follow me

 



2021年5月13日木曜日

第12回『資本論」の学習 序文のつづき 人物 向坂逸郎

 2021年5月13日木曜日 天気雨


マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習、


序文3ページ2行目から

 従って、価値形態に関する節を除けば、 この書には、何回だという非難を受けるようなところがあるとは思えない。私はもちろん、何か新しいことを学び、したがってまた。自分で考えようと志す読者を想定しているのである。

 物理学者は自然過程をこういう風に観察する、すなわち、自然過程が最も的確な形態で、攪乱的に影響的永久によって 混濁ソレルこと最も少なく。現れる場合をとるが、あるいは可能な場合には、実験を、過程純粋な進行が確保される条件のもとで、行うのである 。私はこの著作で研究しなければならないものは、資本主義的生産様式であり、これに相当する生産諸関係、及び交易 諸関係である。

 その典型的な場所は、今日までのところイギリスである。 これが、私の理論的展開の主な解明になぜイギリスを用いるかの理由である。だが、ドイツの読者がパリサイの徒のようにイギリスの工業労働者や農業労働者の状態について肩をすくめ、あるいはそれと同時に、楽観的にドイツでは、ことはまだ永い間 そんなに悪化もしないのだと言って自ら慰めているとすれば、私は彼にこう呼びかけなければならない。D e te fabula narralur!(ここで報告しているのは君のことな のだの!)と ( 3ページ12行目まで引用です。)

パリサイ=分裂する者の意 キリスト時代に盛んに行われたユダヤ教の一派。西暦前2世紀の後半に起こり、モーセの律法の厳格な遵守を視聴これを守らないものを汚れたものとしておのけた。イエスはその偽善的傾向を激しく攻撃した。ファリザイ派 


資本主義的商品生産  

Ⅰ)資本家が労働者を雇って金儲けのために行う商品生産

Ⅱ)その特徴は二つある。

1)商品生産である。資本主義的生産は商品生産の最高の発展形態である。

2)剰余価値を手に入れるために生産が行われる。

Ⅲ)封建社会の崩壊期に単純商品生産が分解して資本主義的生産が発展した。→〈商品生産〉≪単純商品生産≫ 〔文献 ≪資本論≫ⅢP、1238〕


(マルクス経済学事典 宮川実 青木書店 113ページ 14行目資本主義的商品生産 


資本主義的生産関係

 資本主義社会の生産関係の基礎は、生産手段を資本家が私有し、労働者(直接生産者)は生産手段を持っていないということである。直接生産者である労働者は、奴隷や濃度と違って身分的な隷属関係から解放され自由な人格を認められているが、生産手段を全く持っていないために、生きて行くためには自分の労働力を商品として資本家に売らなければならない。つまり資本家に雇われて賃金をもらわなければならない。

 資本家は剰余価値を手に入れるために(金儲けをするために)労働者の労働力を買って商品生産を行う。→〈 生産関係〉〈資本主義の階級構成〉〈賃労働〉〔文献 マルクス≪ゴータ綱領批判〉マル・エン2巻選集ⅡP、17≪資本論≫ ⅢP、1238〕


(マルクス経済学事典 宮川実 青木書店 113ページ 25行目資本主義的生産関係) 


剰余価値については、第一巻では第3篇 絶対的剰余価値の生産 第4篇 相対的剰余価値の生産 第5篇 絶対的剰余価値と相対的剰余価値の生産 となっています。ここは十分時間をかけて学習しないと分からないでしょう。 

向坂逸郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ナビゲーションに移動

検索に移動

マルクス経済学労農派

生誕

1897年2月6日

死没

1985年1月22日(87歳没)

影響を

受けた人物

カール・マルクス

影響を

与えた人物

小島恒久

実績

社会主義協会を創設し日本社会党左派の理論的支柱となった

テンプレートを表示

向坂 逸郎(さきさか いつろう、1897年2月6日 - 1985年1月22日)は、日本マルクス経済学者・社会主義思想家。九州大学教授・社会主義協会代表を歴任。

目次

来歴・人物[編集]

学生時代[編集]

福岡県大牟田市会社員の息子として生まれる。弟に向坂正男[1]山崎八郎[2]がいる。福岡県立八女中学校(1年夏から3年夏までは北海道庁立小樽中学校に転校[3]。)、第五高等学校を経て、1921年に東京帝国大学(現東京大学経済学部を卒業すると、東京帝大の助手となった。五高在学中、ドイツ語の勉強のために、カール・マルクスの著作を読んだことからマルクス主義に傾倒するようになったという。

