同じように名目的である」(『価値の性質、尺度および原因にかんする批判的一論考、主としてリカード氏とその追随者たちの著作に関連して。


所信の形成と公表にかんする諸論の著者による』ロンドン、一八二五年、三九ページ[鈴木鴻一郎訳『リカアド価値論の批判』日本評論社、世界古典文庫、五四ページ])。S・ベイリーが、当時イギリスで大さわぎをひき起こしたこの匿名の著作の著者であるが、彼は、

このように同一商品価値の相対的表現の乱雑さを指摘することによって、価値の一切の概念規定を破壊したと妄信している。


だが、彼自身の偏狭固際に的かかわらず、リカードの理論の痛い所を探り当てていたということを、リカード学派の彼を攻撃した激昂が証明した。


例えば『ウェストミンスタ ・レヴュー』所載。亜麻布20 エレ =上衣1着という第一の形態においては、これら二つの商品は、一定の容積比率で交換されるということは、偶然の事実であるかもしれない。これに反して第2の形態では直ちに偶然の現象と本質的に区別され、且つこれを規定する背景があらわれている。84ページ2行目 


2021年11月26日金曜日

第54回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 80ページ

 第54回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 80ページ

二 相対的価値形態

a 相対的価値形態の内実 

b 相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態

四 単純な価値形態の総体



でいえば、ある商品の価値は、「交換価値」として現示されることによって、独立的に表現されている。この章のはじめに、普通に行なわれているようにべ商品は使用価値であり、また交換価値であるといったのであるが、このことは、正確にいえば誤りであった。


商品は使用価値または使用対象であり、また「価値」である。商品は、その価値が、そ

での自然形態とちがった独自の現象形態、すなわち交換価値という現象形態をとるととめに、ただちに本来の性質であるこのような二重性として示される。


そして商品は、この形態を、決して孤立して考察するばあいにやっているのでなく、つねに第二の異種の商品にたいする価値関係、または交換関係においてのみ、もっているのである。


だが、このことを知ってさえいれば、先の言い方は無害であって、簡略にするに役立つのである。われわれの分析の証明するところによれば、商品の価値形態、またはその価値表現は、商品価値の本性から出てくるので、逆に価値や価値の大いさが、交換価値としてのその表現様式から出てくるものではない。


だが、このことは、重商学派とフェリエやガニール等のような、その近代の蒸し返し屋たちの妄想であるととめに、またその対立者であるバスティアとその一派のような、近代自由貿易の外交員たちのそれでもある。


重商学派は重点を、価値表現の質的側面に、したがって、貨幣として完成された姿になる商品の等価形態に置いている―これに反して、近代自由貿易外交員たちは、その商品を、どんなにして売り払わなければならないので、重点を相対的価値形態の量的側面においている。


したがって、彼らにとっては商品の価値も価値の大いさも、交換関係を通した表現以外には存しないし、したがってただその日その日の時価表の中だけに存するのである。


スコットランド人のマクラウドは、ロンバート・ストリートのもうろうたる観念を、できるだけ博学にめかし立てることを仕事にしているが、迷信的な重商学派と啓蒙された自由貿易外交員との間をうまくまとめている。


(二二) 第二版への注。F・L・A・フェリエ(副関税検察官)、『商業にたいする関係から見た政府の考察』パリ、一八〇五年、およびシャルル・ガニイ『経済学体系』第二版、パリ、一八二一年。商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を、くわしく考察すると、その内部において、商品Aの自然形態は、ただ使用価値の姿としてのみ、商品Bの自然形態は、ただ価値形態また価値の姿としてのみはたらいていることが明らかになった。


それゆえに、商品の中に包みこまれている使用価値と価値の内的対立は、1つの外的対立によって、すなわち、1つの商品の関係によって示されている。この関係において、価値が表現さるべき一方の商品は、直接にただ使用価値としてのみ、これにたいして身をおって価値を表現する他方の商品は、直接にただ交換価値としてのみ、働いている。


それゆえに、ある商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態である。


労働生産物は、どんな社会状態においてち使用対象である。しかし、ただある歴史的に規定された発展段階のみが、一つの使用物の生産に支出された労働を、そのおのの「対象的」属性として、すなわち、その価値として表わすのであって、この発展段階が、労働生産物を商品に転化するのである。


したがって、このことから、商品の単純なる価値形態は、同時に労働生産物の単純なる商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展や価値形態の発展と一致するという結果になる。


一見すれば、すぐ単純な価値形態の不充分さがわかる。この形態は、一連の変態をへて、やっと価格形態に成熟してくる萌芽形態なのである。


なんらかの一商品Bにおける表現は、商品Aの価値を、ただそれ自身の使用価値から区別するのみであって、したがって、この商品を、ただそれ自身とちがった個々の商品種の何かにたいする交換関係に置くのみであって、他の一切の商品との質的等一性と量的比率とを示すものではないのである。

ある商品の単純なる相対的価値形態には、1商品個々の商品の等価形態が対応している。 

82ページ1行目


2021年11月25日木曜日

第53回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 78ページ

 第53回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 78ページ

二 相対的価値形態

a 相対的価値形態の内実 

b 相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態

四 単純な価値形態の総体



最初に分析した偉大なる探究者にさかのぼって見るとき、やっと解りやすくなる。それはアリストテレスである。


 商品の貨幣形態が、単純なる価値形態、すなわち、なんらか任意の他の商品における一商品の価値の表現のさらに発展した姿にすぎないということを、アリストテレスは最初に明言している。というのは彼はこう述べているからである。


