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2021年11月17日水曜日

第47回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 66ページ A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 二相対的価値形態 a相対的価値形態の内実

 第47回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 66ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実



他方において、亜麻布自身の価値たることが前景に押し出される、すなわち、独立の表現を得る。なぜかというに、ただ価値としてのみ亜麻布は、等価物としての、あるいは自分と交換されうるものとしての、上衣に関係するからである。


このようにして、酪酸は城酸プロピルとはちがった物体である、しかし、この両者は同一の化学的実体―炭素(C)、水素(H) および酸素(0)|から、しかも同一割合の組成、すなわち、C4H8O2, から成り立っている。そこで、もし酵酸に蟻酸プロピルが等しい関係に置かれるとすれば、この関係においては、第一に蟻酸プロピルは単に C4H8O2 の存在形態とされ、第二に酪酸また C4H8O2 から成り立っということがいわれるであろう。


こうして、蟻酸プロピルを酪酸と等置することによって、その化学的実体は、その物体の形態と区別して表現されるであろう。


価値としては、商品は人間労働の単なる凝結物であると、われわれがいうとすれば、われわれの分析は、これらの商品を価値抽象に整約するのではあるが、これらの商品に、その自然形態とちがった価値形態を与えるものではない。


一商品の他のそれにたいする価値関係においては、ことはちがってくる。その価値性格は、この場合には、それ自身の他の商品にたいする関係によって現われてくる。


例えば、上衣が価値物として亜麻布に等しいとされることによって、上衣にひそんでいる労働は、亜麻布にひそんでいる労働に等しいとされる。


さて上衣を縫う裁縫は、亜麻布を織る機織とは種類のちがった具体的な労働であるが、しかしながら、機織に等しいと置かれるということは、裁縫を、実際に両労働にあって現実に同一なるのに、すなわち、両労働に共通な人間労働という性格に、整約するのである。


この迂路を通って初めてこういわれるのである、機織、価値を織りこむかぎり、裁縫にたいしてなんらの識別徴表をもっていない、すなわち、抽象的に人間的な労働であるというのである。


ただおのおのちがった商品の等価表現のみが、種類のちがった商品にひそんでいる異種労

働を、実際にそれらに共通するのに、すなわち、人間労働一般(一七a)に整約して、価値形成労働の特殊性格を現出させる。


(一七a) 第二版への注。ウィリアム・ペティの後に、価値の性質を見破った最初の経済学者の一人である有名なフランクリンはこう述べている。「商業はそうじてある労働の他の労働にたいする交換にほかならないのであるから、すべての物の価値は、労働で評価されるのが、もっとも正しい」(『B・フランクリン著作集』スパークス版、ボストン、一八三六年、第二巻、二六七ページ)。フラン リンは、すべての物の価値を「労働で」評価して、交換された労働の異種性から抽象しているということを、そしてこのようにして、これを同一人間労働に整約しているのだということを、意識していない。


それでも、自分で知らないことを、彼は言っているのである。彼は、はじめ「ある労働」について、次いで「他の労働について」、最後に、すべての物の価値の実体であるほかなんらの名をふっていない「労働」について語っている。

 

 だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するのではあるが、価値ではない。それは凝結した状態で、すなわち、対象的な形態で価値となる。(新日本87ページ16行)


人間労働の凝結物としての亜麻布価値を表現するためには、それは、亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にや存する「対象性」として表現されなければならぬ。課題はすでに解決されている。


 亜麻布の価値関係において、上衣はこれと質的に等しいものとして、すなわち、同一性質の物とみなされる。というのは、上衣は価値であるからである。


したがって、上衣はここでは価値の現われる物として、またはその掴みうる 自然形態で、価値を表示している物となされている。


ところが上衣、すなわち、上衣商品の肉体は、たしかに単なる使用価値ではあるが、しかし、ある上衣をとって見ると、任意の一片の亜麻布と同じように、価値を表現するもので

はない。


このことは、ただ次のことを立証するだけである、すなわち、上衣が亜麻布にたいする価値関係の内部においては、その外部におけるより多くを意味すること、あたから多くの人間が笹縁(ささべり)をつけた上衣の内部においては、その外部におけるより多くを意味するようなものであるというのである。


2021年11月16日火曜日

第46回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 64ページ A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 二相対的価値形態 a相対的価値形態の内実

 第46回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 64ページ

A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

二相対的価値形態

a相対的価値形態の内実


契機であるが、同時に相互に排除しあう、または相互に対立する極位である。すなわち、同一価値表現の両極である。この両極は、つねに価値表現が相互に関係しあうちがった商品の上に、配置されるものである。


私は、例えば亜麻布の価値を、亜麻布で表現することはできない。亜麻布 20 エレ=亜麻布20エレ というのは、なんら価値表現とはならない。


方程式はむしろ逆のことをいっている。すなわち、20ェレの亜麻布は、20ェレの亜麻布にほかならないということ、亜麻布という使用対象の一定量にほかならないということである。


 したがって、亜麻布の価値はただ相対的にのみ、すなわち、他の商品においてのみ、表現されうるのである。したがって、亜麻布の相対的価値形態は、何らかの他の商品は、自分に対して透過携帯にあるということを予定している。他方において、等価の役を引き受けているこの他の商品は、みずから同時に相対的価値形態にあるというわけにはいかぬ。


この商品は自分の価値を表現しているのではない。この商品はただ他の商品の価値表現に、材料を供給しているだけである。


むろん亜麻布 20 エレ=上着1着または20ェレの亜麻布は一着の上衣に値するという表現は、上着1着=亜麻布 20 エレ または1着の上衣は20ェレの亜麻布に値するという逆関係をも含んではいる。


