第45回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 62ページ
新日本版『資本論』で同じくらいのところを続けています。岩波版では役者は向坂逸郎氏です。内容が、違うところもあるかもしれないですので、比較のために両方すすめることにします。ただ違いを探すために行うことではなく。学習を深めることを目的としています。
第1篇商品と貨幣
第1章 商品
第三節価値形態または交換価値
商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄、亜麻布、小麦等々として、生まれてくる。これが彼等の生まれたままの自然形態である。だが、これらの色のが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの、すなわち使用対象であると同時に価値保有者であるからである。
したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。
諸商品の価値対象性は、かのマダム・クィックリ「シェイクスピアの『ヘンリー四世』等の中の人物。……訳者]とちがって、一体どこを掴まえたらいいか、誰にわからない。
商品体の感覚的に手触りの荒い対象性と正反対に、諸商品の価値対象性には、一分子の自然素材もはいっていないのである。
したがって、一々の商品をどう捻りまわして見ても、それを価値物として摑むことはできない。だが、やし諸商品が同一の社会的等一性である人間労働の表現であるかぎりでのみ、価値対象性を有ち、したがってそれらの価値対象性は、純粋に社会的であるということを想い起こして見るならば、おのずから価値対象性が、ただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるのであるということも明らかとなる。
われわれは、実際において商品の交換価値から、または交換比率から出発して、その中にかくされている商品の価値をさぐりえたのである。
いまわれわれは、価値のこの現象形態に帰らなければならぬ。人は、何はとめあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。 ーすなわち、貨幣形態である。
だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっと単純なもっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。
これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。
最9単純な価値関係は、明らかに、ある商品が、他のなんでもいいが、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である。
したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいして最も単純な価値表現を与
えている。
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
x量商品 A=y量商品B あるいは、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。
(TEXT 20 : -=Ek1' または二〇ェレの亜麻布は一着の上衣に値する。)
| 価値表現の両極、すなわち、相対的価値形態と等価形態
一切の価値形態の秘密は、この単純なる価値形態の中にかくされている。したがって、その分析が、まことの難事となるのである。
ここでは、二種の異なった商品AとB、われわれの例でいえば、亜麻布と上衣とは、明白に二つのちがった役割を品 演じている。亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの価値表現の材料の役をつとめている。
第一の商品は能動的の役割を演じ、第二の商品は受動的のそれを演じている。第一の商品の価値は、相対的価値として表わされている、いいかえると、第一の商品は相対的価値形態にあるのである。
第二の商品は等価として機能している、すなわち等価形態にあるのである。
相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除し合う、また相互に対立する極位である。
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