「しとね5個=家1軒」(,, Knival Tèvre avril okias")ということは


「しとね5個=貨幣一定額」(,, Knival mévre avri. Scou ai nèvre Knivan)

ということと「少しゃ区別はない」と。


彼はさらにこういうことを看取している。この価値表現をひそませている価値関係は、それ自身として、家がしとねに質的に等しいとおかれるということと、これらの感覚的にちがった物が、このような本質の等一性なくしては、通約しうる大いきとして相互に関係しえないであろうということとを、条件にしているというのである。


彼はこう述べている、「交換は等一性なくしては存しえない。だが、等一性は通約し得べき性質なくしては存しえない」(goûtaorns uſ oions oursetpias")と。


しかし、彼はここで立ちどまって、価値形態を、それ以上分析することをやめている。「しかしながら、このように種類のちがった物が通約できるということ」、すなわち、質的に同一であるということは「真実には不可能である」(Tſ utv ov &Angeig &&varov*) 。


この等置は、物の真の性質に無関係なのでしかありえない、したがって、ただ「実際的必要にたいする緊急措置」でしかありえないと。


アリストテレスは、このようにして、どこで彼のそれ以上の分析が失敗しているかということについてすら、すなわち、価値概念の欠如についてすら、述べているわけである。


等一なるのは何か? すなわち、しとねの価値表現において、家がしとねに対していいあらわしている共通の実体は何か?そんなものは「真実には存しえない」と、アリストテレスは述べている。


なぜか? 家はしとねにたいしてある等一物をいいあらわしている、家が、しとねと家という二つの物で現実に同一なるめのをいいあらわしているかぎりにおいて。そしてこれが人間労働なのである。


しかしながら、商品価値の形態においては、すべての労働が等一なる人間労働として、したがって等一的に作用しているあのとして表現されているということを、アリストテレスは、価値形態自身から読み取ることができなかった。


というのは、ギリシア社会は奴隷労働にもとづいており、したがって、人間とその労働力の不等を自然的基礎としていたのであるからである。


価値表現の秘密、すなわち一切の労働が等しく、また等しいと置かれるということは、一

切の労働が人間労働一般であるから、そしてまたそうあるかぎりにおいてのみ、言えることであって、だから、人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。


しかしながら、このことは、商品形態が労働生産物の一般的形態であり、したがってまた商品所有者としての人間相互の関係が、支配的な社会的関係であるような社会になって、はじめて可能である。


アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において、等一関係を発見しているということに輝いている。ただ彼の生活していた社会の歴史的限界が、妨げになって、一体「真実には」この等一関係は、どこにあるかを見出させなかったのである。


四単純な価値形態の総体


ある商品の単純な価値形態は、その商品の他のある異種商品にたいする価値関係に、またはこの商品との交換関係に含まれている。


商品Aの価値は、質的には商品Bの商品Aとの直接的な交換可能性によって表現されている。


この価値は量的には、商品Bの一定量が商品Aの一定量と交換されうるということによって、表現されている。他の言葉でいえば、ある商品の価値は「交換価値」として現示されることによって独立的に表現されている。


2021年11月24日水曜日

第52回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 76ページ

 第52回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 76ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実 

b相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態


たとば上衣が、あるがままのものとして価値を表現し、したがって、自然のままのものとして、価値形態をもっているということの中にあるのである。


このことは、もちろんただ亜麻布商品が、等価としての上衣商品にたいして関係させられ

た価値関係の内部においてだけ、妥当することなのである。


しかし、一物の属性は、他物に対するその関係から発生するのではなくて、むしろこのような関係においてただ実証されるだけのものであるから、上衣らその等価形態を、すなわち、直接的な交換可能性というその属性を、同じように天然にもっているかのように、それはちょうど、重いとか温いとかいう属性と同じもののように見える。


このことから等価形態の謎が生まれるのであって、それは、この形態が完成した形で貨幣となって、経済学者に相対するようになると、はじめてブルジョア的に粗雑な彼の目を驚か

すようになる。


そうなると彼は、金や銀の神秘的な性格を明らかにしようとして、これらのものを光り輝くことのもつとも少ない商品にすっかえて、いつもたのしげに、すべて下賤な商品で、その時々に商品等価の役割を演じたものの目録を、述べ立てるのである。


彼は、亜麻布 20 エレ =上衣1着 というようになもっとも簡単な価値表現が、すでに等価形態の謎を解くように与えられていることを、想像してみないのである。

(二一)

このような反省規定は、総じて奇妙なところがあるものである。この人間が、例えば王であるのは ただ他の人にたいして臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている。


等価のつとめをしている商品の物体は、つねに抽象的に人間的な労働の体現として働いており、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。


したがって、この具体的労働は、抽象的に人間的な労働の表現となる。例えば、上衣が、抽象的に人間的な労働の単なる実現となっているとすれば、実際に上衣に実現されている裁縫が、抽象的に人間的な労働の単なる実現形態として働いているわけになる。