ドイツ留学と結婚[編集]

1922年11月より1925年5月までドイツベルリンに留学。留学中はマルクス主義関係の著作を読むことに専念、この時期にマルクス主義の世界観をほぼ確立した。当時のドイツは第一次世界大戦後の猛烈なインフレーションによりマルクが暴落しており、向坂は外貨でマルクス主義に関する貴重な書物を大量に買い集めることが出来た。向坂がマルクス主義文献の収集家となった基礎はこのときに築かれたと言ってよい。これより先、1922年10月嶺ゆきと婚約、帰国後の1925年6月、土屋喬雄夫妻を仲人役に結婚した。

九州帝国大学教授に[編集]

ドイツから帰国すると、九州帝国大学(現九州大学)助教授に任命され、1926年には教授に昇進した。また、雑誌『労農』の同人および論客としても知られ、日本を代表するマルクス経済学者の一人となった。

当局からの弾圧[編集]

1928年治安維持法が改正されるなど社会主義共産主義に対する弾圧が厳しくなると、マルクス主義者の向坂に対する風当たりも強くなり、1928年に九州帝大教授を他の二教授とともに辞任させられた。その後東京に移った向坂は改造社の『マルクス・エンゲルス全集』の編纂と翻訳に携わった。同時に、1928年からの地代論争、1930年代の日本資本主義論争では、労農派の代表的論客として活躍した。向坂の地代論争での論文は『地代論研究』に、日本資本主義論争での論文は『日本資本主義の諸問題』にそれぞれまとめられている。

1937年に第1次人民戦線事件に連座して逮捕・投獄される。保釈後も言論活動を封じられ、匿名でドイツ語書籍を翻訳するとともに、細々と農業で自給自足的に暮らした。厳しい監視下で、多くの社会主義者・共産主義者が生活のためもあり転向していく中で、彼もまた体制に積極的に抵抗することはできなかったが、それに媚びる言動はなかった。向坂の弟子である小島恒久(『向坂逸郎 その人と思想』)らだけでなく向坂と思想を異にする林健太郎(自伝『昭和史と私』)なども、向坂の戦中の態度を肯定的に評価している。

マルクス経済学者としての活動[編集]

日本の敗戦とともにマルクス主義研究と社会主義運動は再び可能になった。向坂は1946年「歴史的法則について」を発表し、日本の革命形態は平和革命であることをいちはやく主張した。また1946年には社会主義運動を続けるという条件のもとに、九州大学経済学部教授に復帰した。前期(4月-9月)は東京で過ごし後期(10月-3月)のみ福岡に滞在して授業をおこなうという勤務形態であったが、当時はそれが許された。マルクス経済学者としての主要な著書には『経済学方法論』(河出書房 1949年)、『マルクス経済学の方法』(岩波書店 1959年)、『マルクス経済学の基本問題』(岩波書店 1962年)、『マルクス伝』(新潮社 1962年)などがある。また、『資本論』(1947年)、『共産党宣言』(大内兵衛と共訳 1951年)などの翻訳を岩波文庫から刊行した。福岡(九州大学)と東京の双方で各種の研究会を主宰し、多くのマルクス主義研究者を養成した。これらの弟子や知人研究者の協力を得て『マルクス・エンゲルス選集』(新潮社 全12巻、別巻4巻 1956-1962年)を編集した。

左派社会党[編集]

1951年、山川均らとともに社会主義協会を創設し、日本社会党左派の理論的支柱となり、左社綱領の作成に携わったりした。1958年に山川が亡くなると、社会主義協会の中心人物となった向坂は総評太田薫岩井章らとともに社会党再統一に対する批判を開始し、マスコミの注目を浴びるようになった。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注目

『資本論』の学習第234回第3巻資本主義的生産の総過程第1部第5篇利子と企業者利得地への利潤の分割。 利子付き資本第25 章 信用と空資本

  5 資本論第3巻第5篇・第25章「信用と空資本」は、資本主義が高度に発展した段階で現れる** 金融の仕組みと“見かけの資本”**を分析する重要な章です。少し抽象的ですが、現代の株式市場 やバブル経済を理解する鍵にもなります。 ■ 全体のテーマ この章の核心はシンプルに言うと:...

また来てね