しかしながら、上衣の価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければならぬ。


そして私がこれを逆にしてしまうやいなや、亜麻布は上衣のかわりに等価となる。


したがって、同一の商品は同一価値表現において、同時に両形態に現われることはできない。この二つの形態は、むしろ対極的に排除しあうのである。


 それで、ある商品が相対的価値形態にあるか、これに相対立する等価形態にあるかということは、あっぱら価値表現におけるその時々の位置にかかっているのである。


ということは、ある商品がその価値を表現するものであるか、それともその商品によって価値が表現されるものであるか、にかかっているということである。


二 相対的価値形態


a 相対的価値形態の内実(新日本では、84ページ)


どういう風に一商品の単純なる価値表現が、二つの商品の価値関係にかくされているかということを見つけ出してくるためには、価値関係を、まずその量的側面から全く独立して考察しなければならぬ。


人は多くのばあい正反対のことをやっている。そして価値関係の中に、ただ二つの商品種の一定量が相互に等しいとされる割合だけを見ている。


人は、異種の物の大いさが、同一単位に約元されてのちに、初めて量的に比較しうるものとなるということを忘れている。


同一単位の表現としてのみ、これらの商品は、同分母の、したがって通約しうる大いさなのである。

【新日本は85ページ)

(一七) S・ベイリー のように、価値形態の分析をやった少数の経済学者が、なんらの結論に到達できなかったのは、第一に、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二に、彼らが実際的なブルジョアの生のままの影響下にあって、初めから、もっぱら量的規定性だけを眼中に置いているからである。「量に対する支配が、 ー価値をなすちのである」(S・ベイリー

『貨幣とその価値変動』口 ン ドン、一八三七年、一一ページ)。


亜麻布 20 エレ=上着1着または =20着または =x着となるかどうか、すなわち、一定量の亜麻布が多くの上衣に値するか、少ない上衣に値するかどうかということ、いずれにしても、このようないろいろの割合にあるということは、つねに、亜麻布と上衣とが価値の大いさとしては、同一単位の表現であり、同一性質の物であるということを含んでいる。


亜麻布=上着ということは、方程式の基礎である。


しかしながら、二つの質的に等しいとされた商品は、同一の役割を演ずるものでない。ただ亜麻布の価値のみが表現されるのである。


そしていかに表現されるか? 亜麻布の「等価」としての、あるいは亜麻布と「交換され得る

もの」としての上衣に、関係せしめられることによってである。


この関係において、上衣は価値の存在形態、すなわち、価値物となされる。なぜかというに、このようならのとしてのみ、上衣は亜麻布と同一物であるからである。他方において、亜麻布自身の価値たることが前景に押し出される。66ページ1行目



2021年11月15日月曜日

第45回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 62ページ

 第45回 マルクス 資本論 第1巻 向坂逸郎訳 岩波書店の学習 62ページ


新日本版『資本論』で同じくらいのところを続けています。岩波版では役者は向坂逸郎氏です。内容が、違うところもあるかもしれないですので、比較のために両方すすめることにします。ただ違いを探すために行うことではなく。学習を深めることを目的としています。


第1篇商品と貨幣

第1章 商品

第三節価値形態または交換価値


商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄、亜麻布、小麦等々として、生まれてくる。これが彼等の生まれたままの自然形態である。だが、これらの色のが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの、すなわち使用対象であると同時に価値保有者であるからである。


 したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。


 諸商品の価値対象性は、かのマダム・クィックリ「シェイクスピアの『ヘンリー四世』等の中の人物。……訳者]とちがって、一体どこを掴まえたらいいか、誰にわからない。


 商品体の感覚的に手触りの荒い対象性と正反対に、諸商品の価値対象性には、一分子の自然素材もはいっていないのである。


 したがって、一々の商品をどう捻りまわして見ても、それを価値物として摑むことはできない。だが、やし諸商品が同一の社会的等一性である人間労働の表現であるかぎりでのみ、価値対象性を有ち、したがってそれらの価値対象性は、純粋に社会的であるということを想い起こして見るならば、おのずから価値対象性が、ただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるのであるということも明らかとなる。


 われわれは、実際において商品の交換価値から、または交換比率から出発して、その中にかくされている商品の価値をさぐりえたのである。


 いまわれわれは、価値のこの現象形態に帰らなければならぬ。人は、何はとめあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。 ーすなわち、貨幣形態である。


 だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっと単純なもっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。


 これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。

最9単純な価値関係は、明らかに、ある商品が、他のなんでもいいが、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である。


 したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいして最も単純な価値表現を与

えている。


A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

x量商品 A=y量商品B あるいは、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。

(TEXT 20 : -=Ek1' または二〇ェレの亜麻布は一着の上衣に値する。)


| 価値表現の両極、すなわち、相対的価値形態と等価形態

一切の価値形態の秘密は、この単純なる価値形態の中にかくされている。したがって、その分析が、まことの難事となるのである。


 ここでは、二種の異なった商品AとB、われわれの例でいえば、亜麻布と上衣とは、明白に二つのちがった役割を品 演じている。亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの価値表現の材料の役をつとめている。


 第一の商品は能動的の役割を演じ、第二の商品は受動的のそれを演じている。第一の商品の価値は、相対的価値として表わされている、いいかえると、第一の商品は相対的価値形態にあるのである。


第二の商品は等価として機能している、すなわち等価形態にあるのである。


相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除し合う、また相互に対立する極位である。

64ページ1行目


2021年11月14日日曜日

 第44回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品  第3節価値形態または交換価値  2 相対的価値形態a相対的価値形態の内実

  第44回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品  第3節価値形態または交換価値  2 相対的価値形態a相対的価値形態の内実



確かに、20エレのリンネル= 1 着の上着 すなわち、二Oェレのリンネルは一着の上着に値するという表現は、1着の上着=20エレのリンネル すなわち、一着の上着は二〇エレのリンネルに値する、という逆の関連を含んでいる。


しかし、そうは言っても、上着の価値を相対的に表現するためには、私はやはりこの等式を逆にしなければならず、そしてそうするやいなや、上着ではなくリンネルが等価物となる。