亜麻布の価値表現においては、裁縫の有用性は、裁縫が衣服をつくり、したがってまた人をめつくる「ドイツには「着物は人をつくる」という諺がある。……訳者]ということにあるのでなく、次のような一つの物体をつくるところにあるのである。


すなわちこの物体に対して、人は、それが価値であるという風に、したがって、亜麻布価値に対象化されている労働から少し区別されない、


労働の凝結物であるというように、みなしてしまうのである。このような一つの価値鏡を作るために、裁縫自身は、人間労働であるというその抽象的な属性以外には、何るのを反映してはならない。

裁縫の形態でも、機織の形態でも、人間労働力は支出されるのである。したがって、両者は、人間労働の一般的な属性をもっている。


そしてこのために一定のばあいには、例えば、価値生産においては、ただこの観点からだけ考察すればいいのである。


すべてこれらのことは、神秘的なことではない。しかし、商品の価値表現においては、事柄は、歪められる。


例えば、機織が機織としての具体的な形態においてではなく、人間労働としてのその一般的な属性において、亜麻布価値を形成するということを表現するために、機織にたいして、裁縫が、すなわち、亜麻布等価物を作り出す具体的労働が、抽象的に人間的な労働のみうべき実現形態として、対置されるのである。


それゆえに、具体的労働がその反対物、すなわち、抽象的に人間的な労働の現象形態となるということは、等価形態の第二の特性である。


しかしながら、この具体的労働、すなわち裁縫は、無差別な人間労働の単なる表現として働くことによって、他の 労働、すなわち、亜麻布にひそんでいる労働と等一性の形態をもちしたがって、他の一切の商品生産労働と同じように私的労働ではあるが、しかし直接に社会的な形態における労働である。


まさにこのために、この労働は、直接に他の商品と交換しうる一つの生産物に表わされている。


このように、私的労働がその反対物の形態、すなわち、直接に社会的な形態における労働となるということは、等価形態の第三の特性である。


最後に述べた等価形態の二つの特性は、価値形態、ならびにきわめて多くの思惟形態、社会形態および自然形態を、最初に分析した偉大なる探究者に遡って見る時、最も分かりやすくなる。78ページ1行目


2021年11月23日火曜日

第51回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 74ページ

 第51回マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 74ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実 

b相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態



むしろただ一物の一定量として現われるだけである。

例えば、四Oェレの亜麻布は、一体何に「値する」のか? 二着の上衣に。というのは、上衣なる商品種は、ここでは等価の役割を演じているのであり、上衣という使用価値は、亜麻布にたいして価値体とされているのであるから、一定の価値量としての亜麻布を表現するには、一定量の上衣ということで充分である。


したがって、二着の上衣は、四〇ェレの亜麻布の価値の大いさを表現することはできるが、決して自分自身の価値の大いさを、すなわち、上の価値の大いさを表現することはできないのである。


等価が価値方程式においてつねに一物、すなわち一使用価値の単に一定量の形態をやっているにすぎないというこの事実を、皮相に理解したことは、ベイリーをその先行者や後続者

の多くととおに誤り導いて、価値表現においてただ量的な関係だけを見るようにしてしまった。


一商品の等価形態はむしろなんらの量的価値規定をや含んでいないのである。


等価形態の考察に際して目立つ第一の特性は、このことである、すなわち、使用価値がその反対物の現象形態、すなわち、価値の現象形態となるということである。


商品の自然形態が価値形態となる。しかしながら、注意すべきことは、この Quidproquo 【とりちがえ」は、商品B(上衣または小麦または鉄等々)にとっては、ただ他の適宜な商品A(亜麻布等々)が自分にたいしてとる価値関係の内部においてのみ、すなわち、この関連の内部においてのみ、起こるということなのである。


いかなる商品や、自分自身にたいして等価として関係することはなく、したがってまた、自分自身の自然の皮膚を、自分自身の価値の表現となすことは出来ないのであるから、このような商品は、他の商品を等価として、これに関係しなければならぬ。


いいかえれば、他の商品の自然の皮膚を、自分自身の価値形態にしなければならぬ。


このことを明らかにするために、商品体としての、すなわち、使用価値としての商品体に用いられるをつねとする。


度量衡の例を見よう。一つの砂糖塊は、物体であるから、重い。したがって重量をもっている。しかしながら、人は砂糖塊をなでてめさすっても、その重量を見つけることはできない。


そこでわれわれは、あらかじめ重量の定められている種々なる鉄片を取り出すのである。鉄の物体形態め、砂糖塊のそれも、それだけを見れば、とるに、重さの現象形態ではない。


だが、砂糖塊を重さとして表現するためには、われわれは、これを鉄との重量関係におく。この関係においては、鉄は、重さ以外の何ものを示さない一物体となっている。


したがって、鉄量は砂糖の重量尺度として用いられ、砂糖体にたいして単なる重量態容、すなわち、重さの現象形態を代表する。

鉄がこの役割を演ずるのは、ただこの関係の内部においてのみであって、この関係の内部で、砂糖は、あるいは重量を測ろうという他のどんな物体でも、鉄と相対するのである。


両物が重さをもっていなければ、これらの物は、この関係にはいりえないであろうし、したがって、一物は他物の重量の表現として役立つことはできないであろう。


われわれは、両者を秤皿に投ずるならば、実際にこれらの二物が重さとして同一なるのであり、したがって、一定の割合において同一重量のあのであるということを知るのである。


鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊にたいして、ただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上衣体は、亜麻布にたいして、ただ価値を代表するだけである。


だが、ここで比論は終わるのである。鉄は砂糖塊の重量表現で、両物体に共通なる自然属性、すなわち、それらの品 重さを代表したのであるが、他方の上衣は亜麻布の価値表現において両物の超自然的属性を、すなわち、それらのものの価値を、およそ純粋に社会的なるのを、代表しているのである。


一商品、例えば亜麻布の相対的価値形態は、その価値たることを、何かその物体と物体の属性とから全く区別されためのとして、例えば上衣に等しいあのとして、表現しているのであるが、この表現自身が、一つの社会関係を内にかくしていることを示唆している。


等価形態では逆になる。等価形態であるゆえんは、まさに、一商品体、例えば上衣があるがままのものとして価値を表現し、したがって自然のままのものとして、価値形態をもつているということのなかにあるのである。76ページ行目



2021年11月20日土曜日

第50回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 72ページ

 第50回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 72ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実 

b相対的価値形態の量的規定性

三 等価形態



Ⅳ 亜麻布と上衣の生産にそれぞれ必要な労働時間、したがって、それらの価値は、同時に同一の方向に変化するとしても、ちがった程度に変化するばあい、または反対の方向に変化するばあい等々がある。


一商品の相対的価値にたいする、この種のあらゆる可能な組み合わせの影響は、簡単にI、Ⅱ、Ⅲのばあいの応用によって明らかとなる。


このようにして価値の大いさの現実の変化は、その相対的な表現において、あるいは相対的価値の大いさにおいて、曖昧さを残さず反映されるわけでめ、剰すところなく反映されるわけでもない。


 一商品の相対的価値は、その価値が不変であって変化しうる。その相対的価値は、その価値が変化して、不変でありうる。そして最後に、その価値 の大いさとその価値の大いさの相対的表現とにおける同時的変化は、決して相互に一致するわけのものではないのである。


(10) 第二版への注。価値の大いさとその相対的表現との間のこの不一致は、俗学的経済学によってもちまえの鋭敏さで、利用しつくされている。


例えば、「かりに、Aが低落するのは、その間にAにたいして支出される労働は減少しないとしてる、その交換されるBが上騰するからであるということを承認するとしたらどうか、そうなったら、諸君の一般的な価値原理は崩壊するであろう。


・・・もし、Aの価値は相対的にBにたいして上騰し、Bの価値は相対的にAにたいして低下するということを承認するならば、リカ ードが、一商品の価値はつねにこれに体現されている労働の量によって規定されるという、彼の大命題を樹立した基礎は、ゆらぐ。


なぜかというに、もしAの費用における変化が、それが交換されるBにたいする比率において、それ自身の価値を変化させるだけでなく、Bの生産に要する労働量においてなんらの変化が起こらなかったにもかかわらず、相対的にAの価値にたいするBの価値をも変化させるとするならば、一商品にたいして支出される労働量が、その価値を規制するということを主張する教義は、崩壊するだけでなく、一商品の生産費がその価値を規制するという教義も、亡びることになるからである」(J・ブロードハースト『経済学にかんする論策』ロンドン、 一八四二年、一一・一四ページ)。


ブロードハースト氏は、これと同じように、こう。言うことができたのだ。


こころみ に 10/20, 10/50, 10/100 等々という数的比率を考えて見るといい。10なる数に変わりはない。だがしかし、その比、その分母たる 20, 50, 100 にたいする相対的な大い

さは、不断に減少している。


だから、10というような整数の大いさが、例えば、これに含まれている1 の倍数によって「規制」されるという大原理は、崩壊してしまう、と。


三 等価形態(新日本95ページ)


われわれはこういうことを知った、すなわち、商品A(亜麻布)が、その価値を異種の商品B(上衣)という使用価値に表現することによって、Aなる商品は、Bなる商品自身にたいして独特な価値形態、すなわち、等価の形態を押しつけるということである。


亜麻布商品は、それ自身の価値たることをば、次のことによって現わしてくる、すなわち、

自分にたいして上衣が、その肉体形態とことなった価値形態をとることなくして、等しいものとして置かれるということである。


このようにして、亜麻布は自分自身価値であることを、実際には、上衣が直接に自分と交換しうるものであるということをつうじて、表現するのである。


一商品の等価形態は、それゆえに、この商品の他の商品にたいする直接的な交換可能性の形態である。


 もし上衣というような一商品種が、亜麻布のような他の商品種にたいして、等価として用いられるとしても、したがって、上衣が亜麻布と直接に交換しうる形態にあるという独特の属性を得るとしてる、これによって、決して上衣と亜麻布とが交換されうる割合、与えられているというわけではない。


この割合は、亜麻布の価値の大いさが与えられているから、上衣の価値の大いさにかかっている。


上衣が等価として表現され、亜麻布が相対的価値として表現されるか、それと逆に亜麻布が等価として表現され、上衣が相対的価値として表現されるか、そのいずれにしても、上衣の価値の大いさが、その生産に必要な労働時間によって、したがって、その価値形態からは独立して決定されているということには、変わりはない。


