2021年5月17日 月曜日 曇り
第15回『資本論』の学習 マルクス『資本論』第一巻 向坂逸郎訳 岩波書店 7ページ第2版へのあとがき
私は第1版の読者に対して、まず第2版中でなされた変更について報告しておこう。目立った変更は、各篇をずっと見渡しやすいように分けたことである。追記した注は、みな第2版注と明記しておいた。本文そのものについては、最も重要なのは次のようなことである。
第1章第1節で一切の交換価値が表現される方程式の分析を通じて価値を導き出すことは、科学的にずっと厳密にやっておいた。同じく大一般で示唆を与えただけに留まっていた価値実態と社会的に必要になる労働時間による価値の大いさの規定とその間の関連は、はっきりと強調しておいた第1章第3節(価値形態)は全部書き改めた。これは既に第1版で二重の説明を余儀なくさせたものであった。ーついでながら、私が二重おすすめをやったのは、私の友人で、ハノーフェルのドクトル・Lグーゲルマンのススメに寄ったものであることを特記しておく。私は1867年の春には、 グーゲルマンを訪ねて彼のもとにあった。その時、最初の校正刷り今ハンブルグから到着した。彼の勧めによって、私は、大多数の読者にとっては価値形態を捕足してもっと解説的に論ずる必要があると考えた。ー第1章の最後の節「 商品の物神的性格云々」は大部分書き改めた。第3章の第1節(価値の尺度)には綿密な訂正を加えた。というのは、この節は、第一版では『経済学批判』(ベルリン、1859年)お墓ですでに書いておいた論述の参照をこうようにして、疎略に取り扱われていたからである。第7章、特にその第2節の部分には、重要な変更を加えた所々に本文に変更を加えたが、多くは文体上のことにすぎないものであって、これらをいちいち指摘することは無用であろう 。このような本文の変更は、前編いたるところに及んでいる。だが、私は今パリで公刊されるフランス語訳の訂正に手をつけている。そのために、そのためにドイツ語原本の数々の部分に、ある場所でははるかに深入りした訂正が、ある場合には比較的大きな文体状の訂正が、またある箇所では時々見落としている誤りをより細心に除くというようなことが、必要となったようである。これらの事を成すに必要な暇がなかった。 というのは、この書が売り切れて、第二版の印刷は1872年1月に既に始めなければならぬと言う通知を、私は1871年の秋になってやっと、しかも、他の緊急な仕事の真っ最中に、受け取ったのである。
『資本論』が急速に広い範囲でドイツ労働者階級の中に理解を得たことは、私の仕事に対する最良の酬いである。経済的にはブルジョワの立場にある人、ヴィーンの工場主マイエル氏は、 普仏戦争の間に公にされた1小冊子の中で、こういう適評をしている。すなわち、ドイツ人の相続財産と考えられていたかの偉大なる理論的感覚は、ドイツのいわゆる教養ある階級から全く失われたのに反して、ドイツ労働者階級の中に新たに燃え上がっているというのである。
経済学はドイツでは今日まで外国の学問であった。グスタフ・フォン・ギューリヒは、『現在主要商業諸国における商工業の歴史的叙述』において、特に1830年交公刊された彼の著作の最初の2巻で、ワーク2における資本主義的生産様式の発展を、したがってまた近代ブルジョア社会の建設をも阻んでいた歴史的事情を、すでに大いに論じている。すなわち、経済学の生きた地盤がなかったわけである。経済学は、完成品としてイギリスとフランスから輸入された。ドイツの経済学の教授たちはいつまでも生徒であった。他国の現実の理論的表現であるものが、彼らの手中にあっては一つの学説主に転化され、自分たちを取り巻いている小市民世界の意味に解された。すなわち曲解された。綺麗に払い抜けるわけにはいかぬ学問上の無力感と、実際に他国のものである領域で教師口調で説明しなければならぬと言う落ち着かぬ良心とを、文献史的博学で美装したり、いわゆる官房学といういろいろな知恵の混合物から借りたよその材料を混ぜ込んだりすることによって、賄うようにした 。この官房学の浄化火こそ、ドイツ官僚制の希望にあふれる候補者が、耐え抜かねばならないものなのであった。
普仏戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
普仏戦争(ふふつせんそう、独: Deutsch-Französischer Krieg、仏: Guerre franco-allemande de 1870)は、フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランス帝国とプロイセン王国の間で行われた戦争である。
プロイセンは北ドイツ連邦のみならず、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国と同盟を結び、フランスに圧勝した[1]。この戦争を契機に、すでに旧ドイツ連邦の解体で除外が濃厚となっていた議長国オーストリア帝国を除いたドイツ統一が達成され、フランス第二帝政は崩壊した。
ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ他、フランス側では1870年戦争と呼称する。なお、日本の世界史の教科書ではプロイセン=フランス戦争と呼称する例もある[2]。
(マルクス『資本論』向坂逸郎訳 岩波書店 7ページ第2版のあとがきから9ページ3行目まで引用です。普仏戦争説明については、wikipediaより引用です。
今回は、他の著書からの引用はありません。またの機会に載せたいと思います。 次にはリカードが登場してきます。
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