したがって、同じ商品は同じ価値表現においては同時に両方の形態で現われることはできない。この両形態は、むしろ対極的に排除し合うのである。


(64)そこで、ある一つの商品が相対的価値形態にあるか、それと対立する等価形態にあるかは、もっぱら、価値表現におけるその商品のそのつどの位置―すなわち、その商品は、その価値が表現される商品なのか、それでもって価値が表現される商品なのかーにかかっている。


2 相対的価値形態


相対的価値形態の内実

ある一つの商品の簡単な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるかをみつけ出すためには、この価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立に、考察しなければならない。


人は、たいてい、これと正反対のことを行なっており、価値関係のうちに、二種類の商品の

一定分量どうしが等しいとされる割合だけを見ている。


その場合、見落とされているのは、異なった物の大きさは、それらが同じ単位 〔統一体〕に還元されてはじめて、量的に比較されうるものとなるということである。


それらは、同じ単位のもろもろの表現としてのみ、同名の、それゆえ同じ単位で計

量されうる大きさなのである。


(一七)

(1) S・ベイリーのように、価値形態の分析にたずさわった少数の経済学者たちがなんの成果もあげることができなかったのは、一つには、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二には、実際的なブルジョアからの生の影響のもとに、はじめからもっぱら量的規定性 だけに 注目しているからである。


「量の支配が……価値をなす」(『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、一八三七年、一二ページ)。著者はS・ベイリー。


20 エレのリンネル=1着の上着 であろうと=20 着の上着であろうと = x着の上着であろう、すなわち、一定分量のリンネルが多くの上着に値しようと少ない上着に値しようと、このような割合はどれも、リンネルと上着とは、価値の大きさとしては、同じ単位の諸表現であり、同じ性質の物であるということを、つねに含んでいる。 リンネル=上着 が等式の基礎である。


しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。


では、どのようにしてか? リンネルが、その「等価物」としての、またはそれと「交換さ

れうるもの」としての上着にたいしてもつ関連によって、である。


この関係のなかでは、上着は、価値の実存形態として、価値物として、通用する。


なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。


他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現われてくる。すなわ値1つの自立的表現を受け取る。


2021年11月12日金曜日

第43回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品  第3節価値形態または交換価値

第43回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品  第3節価値形態または交換価値

A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態

1価値表現の両極―相対的価値形態と等価形態


82ページ


だれでも、ほかのことはなにも知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な自然形態とはきわめていちじるしい対照をなす一つの共通の価値形態、すなわち貨幣形態をもっているということは知っている。


しかし、いまここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品

の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも簡単なもっともめだたない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。


 それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。

もっとも簡単な価値関係は、明らかに、どんな種類で と種類を異にするただ一つの商品に

いする一商品の価値関係である。


 だから、二つの商品の価値関係は、一つの商品にとってのもっとも簡単な価値表現を与える。

(63)  A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態

x量の商品A = y 量の商品B すなわち、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。

(20エレのリンネル=1着の上着 すなわち、二〇ェレのリンネルは一着の上着に値する)


1価値表現の両極―相対的価値形態と等価形態


すべての価値形態の秘密は、この簡単な価値形態のうちに潜んでいる。だから、この価値形態の分析には真の困難がある。


ここでは、種類を異にする二つの商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着とは、明らかに、二つの異なった役割を演じている。


リンネルはその価値を上着で表現し、上着はこの価値表現の材料として役立っている。


第一の商品は能動的役割を演じ、第二の商品は受動的役割を演じている。第一の商品の価値は相対的価値として表わされている。


すなわち、この商品は相対的価値形態にある。第二の商品は等価物として機能する。すなわち、等価形態にある。


相対的価値形態と等価形態とは、同じ価値表現の、互いに依存し合い、互いに制約し合う、不可分の、契機であるが、同時に、互いに排除し合う、あるいは対立し合う、両極端、すなわち両極である。


それらは、つねに、この価値表現によって互いに関連させられる「二つの異なった商品に配分される。


私は、たとえば、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。20エレのリンネル=20エレのリンネルは、決して価値表現ではない。この等式が語るのは むしろ逆に、二Oェレのリンネルは二Oェレのリンネル、すなわち一定分量の使用対象であるリンネル、以外のなにものでもないということである。


 したがって、リンネルの価値は、ただ相対的に、すなわち他の商品でしか、表現されえ

ない。それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにかある他の商品がリンネルに相対して等価形態にあることを前提する。


 他面、等価物の役をつとめるこの他の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表現するのではない。それは、他の商品の価値表現に材料を提

供するだけである。



2021年11月11日木曜日

第42回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の2重性 第3節価値形態または交換価値

 第42回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の2重性 第3節価値形態または交換価値


80ページ


A・スミスは、一面では、この場合(どこでもというわけではないが)、商品の生産に支出される 労働の分量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同しており、したがって、等量の労働はつねに等しい価値をもつということを証明しようとしている。


他面では、彼は、商品価値に表わされる限りでの労働が、ただ、労働力の支出としてのみ通用するということにうすうす感づいているが、この支出を、ふたたび単に安楽、自由、および幸福の犠牲としてのみとらえ、正常な生命活動とはとらえていない。


いずれにせよ、彼は近代的賃銀労働者を眼前においているのである。 注九に引用したA・スミスの匿名の先行者は、はるかに適切に述べている。「ある人は、この使用対象 [生活必需品〕 の生産に一週間を費やした。


そして、それと交換に彼にある他の対象を与える人は、自分がなににちょうど等しい労働と時間とを費やすかを計算すること以上に、なにが現実に等価であるかを正しく評価する方法をもちえない。


このことが実際に意味しているのは、ある人が一定の時間にある対象に費やした労働と、別の人が同じ時間に別の対象に費やした労働との交換である」(『貨幣の利子一般、およびとくに公債の利子にかんする若干の考察』、三九ページ)。―第四版への注。