しかし、上衣なる商品種が、価値表現において等価の地位をとることになると、その価値の大いさは、価値の大いさとしての表現をもたなくなる。


その価値の大いさは、価値方程式において、むしろただ一物のいち定量として現れるだけである。


2021年11月19日金曜日

第49回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 70ページ

 第49回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 70ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実 

b相対的価値形態の量的規定性



大谷翔平がMVPを獲得しました。7度目か8度目の賞です。将棋では藤井聡太が来年5冠目の挑戦をっするそうです。相手は渡辺名人です。今年、渡辺名人からタイトル1つ取っている。ので勝つ可能性は高そうです。



の使用対象である。この与えられた商品量は、人間労働の一定量を含んでいる。したがって、価値形態は、ただに価値一般を表現するだけでなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大いさを。表現しなければならぬ。


商品Aの商品Bにたいする価値関係、亜麻布の上衣にたいする価値関係においては、したがって、上衣なる商品種は、ただに価値体一般として亜麻布に質的に等しいと置かれるだけでなく、一定の亜麻布量、例えば二Oェレの亜麻布にたいして、価値体または等価の一定量、例えば一着の上衣が等しいと置かれるのである。


「亜麻布 20 エレ=上着1着 または亜麻布二Oェレは上衣一着に値する」という方程式は、一着の上衣の中にまさに二Oェレの亜麻布の中におけると同じだけの量の価値実体がかくされているということ、両商品量は、したがって、同じだけの労働が加えられている、または同一大いさの労働時間がかけられているということを前提とする。


しかしながら、二Oェレの亜麻布または一着の上衣の生産に必要なる労働時間は、機織または裁縫の生産力における一切の変化ととろに変化する。


そこで、価値の大いさの相対的表現に及ぼすこのような変化の影響が、やっと詳細に研究さ

れなければならぬ。


I 亜麻布の価値は変化するが(一九)、上衣価値は不変であるとするばあい。亜麻布の生産に必要な労働時間が、例えば亜麻栽培地の豊度の減退の結果、二倍となったとすれば、その価値は二倍となる。


亜麻布20 エレ=上着1着のかわりに、われわれは 亜麻布 20 エレ=上着2着という式をもつことになる。というのは、一着の上衣は、いまでは二0エレの亜麻布の半ばだけの分量の労働時間を含むにすぎないのであるからである。


これに反して、亜麻布の生産に必要な労働時間が半分だけ、例えば織台改良の結果、減少するとすれば、亜麻布価値は半分だけ低下する。


したがってこんどは 亜麻布 20 エレ=上着1/2着となる。商品Aの相対的価値、すなわち、その商品Bに表現された価値は、このようにして、商品Bの価値を同一としてる、商品Aの価値に正比例して上脱したり、低下したりするのである。


(一九)「価値」(” Wert“)という表現は、ここでは、すでに以前に時々あちこちでやったように、量的に規定された価値、すなわち、価値の大いさという意味に用いられている。


Ⅱ 亜麻布の価値は不変であって、上衣価値が変化するばあい。この事情のあとでは上衣の生産に必要な労働時間が、例えば羊毛せんせつが不便となったために、二倍となったとすれば、われわれは 亜麻布 20エレ= 上着1着 という式のかわりに、いまでは 亜麻布 20 エレ=上着1/2 という式を得る。これに反して、上衣の価値が半分に低下したとすれば、亜麻布 20 エレ= 上着2着 という式を得ることになる。


したがって商品Aの価値を不変としても、 商品Bで表現されるその相対的価値は、Bの価値変化と反比例で、低下したり上騰したりするのである。


IおよびⅡの項における各種のばあいを比較すると、次のような結果が生ずる、すなわち、相対的価値の同一なる量的変化が、全く相反した原因から発生しうるということである。このようにして、亜麻布 20 エレ=上着1着 という式から、(一)亜麻布 20 エレ=上着 2 着という方程式が出てくる。


それは亜麻布の価値が二倍となったのか、または、上衣の価値が半ばに低下したのかによるのである。さらに、(二)亜麻布 20 エレ=上着1/2着という方程式出てくる。


それは亜麻布の価値が半分に低下したのか、または上衣の価値が二倍にのぼったからである。


Ⅲ 亜麻布と上衣の生産に必要な労働量は、同時に同一方向に同一割合で変化することもある。このばあいには、 その価値がどんなに変化しても、依然として亜 麻布20 エレ= 上着1着 である。


この価値変化を発見するには、これらの二つの商品を、価値不変なる第三の商品と比較しさえすればよいのである。


一切の商品の価値が、同時に同一割合で上騰または低下するならば、その相対的価値は不変にとどまるであろう。


こんどは、この実際の価値変化は、同一労働時間に、以前より大きな商品量か、小さな商品量かが、同じように供給されるということから明らかとなるであろう。

71ページ末


2021年11月18日木曜日

第48回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳  岩波書店の学習 68ページ A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 二相対的価値形態 a相対的価値形態の内実  b相対的価値形態の量的規定性

 第48回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 

岩波書店の学習 68ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実 

b相対的価値形態の量的規定性


 日本の政治状況を簡単に、衆議院議員選挙が10月31日投開票で行われました。組閣も終わり、岸田政権が始動しています。「新しい異本主義」を政策の柱とすることになりました。分配を是正して、中間層増やすようです。

