日本では、政府が緊急事態宣言を発しているが、新型コロナ感染症確認は増加を続ける。
人類は過去にベスト(黒死病)、インフルエンザ(スペイン風邪)の経験を1918年頃に経験してきている。現在の新型コロナウイルス感染の克服にあたっては、ワクチンの製造、接種まで、なんとかたどり着いたが、変異株の流行が激しく、ウイルスは形を変えて人類を襲ってきています。
問題はワクチンが変異株にどの程度有効であるかということが、現在2021年5月2日時点では、確認できていません。こういうことは、だいたいが後になってわかることなので、今の時点では、ワクチン自体が無意味であるとも言えないです。
言えることは、地球規模のウイルス災害であり、一国だけではとても解決できない問題で世界全体の連携・ 協調が不可欠であるということです。
このコロナ関係で、経済的な打撃はまだ深まりそうです。それに伴い労働者の雇用が不安になっています、失業率が悪化し、首切りが行われている現実が報告されています。
政府が企業支援を行っていますが、解雇に歯止めがかけられないのでは、何のための支援かも分かりません。
支援するところを、中小企業や、低所得者層などの救済に集中するようにしたらどうでしょう。
『 資本論』の学習、本文にはまだ入っていないのです。事前に学習を準備するために、ある程度のことを、調べてから入りたいと思い、目次にある項目で下調べをしているところです。今回労働の二重性、抽象的労働と具体的労働について調べてみました。また本文の中で学習することになるでしょうが、一応学んでおいて無駄ではないと思います。
前に商品について、触れてありますがその内容も確認して 頂ければと考えております。
抽象的労働( abatrakte Arbeit)
Ⅰ ) 人間の労働は直接には織物労働、米を生産する労働靴を生産する労働と言うように一定の特殊的な目的と作業様式と原料と労働手段と持って行われる具体的労働である、、この歌い手き労働から具体的な諸形態を捨象(度外視)下労働、ただ単に人間の労働力の生理学的意味の支出(人間の生理的エネルギーの支出)というだけの労働が、労働の社会的性格(他人のための労働という性格)を表すようになったものを、抽象的労働と言う。
抽象的労働は、単に人間の生理的エネルギーの支出としての労働ではない。それならば生理学的なカテゴリー出会って、どんな社会のどんな労働も、全て生理的エネルギーの支出としての側面を持っている。
しかし抽象的労働は経済的なカテゴリーであって、生理学的なカテゴリーではない。生理的エネルギーの支出としての労働は、労働の社会的性格(他人のための労働であるという性格)を現している場合のみ、抽象的労働となる。
Ⅱ)人間は、生活に必要な物質的大財貨を生産する際に、互いに孤立して生産するのではなく、常に集団をなして社会を作って 行動する。だから生産は常に、そしてどんな条件の下で、社会的生産(他人のための生産)である。
だから労働は、どんな社会においても社会的性格(他人のための労働だという性格)を持っており、社会的労働(他人のための労働)である。
しかし商品生産社会以外の諸社会では 労働の母体的携帯がそのまま社会的形態であった(具体的労働がそのままで労働の社会的形態であった)例えば、原始社会では、狩猟をする労働、魚を捕らえる労働などが、具体的労働のままで他人のために役立つことができ、労働の具体的自然的な形態がそのままで労働の社会的形態(他人のために役立つけ形態)であった。
また自分の消費のために穀物や家畜や着物などを作っている農民家族も、これらの生産物を作る種々な労働、すなわち工作や機織りや裁縫などは、それらの自然的形態のままで、家族全員のための労働という役割を果たした。
さらにまた、中世の封建社会では、農奴の労働と労働生産物とは、賦役(封建領主のためにするただ働きの労働)と 現物年貢として、つまり具体的労働と使用価値とのままで、濃度の手から封建領主の手に渡り社会的役割を果たした。
このように原始社会でも、古代社会でも、封建社会でも、生産の具体的な労働は、他人の必要とするものを生産するというその社会的機能(働き)お、具体的労働のままで行うことができ、したがって具体的労働のままで社会的労働であった。
Ⅲ)ところが商品生産社会では、労働は、その自然的形態(具体的形態)のままで直接には、その社会的な機能(働き)を行うことができない、この社会では、社会の存続のために必要な靴や洋服など全ての物質的財貨は、互いに独立な・バラバラな・私的生産者たちによって 自分にとっては不必要な・ しかし、他人にとっては必要な・生産物として生産されている。
そのために社会では全ての生産物は、全面的に交換され会わねばならない。この社会でも、私的生産者たちは、 自分に必要な、他人にとって必要な物質的な財貨を生産しているのであり、つまり他人のために、社会のために、労働をしているのであり、それらの労働は社会的労働である。
しかし、この社会では、農道は、直接には私的労働(自分の利益のための労働)通して行われているために、具体的労働のままでは、他人のために働くというその社会的な機能(働き)をすることができない。 労働が他人のために働くというその社会的機能(働き)をするためには、その生産物が商品として他の私的労働の生産物と交換され、その生産物を必要とする他人の手に渡らなければならない。そしてこういう交換においては、洋服と靴というような異なる種類の生産物が、等しい質ものとして、つまり価値として、互いに等値され、したがってまたこれらの生産物を作ることなる種類の労働が、等しい質の労働としてすなわち人間の労働力の生理学的意味の支出として、人間の頭脳や神経や筋肉や感官などの生産的支出として等置される。
だから社会では、労働の社会的機能は、具体的労働そのものによって直接に果たされるのではなく、労働の生理的エネルギーの手術たる性格を媒介して、果たされるのである。
このように労働の社会的機能を果たしている生理的エネルギーの支出としての労働は、抽象的労働である。
だから人間は抽象的労働によって商品の価値を作る。→<具体的労働><社会的労働><価値>〔文献≪経済学批判≫ 青木 P. 30-1,34-6 ≪資本≫Ⅰp.118-9, 126-31〕
(マルクス経済学事典 宮川実 青木書店 202ー203ページ 抽象的労働 より引用。)
具体的労働(独 konkrete Arbeit)
Ⅰ)指物師の労働、靴屋の労働、織物河野労働のように一定の特殊な目的と作業様式と原料と労働手段とをもって行われる労働である。
具体的労働は、商品の使用価値を作り出す。労働は全て具体的労働である。
Ⅱ)社会形態がいかようであろうと、人間の生活手段の生産は、常に、特殊的な・合目的な・生産的活動によって、行われた。
だから具体的労働は、人間の、どの社会携帯とも関わりのない一生存条件であり、人間が自然に働きかけて物質的生産手段を生産するためには永久に存在しなければならないものである。それは社会主義にも存在する。
Ⅲ)具体的労働は、何もないところから塩価値を作り出すのではない。それは、多田自然の打つ際に働きかけて、その形を人間の欲望を満たすのに都合のよいように変えるだけである。つまり自然を改良するだけである。
しかもそれだけではない。人間は、自然の物財の形を変える(自然を改造する)労働においてさえ、自然の諸力(水流や電気や電気力や日光など)の助けを借りる。だから仕様書を作る労働(具体的労働)について言えば労働はそれが作り出すものの(すなわち物質的富の)唯一の源泉である。というのは誤りである。
それは、その前提として自然の物財を必要とする。〔文献マルクス≪経済学批判≫ 青木 p.40〕
(マルクス経済学事典 宮川 実青木書店 59ー6ページ 具体的労働 より引用。)
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