英語には、労働のこうした二つの異なる面を表わす二つの異なる言葉をもっているという長所がある。使用価値をつくり質的に規定されている労働は、labour にたいして work と呼ばれ、価値をつくり量的にのみはかられる労働は、work にたいして labour と呼ばれる。英訳版、一四ページ[1九七七年モスクワ版、五四ページ〕の注を見よ。|F・エンゲルス}


第三節 価値形態または交換価値

商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。


これが商品のありふれた自然形態である。とはいえ、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、自然形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現われ、言い換えれば、商品という形態をとるのである。


商品の価値対象性は、どうつかまえたらいいかわからないことによって、寡婦のクイックリーと区別される。商品体の感性的にがさがさした対象性とは正反対に、商品の価値対象性には、一原子の自然素材もはいり込まない。


だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくり回しても、それは、価値物としては、依然としてつかまえようがないものである。


とはいえ、商品が価値対象性をもつのは、ただ、それが人間的労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと、それゆえ、商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること、を思い出せば、それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるということも、おのずから明らかである。


実際、われわれは、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている諸商品の価値の足跡をさぐりあてた。いまや、われわれは、価値のこの現象形態に立ち返らなければならない。


*1 [シェイクスピア『ヘンリー四世』、第一部、第三幕、第三場での フォルスターフのせりふ参照。小田島訳、『シェイクスピア全集』V、白水社、六二ページ。中野訳、岩波文庫、第一部、一二五ページ]


2021年11月10日水曜日

第41回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の2重性(70ページから)

 第41回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の2重性(70ページから)




78ページ2行目

たとえば、一着の上着の生産に必要とされるすべての有用的労働の生産力が不変のままにとどまるならば、上着の価値の大きさは、上着自身の量が増えるにつれて増大する。


一着の上着が区労働日を表わすなら、二着の上着はな労働日を表わす、等々。しかし、一着の上着の生産に必要な労働が二倍に増加するか、あるいは半分に減少するものと仮定しよう。


まえの場合には、一着の上着は以前の二着の上着と同じ価値をもち、あとの場合には、二着の上着が以前の一着と同じ価値しかもたない。もっとも、どちらの場合でも、一着の上着は相変わらず一着の上着として役立ち、それに含まれている有用的労働も相変わらず同じ品質のものである。


ただ、その生産に支出された労働分量が変わったのである。


より大きい分量の使用価値は、それ自体としては、より大きい素材的富をなす。二着の上着は、一着の上着より大きい素材的富をなす。


二着の上着があれば、二人に着せることができるが、一着の上着では一人にしか着せられない、等々。とはいえ、素材的富の量の増大に対応して、同時にその価値の大きさが低下することもありうる。


このような対立的運動は、労働の二面的性格から生じる。生産力は、もちろんつねに、有用的具体的労働の生産力であり、実際、ただ、与えられた時間内における合目的的生産的活動の作用度だけを規定する。


だから、有用的労働は、その生産力の上昇または低下に正比例して、より豊かな生産物源泉ともなれば、より貧しい生産物源泉ともなる。


これに対して、回生産力の変動は、それ自体としては、価値に表わされる労働にはまったく影響しない。生産力は、労働の具体的有用的形態に属するから、労働の具体的有用的形態が捨象されるやいなや、生産力は、当然、もはや労働に影響を与えることはできなくなる。


だから、生産力がどんなに変動しても、同じ労働は同じ時間内には、つねに同じ価値の大きさを生み出す。ところが、同じ労働は同じ時間内に、異なった分量の使用価値を生産力が上がれば、より大きい量を、生産力が下がれば、より小さい量を――提供する。


したがって、労働の多産性を、それゆえ、労働によって提供される使用価値の総量

を、増大させる生産力の変動は、もしもそれがこの使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮させるならば、この増大した使用価値総量の価値の大きさを減少させる。


反対の場合には逆になる。

すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間的労働力の支出であり、同等な人間的労働または抽象的人間的労働というこの属性において、それは商品価値を形成する。


すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間的労働力の支出であり、具体的有用的労働というこの属性において、それは使用価値を生産する。(一六)


(一六) 第二版への注。「労働だけが、それによってすべての商品の価値が、あらゆる時代を通して、評価され、比較されうる究極の、真の尺度であること」を証明する ために、A・スミスは、次のように言う。「等しい量の労働は、あらゆる時代、あらゆる場所において、労働者自身にとって等しい価値をもっているに違いない。


労働者は、彼の健康、体力、および活動の正常状態のもとで、また彼の熟練と技能が通常の程度であれば、自分の安楽、自分の自由、および自分の幸福の同一部分をつねに犠牲にしなければならない」(『諸国民の富』、第一篇、第五章 [102|10五ページ。大内・松川訳、岩波文庫、C、一五五ー一五六ページ】)。


2021年11月8日月曜日

第40回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の2重性70ページから

 第40回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の2重性70ページから

76ページ


この還元が絶えず行なわれていることは、経験が示している。ある商品はもっとも複雑な労働の生産物であるかもしれないが、その価値は、その商品を単純労働の生産物に等置するのであり、したがって、それ自身、一定分量の単純労働を表わすにすぎない。


さまざまな種類の労働がその度量単位である単純労働に還元されるさまざまな比率は、生産者たちの背後で一つの社会的過程によって確定され、したがって生産者たちにとっては慣習によって与えられるかのように見える。


簡単にするために、以下ではどんな種類の労働力をも直接に単純な労働力とみなすが、それは、還元の労をはぶくためにほかならない。

(14) ヘーゲル『法の哲学』、ベルリン、一八四〇年、二五Oページ、第一九〇節〔藤野渉・赤沢正敏訳、『世界の名著』的、中央公論社、四二三ー四二四ページ]、参照。

(15) 読者が注意しなければならないのは、ここでは、労働者がたとえば一労働日[一日の労働時間】について受け取る賃銀または価値のことを言っているのではなく、彼の一労働日が対象化されている商品価値のことを言っているということである。労賃というカテゴリーは、われわれの叙述のこの段階ではまだまったく存在しない。