 安倍政権は格差を拡大して、貧困を深刻化してしまいました。どのように方向転換するのか見てみたいと思います。

 とりあえずは、『賃金を上げる」政策で・『賃上げ企業には税制で優遇する」ということです。介護・医療者の賃金是正も言われていて。年間1%以上は賃上げしたいようです。どのような結果がでるのかとても楽しみです。



68ページ

上衣の生産においては、事実上裁縫の形態で人間労働力が支出された。したがって、人間労働は上衣の中に堆積されている。


この側面から見れば、上衣は「価値の保持者」である。もちろん、この上衣の属性そのものは、どんなに糸目がすいていても、のぞいて見えるわけではないが。


そして亜麻布の価値関係においては、上衣はただこの側面からのみ、したがって、体現された価値としてのみ、価値体としてのみ取り上げられている。


上衣がどんなにすまし顔で現われて、亜麻布は、彼の中に血のつながりのある美わしい価値ごころを認めている。だが、上衣は彼女にたいして、同時に価値が彼女のために上衣の形態をとることなくしては、価値を表わすことはできないのである。


こうして、個人Aは個人Bに対して、Aにとって、陛下が同時にBの肉体の姿をとり、したってなお容貌や毛髪やその他多くのものが、その都度の国君ととめに変わるということなくしては、陛下として相対するわけにはいかない。


上衣が亜麻布の等価をなす価値関係においては、このように、上衣形態は、価値形態とされる。亜麻布なる商品の価値は、したがって、上衣なる商品の肉体で表現される。


一商品の価値は他の商品の使用価値で表現されるのである。使用価値としては、亜麻布は上衣とは感覚的にちがった物である。


価値としては、それは「上衣に等しいあの」であって、したがって、上衣に見えるのである。このようにして、亜麻布は、その自然形態とはちがった価値形態を得る。


その価値たることが、上衣との同一性に現われること、ちょうどキリスト者の羊的性質が、その神の仔羊との同一性に現われるようなものである。


商品価値の分析が以前に告げたような一切のことを、亜麻布は他の商品、上衣と交わるようになるやいなや、自身で、申し述べることがわかる。


ただ、亜麻布は、その思いを自分だに通ずる言葉、すなわち商品の言葉でもらすだけである。


人間労働の抽象的な属性で労働が亜麻布自身の価値を形成することをいうために、亜麻布は、上衣が、亜麻布に等しいとされ、したがって価値であるかぎりにおいて、亜麻布と同一の労働から成っているという風に言うのである。


亜麻布の森厳なる価値対象性が、そのゴワゴワした布の肉体とちがっているというために、亜麻布は、価値が上衣に見え、したがって、亜麻布自身が価値物としては、卵が他の卵に等しいと同じように、上衣に等しいという風に言うのである。


ついでに述べておくと、商品の言葉め、ヘブライ語のほかに、なお多くの多少正確さのちがったいろいろの方言をやっている。ドイツ語の Wertsein“「価値あり」という言葉は、例えば、口!マン語の動詞 valere,valer, valoir上から順次にイタリア語、スペイン語、フランス語。……訳者]ほどにはっきりと、商品Bを商品Aと等置することが、商品A自身の価値表現であるということを表現しない。


パリは確かにミサに値する!(Paris vaut bien une messe !)[アンリ四世はパリを支配下において王位につくために、新教から旧教に改宗した。


そのとき右の言葉を発したといわれている。……訳者]。したがって、価値関係を通して、商品Bの自然形態は、商品Aの価値形態となる。


あるいは商品Bの肉体は、商品(一八)Aの価値かがみとなる。


商品Aが商品Bを価値体として、すなわち、人間労働の体化物として、これに関係すること

により、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料とするのである。


商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値に表現されて、相対的価値の形態を得るのである。

(一八) このことは、商品と同じようにいくらか人間に色あてはまる。人間は、鏡をぬって生まれてくるものでも、フィヒテ流の哲学者として、我は我であるといって生まれてくるものでもないのであるから、まず他の人間の中に、自分を照らし出すのである。


ペーテルという人間は、パウルという人間にたいして、自身に等しいものとして相関係することによって、初めて、自分自身に人間として相関係する。


しかしながら、このようにしてペーテルにとっては、パゥルなるおのの全身が、そのパウ

ル的肉体性のままで、人間という種の現象形態と考えられるのである。


b 相対的価値形態の量的規定性

価値の表現せらるべきあらゆる商品は、一五シェッフェルの小麦、一〇〇封度のコーヒー等というように、一定量の使用対策である。



2021年11月17日水曜日

第47回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 66ページ A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 二相対的価値形態 a相対的価値形態の内実

 第47回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 66ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実



他方において、亜麻布自身の価値たることが前景に押し出される、すなわち、独立の表現を得る。なぜかというに、ただ価値としてのみ亜麻布は、等価物としての、あるいは自分と交換されうるものとしての、上衣に関係するからである。


このようにして、酪酸は城酸プロピルとはちがった物体である、しかし、この両者は同一の化学的実体―炭素(C)、水素(H) および酸素(0)|から、しかも同一割合の組成、すなわち、C4H8O2, から成り立っている。そこで、もし酵酸に蟻酸プロピルが等しい関係に置かれるとすれば、この関係においては、第一に蟻酸プロピルは単に C4H8O2 の存在形態とされ、第二に酪酸また C4H8O2 から成り立っということがいわれるであろう。


