第46回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 64ページ
A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
二相対的価値形態
a相対的価値形態の内実
契機であるが、同時に相互に排除しあう、または相互に対立する極位である。すなわち、同一価値表現の両極である。この両極は、つねに価値表現が相互に関係しあうちがった商品の上に、配置されるものである。
私は、例えば亜麻布の価値を、亜麻布で表現することはできない。亜麻布 20 エレ=亜麻布20エレ というのは、なんら価値表現とはならない。
方程式はむしろ逆のことをいっている。すなわち、20ェレの亜麻布は、20ェレの亜麻布にほかならないということ、亜麻布という使用対象の一定量にほかならないということである。
したがって、亜麻布の価値はただ相対的にのみ、すなわち、他の商品においてのみ、表現されうるのである。したがって、亜麻布の相対的価値形態は、何らかの他の商品は、自分に対して透過携帯にあるということを予定している。他方において、等価の役を引き受けているこの他の商品は、みずから同時に相対的価値形態にあるというわけにはいかぬ。
この商品は自分の価値を表現しているのではない。この商品はただ他の商品の価値表現に、材料を供給しているだけである。
むろん亜麻布 20 エレ=上着1着または20ェレの亜麻布は一着の上衣に値するという表現は、上着1着=亜麻布 20 エレ または1着の上衣は20ェレの亜麻布に値するという逆関係をも含んではいる。
しかしながら、上衣の価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければならぬ。
そして私がこれを逆にしてしまうやいなや、亜麻布は上衣のかわりに等価となる。
したがって、同一の商品は同一価値表現において、同時に両形態に現われることはできない。この二つの形態は、むしろ対極的に排除しあうのである。
それで、ある商品が相対的価値形態にあるか、これに相対立する等価形態にあるかということは、あっぱら価値表現におけるその時々の位置にかかっているのである。
ということは、ある商品がその価値を表現するものであるか、それともその商品によって価値が表現されるものであるか、にかかっているということである。
二 相対的価値形態
a 相対的価値形態の内実(新日本では、84ページ)
どういう風に一商品の単純なる価値表現が、二つの商品の価値関係にかくされているかということを見つけ出してくるためには、価値関係を、まずその量的側面から全く独立して考察しなければならぬ。
人は多くのばあい正反対のことをやっている。そして価値関係の中に、ただ二つの商品種の一定量が相互に等しいとされる割合だけを見ている。
人は、異種の物の大いさが、同一単位に約元されてのちに、初めて量的に比較しうるものとなるということを忘れている。
同一単位の表現としてのみ、これらの商品は、同分母の、したがって通約しうる大いさなのである。
【新日本は85ページ)
(一七) S・ベイリー のように、価値形態の分析をやった少数の経済学者が、なんらの結論に到達できなかったのは、第一に、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二に、彼らが実際的なブルジョアの生のままの影響下にあって、初めから、もっぱら量的規定性だけを眼中に置いているからである。「量に対する支配が、 ー価値をなすちのである」(S・ベイリー
『貨幣とその価値変動』口 ン ドン、一八三七年、一一ページ)。
亜麻布 20 エレ=上着1着または =20着または =x着となるかどうか、すなわち、一定量の亜麻布が多くの上衣に値するか、少ない上衣に値するかどうかということ、いずれにしても、このようないろいろの割合にあるということは、つねに、亜麻布と上衣とが価値の大いさとしては、同一単位の表現であり、同一性質の物であるということを含んでいる。
亜麻布=上着ということは、方程式の基礎である。
しかしながら、二つの質的に等しいとされた商品は、同一の役割を演ずるものでない。ただ亜麻布の価値のみが表現されるのである。
そしていかに表現されるか? 亜麻布の「等価」としての、あるいは亜麻布と「交換され得る
もの」としての上衣に、関係せしめられることによってである。
この関係において、上衣は価値の存在形態、すなわち、価値物となされる。なぜかというに、このようならのとしてのみ、上衣は亜麻布と同一物であるからである。他方において、亜麻布自身の価値たることが前景に押し出される。66ページ1行目
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