* 「初版、フランス語版では「人間的労働力」となっている]


したがって、価値である上着およびリンネルにおいては、それらの使用価値の区別が捨象されているように、これらの価値に表わされている労働においては、裁縫労働および織布労働というそれらの有用的形態の区別が捨象されている。


使用価値である上着およびリンネルが目的を規定された生産的活動と布および糸との結合したものであり、これにたいして価値である上着およびリンネルは単なる同種の労働凝固体であるように、これらの価値に含まれている労働は、布および糸にたいするその生産的なふるまいによってではなく、ただ人間的労働力の支出としてのみ通用する。


裁縫労働と織布労働とが使用価値である上着およびリンネルの形成要素であるのは、まさにこれらの労働の異なる質によってである。裁縫労働と織布労働とが上着価値およびリンネル価値の実体であるのは、ただ、これらの労働の特殊な質が捨象され、両方の労働が等しい質、人間的労働という質をもっている限りでのことである。


だが、上着もリンネルも単に価値一般ではなく、一定の大きさをもつ価値であり、われわれの想定では、一着の上着は10エレのリンネルの二倍の価値がある。これらの価値の大きさのこの相違はどこから生じるのか? それは、リンネルが上着の半分の労働しか含んでおらずしたがって、上着を生産するにはリンネルを生産する時間の二倍にわたって労働力が支出されなければならない、ということから生じる。


したがって、商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ意義をもつとすれ

ば、価値の大きさとの関連では、それがもはやそれ以上の質をもたない人間的労働に還元されている

ので、ただ量的にのみ意義をもつ。まえの場合には、労働のどのようにしてと、なにをするかが問題となり、あとの場合には、労働のどれだけ多くが、すなわちその継続時間が問題となる。


一商品の価値の大きさは、その商品に含まれている労働の分量だけを表わすから、諸商品は、一定の比率においては、常に等しい大きさ価値でなければならない。


2021年11月7日日曜日

第39回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章商品 第2節商品に表される労働の2重制

 第39回 資本論 カール・マルクス 新日本 第1篇商品と貨幣 第1章商品 第2節商品に表される労働の2重制


74ページ1行目


分析にさいして人間精神が繰り返し見いだす唯一の要素である。土地、空気、および水が畑で穀物に変えられたり、あるいはまた、なにかある昆虫の分泌物が人間の手によって絹に変えられたり、あるいは、いくつかの金属片が組み立てられて時打ち懐中時計がつくられたりするとすれば、価値」(使用価値のことである。


もっとも、ヴェッリは、重農主義学派にたいするこの論争において、自分がどちらの種類の価値について語っているのか、自分でも よくわかっていない。)「および 富の再生産についても、事情は同じである」(ピエートロ・ヴェッリ『経済学にかんする諸考察』――初版は一七七一年――クストーディ編『イタリア古典経済学者』叢書、近代篇、第一五巻〔ミラノ、一八〇四年〕、二一、二二ページ)。


* 〔ペティ『租税貢納論』、ロンドン、一六六七年、四七ページ。大内 兵衛・松川 七郎訳、岩波文庫、一一九ページ]


そこで、こんどは、使用対象である限りでの商品から、商品価値に移ろう。

われわれの想定によれば、上着はリンネルの二倍の価値をもっている。もっとも、これは量的な区別にすぎず、この区別はさしあたりまだわれわれの問題ではない。


そこで、われわれは、一着の上着の価値が一〇ェレのリンネルの価値の二倍であれば、二〇エレのリンネルは一着の上着と同じ価値の大きさをもつということを思い出そう。


価値としては、上着とリンネルとは同じ実体をもつ物であリ。


同種の労働の客観的表現である。ところが、裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる労働である。とはいえ、ある社会状態においては、同じ人間が裁縫労働と織布労働とをかわるがわる行ない、したがって、この二つの異なる労働様式は同じ個人の労働の諸変形にすぎず、まだ異なる諸個人の特殊な固定的な職能にはなっていないことがある。


それは、ちょうど、わが裁縫師がきょう仕立てる上着とあす仕立てるズボンとが同じ個人的労働の変化を前提するにすぎないのとまったく同じである。さらに、一見してわかるように、われわれの資本主義社会においては、労働需要の方向が変化するにつれて、それに応じて、一定部分の人間的労働が、あるときは裁縫労働の形態で、あるときは織布労働の形態

で、かわるがわる供給されている。


労働のこの形態変換は、摩擦なしには行なわれないかもしれないが、ともかく行なわれなければならない。生産的活動の規定性、したがって労働の有用的性格を度外視すれば、労働に残るのは、それが人間的労働力の支出であるということである。


裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる生産的活動であるにもかかわらず、ともに、人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出であり、こうした意味で、ともに、人間的労働である。


それらは、人間的労働力を支出する二つの異なった形態にすぎない。確かに、人間的労働力そのものは、それがあれこれの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。しかし、商品の価値は、人間的労働自体を、人間的労働一般の支出を、表わしている。75ページ末


ところで、ブルジョア社会では、将軍なり銀行家なりは大きな役割を演じ、これにたいして人間自体はどくみすぼらしい役割を演じているが、この場合の人間的労働もそのとおりである。


それは、平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。確かに、単純な平均労働そのものは、国を異にし文化史上の時代を異にすれば、その性格を変えるが、現に存在する一つの社会では、与えられている。


より複雑な労働は、単純労働の何乗かされたもの、またはむしろ何倍かされたものとしての

み通用し、そのために、より小さい分量の複雑労働がより大きい分量の単純労働に等しいことになる。


2021年11月5日金曜日

第38回 資本論の学習 カール・マルクス 新日本出版  第1篇商品と貨幣 第1章 商品 第2節商品に表れる労働の二重制

 第38回 資本論の学習 カール・マルクス 新日本出版  第1篇商品と貨幣

第1章 商品 第2節商品に表れる労働の二重制



72ページ2行目

さまざまな種類の使用価値または商品体の総体のうちには、同じように多様な、属、種、科、亜種、変種を異にする有用的労働の総体――社会的分業――が現われている。社会的分業は商品生産の実存条件である。