こうして、蟻酸プロピルを酪酸と等置することによって、その化学的実体は、その物体の形態と区別して表現されるであろう。


価値としては、商品は人間労働の単なる凝結物であると、われわれがいうとすれば、われわれの分析は、これらの商品を価値抽象に整約するのではあるが、これらの商品に、その自然形態とちがった価値形態を与えるものではない。


一商品の他のそれにたいする価値関係においては、ことはちがってくる。その価値性格は、この場合には、それ自身の他の商品にたいする関係によって現われてくる。


例えば、上衣が価値物として亜麻布に等しいとされることによって、上衣にひそんでいる労働は、亜麻布にひそんでいる労働に等しいとされる。


さて上衣を縫う裁縫は、亜麻布を織る機織とは種類のちがった具体的な労働であるが、しかしながら、機織に等しいと置かれるということは、裁縫を、実際に両労働にあって現実に同一なるのに、すなわち、両労働に共通な人間労働という性格に、整約するのである。


この迂路を通って初めてこういわれるのである、機織、価値を織りこむかぎり、裁縫にたいしてなんらの識別徴表をもっていない、すなわち、抽象的に人間的な労働であるというのである。


ただおのおのちがった商品の等価表現のみが、種類のちがった商品にひそんでいる異種労

働を、実際にそれらに共通するのに、すなわち、人間労働一般(一七a)に整約して、価値形成労働の特殊性格を現出させる。


(一七a) 第二版への注。ウィリアム・ペティの後に、価値の性質を見破った最初の経済学者の一人である有名なフランクリンはこう述べている。「商業はそうじてある労働の他の労働にたいする交換にほかならないのであるから、すべての物の価値は、労働で評価されるのが、もっとも正しい」(『B・フランクリン著作集』スパークス版、ボストン、一八三六年、第二巻、二六七ページ)。フラン リンは、すべての物の価値を「労働で」評価して、交換された労働の異種性から抽象しているということを、そしてこのようにして、これを同一人間労働に整約しているのだということを、意識していない。


それでも、自分で知らないことを、彼は言っているのである。彼は、はじめ「ある労働」について、次いで「他の労働について」、最後に、すべての物の価値の実体であるほかなんらの名をふっていない「労働」について語っている。

 

 だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するのではあるが、価値ではない。それは凝結した状態で、すなわち、対象的な形態で価値となる。(新日本87ページ16行)


人間労働の凝結物としての亜麻布価値を表現するためには、それは、亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にや存する「対象性」として表現されなければならぬ。課題はすでに解決されている。


 亜麻布の価値関係において、上衣はこれと質的に等しいものとして、すなわち、同一性質の物とみなされる。というのは、上衣は価値であるからである。


したがって、上衣はここでは価値の現われる物として、またはその掴みうる 自然形態で、価値を表示している物となされている。


ところが上衣、すなわち、上衣商品の肉体は、たしかに単なる使用価値ではあるが、しかし、ある上衣をとって見ると、任意の一片の亜麻布と同じように、価値を表現するもので

はない。


このことは、ただ次のことを立証するだけである、すなわち、上衣が亜麻布にたいする価値関係の内部においては、その外部におけるより多くを意味すること、あたから多くの人間が笹縁(ささべり)をつけた上衣の内部においては、その外部におけるより多くを意味するようなものであるというのである。


2021年11月16日火曜日

第46回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 64ページ A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 二相対的価値形態 a相対的価値形態の内実

 第46回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 64ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実


契機であるが、同時に相互に排除しあう、または相互に対立する極位である。すなわち、同一価値表現の両極である。この両極は、つねに価値表現が相互に関係しあうちがった商品の上に、配置されるものである。


私は、例えば亜麻布の価値を、亜麻布で表現することはできない。亜麻布 20 エレ=亜麻布20エレ というのは、なんら価値表現とはならない。


方程式はむしろ逆のことをいっている。すなわち、20ェレの亜麻布は、20ェレの亜麻布にほかならないということ、亜麻布という使用対象の一定量にほかならないということである。


 したがって、亜麻布の価値はただ相対的にのみ、すなわち、他の商品においてのみ、表現されうるのである。したがって、亜麻布の相対的価値形態は、何らかの他の商品は、自分に対して透過携帯にあるということを予定している。他方において、等価の役を引き受けているこの他の商品は、みずから同時に相対的価値形態にあるというわけにはいかぬ。


この商品は自分の価値を表現しているのではない。この商品はただ他の商品の価値表現に、材料を供給しているだけである。


むろん亜麻布 20 エレ=上着1着または20ェレの亜麻布は一着の上衣に値するという表現は、上着1着=亜麻布 20 エレ または1着の上衣は20ェレの亜麻布に値するという逆関係をも含んではいる。


しかしながら、上衣の価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければならぬ。


そして私がこれを逆にしてしまうやいなや、亜麻布は上衣のかわりに等価となる。


したがって、同一の商品は同一価値表現において、同時に両形態に現われることはできない。この二つの形態は、むしろ対極的に排除しあうのである。


 それで、ある商品が相対的価値形態にあるか、これに相対立する等価形態にあるかということは、あっぱら価値表現におけるその時々の位置にかかっているのである。


ということは、ある商品がその価値を表現するものであるか、それともその商品によって価値が表現されるものであるか、にかかっているということである。


二 相対的価値形態


a 相対的価値形態の内実(新日本では、84ページ)