もっとも、逆に、商品生産は社会的分業の実存条件ではない。古インド的共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物は商品になっていない。


あるいは、もっと手近な例をあげあれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されているのではない。


自立的な、互いに独立の、私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。


したがって、われわれは次のことを見てきた。ーどの商品の使用価値にも一定の合目的的な生産的活動または有用的労働が含まれている。


諸使用価値は、質的に異なる有用的労働がそれらに含まれていなければ、商品として相対することはできない。その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、自立した生産者たちの私事として互いに独立に営まれる有用的労働のこうした質的区別が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。


ところで、上着にとっては、それが裁縫師によって着られるか、それとも裁縫師の顧客によって着られるかは、どうでもよいことである。どちらの場合でも、上着は使用価値として作用する。


同じように、上着とそれを生産する労働との関係は、裁縫労働が特殊な職業となり、社会的分業の自立的な一分肢となることによっては、それ自体として変わることはない。


人間は、衣服を着る必要に迫られたところでは、だれかある人が裁縫師になるまえに、すでに何千年にわたって裁縫労働を行なってきた。しかし、上着やリンネルのような天然自然には存在しない素材的常のあらゆる要素の定在は、特殊な自然素材を特殊な人間的欲求に適合させるある一つの特殊な合目的的な生産的活動によって、つねに媒介されなければならなかった。


だから、労働は、使用価値の形成者としては、有用的労働としては、あらゆる社会形態から独立した、人間の一実存条件であり、人間と自然との物質代謝を、それゆえ人間的生活を、媒介する永遠の自然必然性である。


使用価値である上着、リンネルなど、要するに商品体は、二つの要素の、すなわち自然素材と労働との、結合物である。


上着、リンネルなどに含まれているすべての異なった有用的労働の総和を取り去れば、人間の関与なしに天然に存在する物質的基体がつねに残る。


人間は、彼の生産において、自然そのものと同じようにふるまうことができるだけである。すなわち、素材の形態を変えることがでぬきるだけである。


それだけではない。形態を変えるこの労働そのものにおいても、人間は絶えず自然力に支えられている。


したがって、労働は、それによって生産される使用価値の、素材的富の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティが言っているように、労働は素材的富の父であり、土地はその母である。

(一三)「宇宙のすべての現象は、人間の手によって生み出されようと 自然学の一般的諸法則によって生み出されようと、事実上の創造ではなく、単に素材の変形であるにすぎない。結合と分離が、再生産という表象の分析にさいして人間性精神が繰り返し見出す唯一の要素である。74ページ1行目まで


2021年11月4日木曜日

第37回資本論の学習 私本論第1巻 第1分冊 カール・マルクス 新日本 

 第37回資本論の学習 資本論第1巻 第1分冊 カール・マルクス 新日本 

第1章商品第1篇商品と貨幣 

第1節商品の2つの要因ー使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)


第1篇商品と貨幣

70ページ

ある物は、商品であることなしに、有用であり人間的労働の生産物でありうる。自分の生産

物によって自分自身の欲求を満たす人は、確かに使用価値をつくり出すが、商品をつくり出しはしない。


商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。


しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は、封建領主のために年貢の穀物を生産し、僧侶のために十分の一税の穀物を生産した。


しかし、年貢穀物も十分の一税穀物も、それらが他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。


商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に、交換を通して移されなければならない。} 最後に、どんな物も、使用対象〔フランス語版では「有用物」〕であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働もまた無用であり、労働としては数えられず、したがってなんらの価値も形成しない。


(11a) 第四版への注。私が括弧内の文句を書き入れたのは、この文句がないために、生産者以外の人によって消費される生産物はすべて、マルクスによって商品とみなされるかのような誤解が非常にしばしば生じたからである。――F・エンゲルス。



(56)

第二節商品に表わされる労働の二重性

最初に、商品は、二面的なものとして、すなわち使用価値および交換価値として、われわれの前に現われた。


のちには、労働もまた、それが価値に表現される限りでは、使用価値の生みの母としての

労働に属するのと同じ特徴を、もはやもっていないということが示された。商品に含まれる労働のこの二面的性質は、私によってはじめて批判的に指摘されたものである。


この点は、経済学の理解にとって決定的な点であるから、ここで立ち入って説明しておこう。

(11) カール・マルクス『経済学批判』、一二、二三ページ [邦訳『全集』、第一三巻、二O、二一ページ】、そのほか各所。


二つの商品、たとえば一着の上着と一○エレのリンネルをとってみよう。前者は後者の二倍の価値をもつものとすれば、10エレの リンネル=W のとき、1着の上着I= 2 W である。


上着は、一つの特殊な欲求を満たす一つの使用価値である。それをつくり出すためには、一定の種類の生産的活動が必要である。


この活動は、その目的、作業様式、対象、手段、および結果によって規定されている。その有用性がこのようにその生産物の使用価値にーまたはその生産物が使用価値であるということに――表わされる労働を、われわれは簡単に有用的労働と呼ぶ。


この観点のもとでは、労働はつねにその有用効果との関連で考察される。


上着とリンネルとが質的に異なる使用価値であるのと同じように、それらの定在を媒介する労働も質的に異なるもの――裁縫労働と織布労働である。


もしもこれらの物が質的に異なる使用価値ではなく、したがって質的に異なる有用的労働の生産物でないとすれば、それらはおよそ商品として相対することができないであろう。


上着が上着と交換されることはなく、同じ使用価値が同じ使用価値と交換されることはない。72ページ行目


2021年11月3日水曜日

第36回資本論の学習 第1篇 商品と貨幣 新日本 68ページから70ページ1行目まで

 第36回資本論の学習 第1篇 商品と貨幣 新日本 68ページから70ページ1行目まで



(11) カール・マルクス『経済学批判』、六ページ[邦訳『全集』、第一三巻、一六ページ。そこでは冒頭が「交換価値としては」となっている]。


第1篇商品と貨幣

それゆえ、ある一つの商品の生産に必要とされる労働時間が不変であれば、その商品の価値の大きさは不変のままであろう。しかし、その労働時間は、労働の生産力が変動するたびに、それにつれて変動する。


労働の生産力は、いろいろな事情によって規定され、とりわけ、労働者の熟練の平均度、

科学とその技術学的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模とその作用能力によって、さらには自然諸関係によって、規定される。たとえば、同じ分量の労働でも、豊作のときには八ブッシェルの小麦に表わされ、凶作のときにはただ四ブッシェルの小麦に表わされるにすぎない。


同じ分量の労働でも、豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を供給する、等々。ダイャモンドは地殻にはめったに見られないので、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。


そのため、ダイヤモンドはわずかな体積で多くの労働を表わすことになる。ジェイコブは、金がかつてその全価値を支払われたことがあるかどうかを、疑っている。


このことは、ダイヤモンドにはいっそうよくあてはまる。エッシュヴェーゲによれば、一八二三年の時点で、ブラジルのダイヤモンド鉱山の過去八〇年間の総産出高は、ブラジルの砂糖農園またはコーヒー農園の一年半分の平均生産物の価格にも達していなかった。


ダイヤモンドの総産出高がはるかにより多くの労働を、それゆえ、より多くの価値を表わしていたにもかかわらず、そうだったのである。


もしももっと豊かな鉱山があれば..同じ労働分量はもっと多くのダイヤモンドに表わされ、ダイヤモンドの価値は下がるであろう。もしもほんのわずかの労働で石炭をダイヤモンドに変えることに成功すれば、ダイヤモンドの価値は煉瓦の価値以下になりうる。


一般的に言えば、労働の生産力が大きければ大きいほど、ある物品の生産に必要とされる労働時間はそれだけ小さく、それに結晶化される労働量はそれだけ小さく、その価値はそれだけ小さい。


逆に、労働の生産力が小さければ小さいほど、ある物品の生産に必要な労働時間はそれだけ大きく、その価値はそれだけ大きい。


すなわち、一商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の分量に正比例し、その労働の生産力に反比例して、変動する。


*1 [W・ジェイコブ『貴金属の生産および消費についての歴史的研究』、第二巻、ロンドン、一八三一年、

101ページ]

*2 [H・メリヴェイル『植民 および 植民地についての講義』、第一巻、ロンドン、一八四一年、五二ペー

ジ]

*3 [初版では次の句が続く。「われわれは いまや価値の実体を知っている。それは労働である。われわれは価値の大きさの尺度を知っている。それは労働時間である。価値にたいしてまさに交換価値の刻印を押す価値の形態は、まだこれから分析しなければならない。しかし、その前に、すでに見いだされた諸規定を、やや立ち入って展開しなければならない♪


ある物は、価値であることなしに、使用価値でありうる。人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合がそれである。たとえば、空気、処女地、自然の草原、原生林などがそうである。

70ページ1行目まで


2021年11月2日火曜日

第35回 資本論の学習 第1篇商品と貨幣 新日本66ページから68ページ1行目まで

 第35回 資本論の学習  2021年11月2日10月31日投開票 衆議院選挙選挙は与党が安定多数となる294議席自民251、公明32となり、立民は96 維新が41と躍進しました。

京王線で24歳の男が乗客に斬りつける事件がありました。仕事で失敗、失業中ということでした。16人に怪我をさせたそうです。


資本論は66ページから67ページを引用しています。


第1篇商品と貨幣

価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値にわれわれをつれもどすであろうが、やはり、価値は、さしあたり、この形態から独立に考察されなければならない。


したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間的労働が対象化または物質化されているからにほかならない。では、どのようにしてその価値の大きさは はかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち 労働の、分量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。


一商品の価値がその生産のあいだに支出された労働の分量によって規定されるとすれば、ある人が怠惰または不熟練であればあるほど、彼はその商品の完成にそれだけ多くの時間を必要とするのだから、彼の商品はそれだけ価値が大きいと思われるかもしれない。


しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間的労働であり、同じ人間的労働力の支出である。商品世界の諸価値に表わされる社会の総労働力は、確かに無数の個人的労働力から成り立っているけれども、ここでは同一の人間的労働力として通用する。


これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をも

ち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産に平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間だけを必要とする限り、他の労働力と同じ人間的労働力である。


社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。


たとえば、イギリスで蒸(九)気織機が導入されてからは、一定の分量の糸を織物に転化するためには、おそらく以前の半分の労働で足りたであろう。


イギリスの手織工はこの転化のために実際には以前と同じ労働時間を必要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、いまではもう半分の社会的労働時間を表わすにすぎず、それゆ

え、以前の価値の半分に低下したのである。


(54) したがって、ある使用価値の価値の大きさを規定するのは、社会的に必要な労働の分量、またはその使用価値の生産に社会的に必要な労働時間にほかならない。


 個々の商品は、ここでは一般に、それが属する商品種類の平均見本として通用する。それゆえ、等しい大きさの労働分量が含まれている、または同じ労働時間で生産されうる、諸商品は、同じ価値の大きさをもつのである。


一商品の価値と他のすべての商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間との比に等しい。「価値としては、すべての商品は、一定量の凝固した 労働時間にほかならない」。

(10)

(1)


(九) 第二版への注。「諸使用対象〔原文では「生活必需品〕が互いに交換される 場合のそれらの価値は、それらの生産に必ず必要とされ、普通に充用される労働の分量によって規定される」(『貨幣の利子一般、およびとくに公債の利子にかんする若干の考察』、ロンドン、三六、三七ページ)。注目に値する前世紀のこの匿名の著作には刊行年が記されていない。しかし、その内容からして、ジョージ二世治下、おそらく一七三九年か一七四〇年に刊行されたことは明らかである。