どういう風に一商品の単純なる価値表現が、二つの商品の価値関係にかくされているかということを見つけ出してくるためには、価値関係を、まずその量的側面から全く独立して考察しなければならぬ。


人は多くのばあい正反対のことをやっている。そして価値関係の中に、ただ二つの商品種の一定量が相互に等しいとされる割合だけを見ている。


人は、異種の物の大いさが、同一単位に約元されてのちに、初めて量的に比較しうるものとなるということを忘れている。


同一単位の表現としてのみ、これらの商品は、同分母の、したがって通約しうる大いさなのである。

【新日本は85ページ)

(一七) S・ベイリー のように、価値形態の分析をやった少数の経済学者が、なんらの結論に到達できなかったのは、第一に、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二に、彼らが実際的なブルジョアの生のままの影響下にあって、初めから、もっぱら量的規定性だけを眼中に置いているからである。「量に対する支配が、 ー価値をなすちのである」(S・ベイリー

『貨幣とその価値変動』口 ン ドン、一八三七年、一一ページ)。


亜麻布 20 エレ=上着1着または =20着または =x着となるかどうか、すなわち、一定量の亜麻布が多くの上衣に値するか、少ない上衣に値するかどうかということ、いずれにしても、このようないろいろの割合にあるということは、つねに、亜麻布と上衣とが価値の大いさとしては、同一単位の表現であり、同一性質の物であるということを含んでいる。


亜麻布=上着ということは、方程式の基礎である。


しかしながら、二つの質的に等しいとされた商品は、同一の役割を演ずるものでない。ただ亜麻布の価値のみが表現されるのである。


そしていかに表現されるか? 亜麻布の「等価」としての、あるいは亜麻布と「交換され得る

もの」としての上衣に、関係せしめられることによってである。


この関係において、上衣は価値の存在形態、すなわち、価値物となされる。なぜかというに、このようならのとしてのみ、上衣は亜麻布と同一物であるからである。他方において、亜麻布自身の価値たることが前景に押し出される。66ページ1行目



2021年11月15日月曜日

第45回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 62ページ

 第45回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 62ページ


新日本版『資本論』で同じくらいのところを続けています。岩波版では役者は向坂逸郎氏です。内容が、違うところもあるかもしれないですので、比較のために両方すすめることにします。ただ違いを探すために行うことではなく。学習を深めることを目的としています。


第1篇商品と貨幣

第1章 商品

第三節価値形態または交換価値


商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄、亜麻布、小麦等々として、生まれてくる。これが彼等の生まれたままの自然形態である。だが、これらの色のが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの、すなわち使用対象であると同時に価値保有者であるからである。


 したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。


 諸商品の価値対象性は、かのマダム・クィックリ「シェイクスピアの『ヘンリー四世』等の中の人物。……訳者]とちがって、一体どこを掴まえたらいいか、誰にわからない。


 商品体の感覚的に手触りの荒い対象性と正反対に、諸商品の価値対象性には、一分子の自然素材もはいっていないのである。


 したがって、一々の商品をどう捻りまわして見ても、それを価値物として摑むことはできない。だが、やし諸商品が同一の社会的等一性である人間労働の表現であるかぎりでのみ、価値対象性を有ち、したがってそれらの価値対象性は、純粋に社会的であるということを想い起こして見るならば、おのずから価値対象性が、ただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるのであるということも明らかとなる。


 われわれは、実際において商品の交換価値から、または交換比率から出発して、その中にかくされている商品の価値をさぐりえたのである。


 いまわれわれは、価値のこの現象形態に帰らなければならぬ。人は、何はとめあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。 ーすなわち、貨幣形態である。


 だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっと単純なもっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。


 これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。

最9単純な価値関係は、明らかに、ある商品が、他のなんでもいいが、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である。


 したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいして最も単純な価値表現を与

えている。


A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

x量商品 A=y量商品B あるいは、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。

(TEXT 20 : -=Ek1' または二〇ェレの亜麻布は一着の上衣に値する。)


| 価値表現の両極、すなわち、相対的価値形態と等価形態

一切の価値形態の秘密は、この単純なる価値形態の中にかくされている。したがって、その分析が、まことの難事となるのである。


 ここでは、二種の異なった商品AとB、われわれの例でいえば、亜麻布と上衣とは、明白に二つのちがった役割を品 演じている。亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの価値表現の材料の役をつとめている。


 第一の商品は能動的の役割を演じ、第二の商品は受動的のそれを演じている。第一の商品の価値は、相対的価値として表わされている、いいかえると、第一の商品は相対的価値形態にあるのである。


第二の商品は等価として機能している、すなわち等価形態にあるのである。


相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除し合う、また相互に対立する極位である。

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注目

『資本論』の学習第234回第3巻資本主義的生産の総過程第1部第5篇利子と企業者利得地への利潤の分割。 利子付き資本第25 章 信用と空資本

  5 資本論第3巻第5篇・第25章「信用と空資本」は、資本主義が高度に発展した段階で現れる** 金融の仕組みと“見かけの資本”**を分析する重要な章です。少し抽象的ですが、現代の株式市場 やバブル経済を理解する鍵にもなります。 ■ 全体のテーマ この章の核心はシンプルに言うと:...

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