(10) 「およそ同じ種類の生産物は、本来ひとかたまりを なしていて、その価格は、一般的に、かつ特殊的事情を考慮することなく决定される。(ル・トローヌ前出八九三ページ

68ページ行目まで


2021年10月27日水曜日

第34回資本論の学習 第1篇商品と貨幣

第34回資本論の学習

第1篇商品と貨幣
この共通なものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。そもそも商品の物体的諸属性が問題になるのは、ただ、それらが商品を有用なものにし、したがって使用価値にする限りでのことである。

ところが、他方、諸商品の交換関係を明白に特徴づけるものは、まさに諸商品の使用価値の捨象である。この交換関係の内部では、一つの使用価値は――それが適当な比率で存在していさえすれば他のどの使用価値ともまったく同じものとして通用する。

あるいは、老バーボンが言うように、

「一つの種類の商品は、その交換価値が 同じ大きさならば、他の種類の商品と同じである。同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには、いかなる相違も区別も実存しない」。
使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、一原子の使用価値も含まない。

(八)「一つの種類の商品は、その交換価値が 同じ大きさならば、他の種類の商品と同じである。同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには、いかなる相違も区別も実存しない。 :100ポンド・スターリング
の価値がある鉛または鉄は、100ポンド・スターリングの価値がある銀および金と同じ大きさの価値をもっ」(N・バーボン、前出、五三ページ、七ページ 〔最初と最後の文は五三ページ、中間の文は七ページから引用されている)。

そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残っているのは、一つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。しかし、労働生産物もまたすでにわれわれの手で変えられている。

もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば、われわれは、労働生産物を使用価
値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性状はすべて消し去られている。

それはまた、もはや、指物労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格とともに、労働生産物に表わされている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまたこれらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、互いに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間的労働、すなわち抽象的人間的労働に還元されている。

そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。

これらの物が表わしているのは、もはやただ、それらの生産に人間的労働力が支出されており、人間的労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値―商品価値である。
(53) 諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現われた。そこで、労働諸生産物の使用価値を現実に捨象すれば、いままさに規定されたとおりのそれらの価値が得られる。

したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表わしている共通物とは、商品の価値である。研究の進行は、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値に我々を連れ戻すであろうが、やはり、価値は、さしあたり、この形態から独立に考察されなければならない‥66ページ2行目まで

2021年10月25日月曜日

第33回 資本論の学習 第1篇 商品と貨幣 第1章 第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値(価値の実体 価値の大きさ)p621行目~63末まで

 第33回 資本論の学習 第1篇 商品と貨幣 第1章 第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値(価値の実体 価値の大きさ)p621行目~63末まで


それは、時と所とともに絶えず変動する関係である。それゆえ、交換価値(51)

は、なにか偶然的なもの、純粋に相対的なもののように見え、したがって、商品に内的な、内在的な、交換価値(固有価値)というものは、一つの形容矛盾"に見える。事態を、もっと詳しく考察してみよう。


(六)「価値とは、ある物と他の物とのあいだに、ある生産物の一定量と他の生産物の一定量とのあいだに、成立する交換関係である」(ル・トローヌ『社会的利益について』、[所収】デール編『重農主義学派』、パリ、一八四六年、八八九ページ)。


(七)「どんな物も内的な交換価値というものをもつことはできない」(N・バーボン、前出、六ページ)。あるいは、バトラーが言っているように、

「ある物の価値は、ちょうどそれがもたらすであろうだけのものである」。


*1 [「丸い三角形」のように、そのものの概念に矛盾する形容詞がつくこと]


*2 [一七世紀イギリスの諷刺詩人サミュエル・バトラーの詩『ヒューディブラス』、第二部、第一歌、四六五ー四六六行の言い換え]


ある特定の商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などと、要するにきわめてさまざまな比率で他の諸商品と交換される。


だから、小麦は、ただ一つの交換価値をもっているのではなく、いろいろな交換価値をもっている。


しかし、x量の靴墨もy量の絹もz量の金なども、どれも一クォーターの小麦の交換価値であるから、x量の靴、y量の絹、z量の金などは、互いに置き換えうる、または互いに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。


それゆえ、こういうことになる。第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。


しかし、第二に、交換価値は、一般にただ、それとは 区別されうる ある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。


* 〔イギリスの体積単位。一クォーターは八英ブッシェル。約二九二リットルにあたる]


さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。それらのものの交換比率がどうであろうとも、この比率は、つねに、ある与えられた分量の小麦がどれだけかの分量の鉄に等置される一つの等式、たとえば、1クオータの小麦=aツエントナーの鉄によつて表される。Iこの等式はなにを意味するか? 同じ大きさの一つの共通物が、二つの異なった物のなかに、すなわち一クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、実存するということである。


したがって、両者は、それ自体としては一方でもなければ他方でもないある第三のものに等しい。したがって、両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第三のものに還元されうるものでなければならない。


* [ドイツの質量単位。一ツェントナーは五Oキログラム]

簡単な幾何学上の一例がこのことを明らかにするであろう。およそ直線形の面積をはかり、比較するためには、それをいくつかの三角形に分解する。


三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現―底辺×高さ÷2 ーに還元される。これと同じように、諸商品の諸交換価値もある共通物に還元されて、諸交換価値は、この共通物の多量または少量を表わすことになる。




注目

『資本論』の学習第234回第3巻資本主義的生産の総過程第1部第5篇利子と企業者利得地への利潤の分割。 利子付き資本第25 章 信用と空資本

  5 資本論第3巻第5篇・第25章「信用と空資本」は、資本主義が高度に発展した段階で現れる** 金融の仕組みと“見かけの資本”**を分析する重要な章です。少し抽象的ですが、現代の株式市場 やバブル経済を理解する鍵にもなります。 ■ 全体のテーマ この章の核心はシンプルに言うと:...

また来てね